冒険者-09
陽は沈み、王国は夜を迎えた。
しかし、城下も王宮も闇に包まれることはない。
町に街灯があるように、王宮にも広間を中心にいくつかの魔力の灯りが備え付けられていた。
それらは今も効力を保ち、王宮の各所を仄暗く照らしている。
冒険者たちの内中年組は兵士の詰め所跡、姉妹組は台所跡で休んでいる。
怪我人三人はじくじくと響き続ける痛みで眠るのに苦労していたが、唸りながらもじきに痛みの中眠りへ落ちていった。
そんな中、一人謁見の間の玉座に寄りかかってまどろむハンス。
目覚めているのか、眠っているのか自分でも分からないほどぼんやりとした意識の中。時計の音だけが、暗示でもかけるかのようにハンスの頭に刻まれ続けている。
まどろむハンスの反対側には骨が五つ。遺骨と、玉座と、時計たち。常人ならば到底気など休まらぬであろう状況で、ハンスは穏やかに眠りの境を行き来していた。
それもやがて、眠りへと引き寄せられていく。
乱れ鳴く時計の響きを子守歌にして、ハンスは緩やかに眠りに落ちた。
眠り始めたハンスは、夢を見る。
: :
かちゃかちゃぽろぽろかろんかろん。
幾重にも重なる時計の音を背景に、ハンスの脳裏に景色が映る。
夢の景色に映るのは、かつてのレールエンズの王宮。竜神を司る色である緑を基調とした華やかな装飾に彩られていた王宮の廊下には、何人ものメイドや兵士、それに文官が口元を血で汚し横たわっている。
そんな死屍累々の廊下を、一人の男が走る。
レールエンズ国王だ。
その胸に顔を青ざめさせ、意識も無くぐったりしているクリスティーネ王女を抱えながら、国王は一人王宮を走っていた。
廊下を通り抜け、階段を降り、誰もいない謁見の間の奥、泉に繋がる隠し通路を開く。
途中国王は一度激しくせき込み、口元を黒ずんだ血で汚した。
袖で乱暴に拭い、再び姫を抱えて螺旋階段を降り始める。
辿り着いた地下広間の風景はハンスが知るものと変わり無く、薄暗い明かりの中竜をかたどった装飾がぼんやりと浮かび上がっていた。
その泉の中に、国王はそっと姫を横たえた。泉の水に浸かった姫が真っ青な顔のまま、瞼を弱々しく開いた。
虚ろな薄茶色の瞳が、国王の顔を捉える。
(お父さま)
今にも消え入りそうなほど震える声音で、姫は呟く。
国王はそれまでの真剣且つ苦しそうな堅い表情を緩め、穏やかな笑顔で姫に微笑みかけた。数度何かを呟き、青ざめた頬を撫でる。
(行かないで)
姫の二度目の呟き。しかし言葉は届かず、国王は頭を振って姫を撫でる手を離した。
泉から離れかけた王。だが、その途中で何かに気づき、泉に横たわる姫服の胸元を少しだけはだけた。
そこにいるのは、小さな苔色の蛇。姫同様すっかり弱り切り、身体を縮こめて丸くなっている。
その蛇はハンスにも見覚えがある。姫がどこからか捕まえてきて、それ以来彼女のペットになっている蛇だ。
名前は、オアミィ。
蛇にしては頭が良く人に懐くこと。そして、竜神信仰において蛇は竜神の遣いとして神聖視されていること。その二つの理由から、レールエンズにおいて極めて神聖な生き物とされている、珍しい種類の蛇だ。
姫がオアミィを捕まえ懐かせた時は国中がその話で持ち切りになったのを、ハンスはよく覚えていた。
姫の懐にいるのがその蛇だと分かった国王は、そっと開いた胸元を元に戻した。
今度こそ泉から離れ、距離を取る。
再び激しく咳をしながらも、王は何かの呪文を詠唱し始めた。大きな魔法陣が現れ、光り輝く泉。
泉から溢れた白い魔力の光は姫を、広間を、王を包み、そしてハンスの色褪せた夢の視界をも覆い尽くした。
そこで、夢の景色は一端途切れる。
: :
目を覚ました姫が、ぼんやりと薄目を開けた。
暫くの間天井を胡乱な目で眺め、やや間を開けて弾かれたように泉の中で起き上がった。
訝しげな顔で、姫は自身の手やずぶ濡れの服を見比べていく。
彼女の肌は生気が失われ白く変わり、周囲にはごく薄い魔力の白靄が漂っていたが、姫は自身の変化には気づかない。
泉から出て、薄暗い地下広間を歩き出す姫。
濡れた足跡を残しながら、やはり違和感を拭えない表情のまま螺旋階段を登り始めた。
その歩みは健康そのもので、国王の懐で顔を青くして死にかけていた時の名残はどこにもない。
だが、やはりそのことには意識が回っていないようだった。
階段の終点に辿り着き、閉じられた隠し通路を力を込めてゆっくりとずらしていく。
長い時間をかけて通路を半分ほど開いた所で、姫は咄嗟に左手で自身の鼻を押さえた。眉を寄せ、不快感を露わにして開けた地上へと目を向ける。
暫くの間姫は不愉快さと不可解さの表れた顔で鼻をつまんでいたが、やがて意を決して鼻を押さえたまま梯子を登り始めた。
梯子を登り終え地上に出た姫が、地面に屈み大きく口で息を吐く。
座ったままの姿勢で謁見の間の中を見回したが、その位置からでは狙い澄ましたかのように玉座の背が邪魔になり、部屋の全景はろくに見渡せない。
鼻をつまんだまま口で一呼吸してから、すっくと立ち上がる姫。
そうして彼女は覚悟も身構えることも一切出来ずに、謁見の間に広がっていた光景を見ることとなった。
死体、死体、死体。
謁見の間に積み重なる、大量の死体たち。
顔見知りの死体が、服を着た生乾きの死肉が、愛する国民の無惨な姿が謁見の間に、所狭しと敷き詰められていた。
身体は大きいのに気弱で心優しく、よく姫に悪戯をされていた若い兵士。
その姫の悪戯を叱り、そして叱った後には決まって小さな菓子をくれた老いたメイド。
天性の腕前で、誰もが見惚れる美しい硝子細工をいくつも作り出した硝子職人の娘と、彼女が作った硝子を使い精巧な細工時計を作っていた寡黙な時計職人の父親。
姫がよく知りそして愛していた国民たちの、残酷な現実がそこにあった。
半ば不意打ちのような状況でそれを視界に収めた姫は、たっぷり三分間、目を逸らすことも出来ずその場に立ち尽くしていた。
玉座のすぐ後ろに立つ姫。
その姫が、それに気づいてやおら視線を下に逸らし始める。遅々とした動きで、彼女の視線が玉座の上のそれへと向かう。
まず目に入ったのはうなじ。
玉座に座り、力無くうなだれるそれの乾燥しかかって張り詰めた首の皮。肩や背中を覆う服は染み出した何かで色濃く汚れ、元の色が何だったかはとても判別出来そうにない。
首筋から後頭部、耳と視線を経由して、ようやく姫はそれを見た。
玉座の上に乗るそれの、頭頂部に乗る薄緑色の輪。
竜鱗石で作られた、レールエンズ王国の王冠。
玉座にかかっていた姫の右手に無意識の内に力が込められ、ほんの少しだけ玉座が揺れる。
その動きは本当に小さなものだったが、それだけでバランスを崩した玉座の上のそれが、床へ崩れ落ちた。
産まれて十年、毎日欠かさず見続けていた愛する父親、レールエンズ国王。
その変わり果てた、変わり果てていながらはっきりとかつての名残を残した、腐乱死体。
姫の胃が痙攣し、中身がせり上がる。思わず鼻を押さえていた左手で口元を押さえかけ、逆に塞いでいた鼻が開かれたことでその勢いは決定的なものとなった。
膝立ちになった姫が吐瀉物を吐き散らし、俯き口元を汚した姿勢のままで喉を振り絞って絶叫した。
瞼を、口元を引き千切れんばかりに大きく開き、パニックに陥って両手で顔を掻き毟る。爪が頭皮に食い込み、爪と指の間に血が挟まるがその動きは収まるどころか激しさを増していく。
頭を振り乱した姫が再び謁見の間に広がる死体の山を視界に収め、彼女の中の恐慌は最高潮に達した。
過呼吸に陥り、壊れた笛を闇雲に吹き鳴らすような雑な呼吸と共に胃と肺の中身を全て吐き戻し、それでも胃は震え絞り上げられる。
絶叫しながら玉座の裏の隠し通路に飛び込み、足を挫きながらも姫は叫び、階段を駆け降りていく。
顔を様々な液体でぐしゃぐしゃにに汚し、途中何度も転んで体中痣と傷を作り、それでも叫ぶことを止めずに姫は走った。脳裏に焼き付いた光景を、振り切ることが出来ないまま。
あらゆるものを縺れさせながら姫は地下広間に逃げ戻り、泉の中に飛び込んだ。
水中に沈みながらも叫び続け、音の籠もった慟哭が水中から響く。
水中で発される、姫の強烈な感情。認めたくない現実。それに呼応するかのように、泉の魔力が白く輝き始めた。
白い光は再び姫を包み、地下広間中を覆い尽くしていく。
: :
三度目の目覚めは、闇の中。
灯っていた明かりが消え、暗闇に染まった地下広間。
そこで、姫がゆっくりと上半身を起こした。身体を覆っていた魔力の白靄は更に強まり、人型を成した靄だけが闇の中に映っている。
起き上がった姫は淀みない動きで立ち上がると、泉を出て地上へ向けて歩き始めた。一面真っ暗闇にも関わらず、泉の縁に足を取られることも無ければ、行き先に迷う素振りも無い。
静かに、止まることなく階段を登る姫。
やがて地上からの光が漏れ、靄に包まれた姫の身体をうっすらと照らし上げる。
その髪も瞳も、灰色に濁り切っていた。
特に瞳は、とても視力があるようには見えないほどの濁り具合だ。
階段を登り終えた姫は迷うことなく、表情を変えることもなく梯子に手をかけた。半開きのままの穴をくぐり、地上へと辿り着く。
謁見の間に広がっていた死体は、既に殆ど乾いてしまっていた。皮と骨だけになった国民たちが、今も変わらず転がっている。
しかし姫はその光景を見ても、恐怖に駆られることも無ければ悲しみに暮れることも無かった。
ただ一度だけ、不思議そうな顔で首を捻っただけだ。
床に転がる国王だったものに手をかけ、ゆさぶりながら何かを呼びかける姫。
当然、死体は喋らない。
しかし彼女はそれに気づかないかのように、まるでそれが、死体ではなくただ寝転んで眠っているだけだとでも思い込んでいるかのように、眠っている父を揺さぶり、起こそうとする。
何度揺すっても死体が起きることはなく、やがて姫は諦めて立ち上がった。かと思えばすぐ近くで崩れ落ちている別の死体に手をかけ、同じように起こそうと揺さぶり始める。
一人揺さぶっては諦め、また別の死体を揺さぶっては諦める。
彼女の試みは謁見の間に転がる計二十四人全員に対して行われ、最後の一人を諦めた姫は国王の死体の横で膝を曲げて座り込んだ。
ここで、姫は自身の胸元に眠る大切な友人の存在に気付いた。懐を開き、その中へと目を向ける。
オアミィは相変わらず、姫の懐の中でとぐろを巻いて眠っていた。だが、かつての姿とは決定的に異なる部分がある。
白い。
本来深緑の、暗い色をしていた筈のオアミィ。しかしそれが今では姫の髪や瞳のように、白に近い薄灰色に変わっていた。目の色も変わり、一面同じ色だ。
懐をまさぐられたことで、眠っていたオアミィが目を覚ました。
懐に入れられた右手を伝い、白蛇が姫の顔に近づく。至近距離で姫の視線と、蛇のどこを見ているのか分からない独特な目が交わる。
(ねえオアミィ、皆眠ったまま起きないの。どうしてかしら)
蛇の色の変化などまるで気にかける様子も無く、姫は白蛇へと語りかけた。
蛇は小揺るぎもせず、無機質な顔をじっと姫に向け続けている。
(お父さまも眠ったままだし、病気か何かなのかしら……。でもわたしたちには何も起きてないみたいだし……)
殆ど独り言同然に、姫はオアミィへと語りかける。
(このままだとよくないわよね。とりあえず、わたしたち以外に起きてる人がいないか、探しに行きましょう)
姫が立ち上がり、死体の山を抜けて謁見の間の扉へと手をかける。
その間ずっと、オアミィは静かに姫の顔を見つめ続けていた。
: :
その後。姫は王宮内を歩き回り、そこにあったほぼ全ての死体に対して同じように呼びかけ揺さぶり、更に城下に降りて同じことを行った。
当然成果など何もなく、姫はうなだれた様子で王宮の二階、王妃の自室のベッドにもたれ掛かっていた。
(お母さまもお父さまも、皆眠ったままだわ……)
姫が虚ろな視線を、ベッドの上で事切れている王妃へと投げかけた。
枕元や亡骸の口元は、赤黒い血痰で盛大に汚れている。
(わたし一人で、これからどうしたらいいの……?)
膝を丸め、俯きかけた姫。その暗く沈んだ視線の端に、見慣れた一つの物が映った。
竜鱗石で出来た、竜神を模した装飾の短剣。
王族に代々伝わる、儀礼用の飾り刀だ。
視線をその短剣に固定したまま、姫が立ち上がった。
部屋の隅にある棚の前までふらふらと歩み寄り、鞘に収められ飾られた短剣をその手に握る。
短剣の鍔には、竜神を模した精密な装飾。翼を畳んだ竜と見つめ合う内、沈んでいた姫の顔が少しずつ、決意を帯びたものに変わっていく。
(……そうよ。わたしはレールエンズ王国の、王女。王族の役目は国を治めること。お父さまとお母さまの代わりに、わたしがなんとかするのよ。竜神様はきっと見ていてくださる。竜神様が、きっと助けてくださるわ……!)
短剣の鞘を強く握り締め、姫は王女としての使命感と、決意に燃えた。
それが過ちの始まりであることを、指摘出来るものは誰もいない。
: :
長い長い試行錯誤の始まり。
地下広間の闇の底で、白い靄のような魔力だけが蠢き輝く。
泉が光り、その中で横たわる小さな子供の亡骸に光が注がれた。しかし光はすぐに霧散し、後には姫と、白蛇の放つ靄だけが地下広間に残る。
そして暫くしてから、同じ光景が再び広がる。
姫は繰り返す。国を襲った、眠り病を治す為の呪文を編み出す為に。
姫には気付けない。その手法が、死者を動かす死術であることに。
闇の中で続く長い長い時間の中で、蛇だけがその歪な試みを見つめ続けていた。
: :
それから、どれだけの時間が経ったか分からない。闇の中に時間の経過など無く、姫と蛇には飢えも無ければ、少女にあるべき成長の兆しも無かった。
(……出来た)
白い魔力の光だけが明滅していた地下広間に、姫の静かな、達成感の籠もった力強い言葉が反響した。
言うやいなや姫は泉から立ち上がり、闇の中を駆ける。
その腕の中に、とっくの昔に骨だけになった子供を抱えながら。
階段を駆け抜け、闇の底を這い上がり、いつぶりか分からないほど久々に地上へと上がった姫。
謁見の間に転がっていた死体たちは皆乾き切った白骨と化しており、壁にもたれ掛けてあった。
国王も同様に骨に変わり、玉座に力無く横たわっている。
その腕には、薄緑の王冠が寂しげに引っかけられていた。
抱えていた子供を壁に横たえ、姫は玉座に座る父の躯へと正面から向かい合った。両手を突き出し、魔力を注ぐ準備を始める。
その時。
姫の服の袖を、オアミィが牙を立てて噛みつき引っ張った。
その行為は明らかに、姫の手を留まらせようとしているかのような動きだ。
(オアミィ、何するの? 邪魔しちゃ駄目よ、後で遊んであげるから)
姫が軽く笑い、袖に噛みつく蛇を引き剥がして懐に収めた。白蛇は激しく抵抗していたが、それもただの時間稼ぎに終わる。
再び姫が両手を突き出し、国王の躯へ魔力を注ぎ始めた。
白い光が姫の手から漏れ、白骨死体へと注がれる。
死体が輝き、その指先がぴくぴくと小刻みに震えた。始めは動いているのかどうか分からないほど小さく、やがて震えは大きくなり、最終的に玉座を揺らすほど大きな痙攣へと変わる。
白骨と化した国王に、意識が戻った。
(お父さま、目が覚めたのね! ずっと眠っていたのよ、大丈夫?)
両手を合わせ、心底嬉しそうに父親へと呼びかける姫。
しかし、国王は何も喋り返すことは出来ない。
骨だけになった下顎をがちがちと震わせ、それから右手を姫へと伸ばしかけ、バランスを崩して床へと崩れ落ちた。
姫が驚き手を差し伸べたが、骨は動きもままならず全身を激しく痙攣させるばかりだ。顔だけが、姫の方へと向いていた。
(お父さま、落ち着いて。きっと長い間眠っていたから身体の動かし方を忘れてしまったのよ。ゆっくりでいいの、ゆっくり慣らしていきましょう。ほら、お父さまは王様なんだから、玉座に座らないと)
痙攣する白骨を抱え上げ再び玉座に座らせると、姫は床に転がっていた王冠を拾い上げて頭蓋骨の上に乗せた。
未だ震えながら下顎だけをびくつかせる白骨から、距離を取る姫。
(ちょっと待っていてね、お父さま。先に国民の皆を起こさないといけないわ)
姫が、壁にもたれる子供の骨の前へとしゃがみ込む。
国王はその姫へと手を伸ばしかけたものの、骨の身体はろくに動かすことも出来ない。何か伝えようにも、喉はとうの昔に無くなっている。
動くことを諦め、顔だけを向けて顎をかちかちと鳴らす国王の骨。その様を、オアミィが姫の懐から見つめていた。
表情の伺い知れぬ蛇の顔に、どことなく何かの感情を纏わせながら。
: :
姫が国王をアンデッドとして蘇らせてから、五日が経過した。
姫は予定通り全ての国民を目覚めさせ、そしてアンデッドとして目覚めさせられたほぼ全ての者たちが、国王同様身悶え嘆き苦しむこととなった。
だが姫はそれを認識することが出来ず、目覚めて尚意志の疎通が出来ぬ国民たちに首を捻るばかりだった。
: :
姫が白蛇を伴い、城下を歩く。
人による手入れが成されず、風化の進み始めた城下町。
見渡せば、そこかしこにうなだれた白骨が座り込んでいる。
道の隅に座る骨たちを見て、姫が愛嬌ある仕草で頬を膨らませた。
(もう、皆ちゃんと動けるようになったでしょ? しっかりしないと駄目よ。竜神様に怒られても知らないんだから)
姫が明るい口調で窘めるが、絶望しきった国民たちは皆動かない。
姫もやがて諦め、骨から視線を外した。
(それにしても、草が皆枯れてしまってるわ。どうしてかしら)
瑞々しい緑を湛えた雑草や樹木を眺め、姫が呟いた。
左右を見回しながら、歩みは続く。
姫の視察という名の散歩が、二十分も経過した頃。
横を向いていた視線を前に戻した姫が、あってはならぬものを視界に捉えた。
生きた人間。
レールエンズの崩壊を知って真っ先に駆けつけた、無鉄砲な火事場泥棒の冒険者一行だ。
姫が彼らに気付いたと同時に、彼らも姫に気付いたようだった。目を丸くし、一団は姫を凝視した。
やや間を開けてから、その内の一人が口を開く。
「なんだ、生き残りがいるじゃないか。それもそのティアラ、お前は……」
言い終えるより先に、姫が目を剥いて絶叫した。即座に身を翻し、叫びながら一団から逃げ始める。
その様は奇しくも、かつて姫が謁見の間に並ぶ死体の山を見た時と非常によく似ていた。
「あっ、おい待て!」
逃げる姫を、半ば条件反射で追いかけ始める冒険者たち。気力の無いアンデッドたちの転がる城下町の中、姫と一行の追いかけっこが始まる。
しかし、荷物や疲労というハンデがあったとしても所詮は大人と子供。姫はすぐに追いつかれ、民家の壁へと追い詰められた。
パニックで過呼吸になりながらも引き攣った絶叫を続ける姫と、壁を背にへたり込んだ姫を囲う冒険者。
(嫌っ、止めて! 来ないで!)
「おい、何で逃げたんだお前、何でお前だけ生きてるんだ?」
(来ないで、来ないでぇーっ、アンデッドが、アンデッドがああーっ!)
「落ち着け、落ち着けって! アンデッドどもは何故か知らんが襲ってきていないだろうが!」
姫を問い詰める彼らには分からない。姫の言うアンデッドが、自分たちを指していることに。
喉を振り絞り泣き叫ぶ姫。
その叫びは冒険者を拒絶する言葉から、次第に竜神に助けを求める言葉へと変わっていく。
涙を流し、天を仰ぎながら、神に縋る少女。
恐慌状態で叫び続ける姫に痺れを切らした冒険者の一人が、強引に姫を押さえつけにかかった。片手で姫の両手を押さえつけ、もう片方の手で姫の喉元を締めて絶叫を塞ごうとする。
「おい止めろ、この子はおそらく唯一の生き残りで、生きてる人間だぞ!」
「黙らねえんだから仕方ねえだろ! このまま一旦締め落として落ち着かせりゃいい! それどころか殺してこの頭のもん取っちまった方が都合いいだろうが!」
男の手に力が入り、姫の喉が強く押し潰された。
潰れかけの喉でうめく姫の、恐怖と危機意識が最高潮に達した。
身体を覆う魔力の白靄が激しく明滅し、彼女の心に浮かんだ強烈な感情に反応し始める。
涙を流しながら、神に助けを求める姫。
それに答えたのは、神でもなければ人でもない。
オアミィだ。姫の懐に収まっていたちっぽけな蛇が、一直線に男の顔へと飛びかかった。
「うおっ、何」
突然飛び出してきた蛇に驚いて叫びかける男。
それが、彼の最期の言葉になった。
懐から飛び出した白蛇が、大口を開けたその口から内部へと滑り込む。
本人がそれに気付いた時には、既に体内から肉体をずたずたに引き裂かれた後だ。
状況を理解出来ない冒険者たちが驚愕し呆気にとられる中、かつての仲間だった男の挽き肉が粘土のようにこねられ始めた。皮が内側へめり込み、骨が砕けて挽き肉に混ぜ込まれ新しい形を作る。
その様を冒険者の誰もが恐怖と驚きで見つめ、姫だけはその状況に気付くことなくうずくまって震えていた。竜神へ捧げる祈りの言葉を、うわ言のように唱え続けながら。
その場で再構成されかけていた作りかけの肉細工が、突如何の前触れも無く肉の触手を伸ばして近くにいた別のメンバーの足に巻き付いた。
反応するも即座に引き倒され、抵抗虚しくあっという間に材料に変わる。
一人追加で殺されてから、ようやく肉細工から距離を取る冒険者たち。恐怖で顔を引き攣らせながら、蠢く肉を睨みつけている。
姫の祈りが木霊する中。二人分の材料を得た肉が、成形を終えた。
長い紐状の胴体と、二対の短い足のような突起。
そして、申し訳程度に伸ばされた生皮の翼。
まるで子供の粘土細工のような不格好さだが、それでも何を模したのかはその場にいる誰の目にもはっきりと分かる。
「ド、ドラゴン……」
冒険者の一人が呆然と呟き、それから横目で壁際にいる少女へ視線を向けた。
姫は未だに、震えうずくまり竜神に祈るばかり。目の前で起きていた光景に、気付いてすらいない。
出来損ないの竜が、出来立ての喉を震わせて激しく吠えた。
生物の声とは思えぬ奇怪な遠吠えでびりびりと空気を揺らし、メンバーの一人が明確に慄いて立ちすくむ。次の瞬間には、その一人は喉を噛み切られて殺されていた。
その後はただの虐殺だ。恐怖で逃げ惑う冒険者を、一人ずつ追い詰めては殺していく。殺す度に死体の肉を使って大きさを増し、五人いた冒険者全員を殺した後にはその大きさは相当なものに変わっていた。
新鮮な死肉で出来た出来損ないの竜が、地面に丸まりしゃくりあげる姫の元へと戻った。
ぶふぅ……おぅ……。
悲しげな声で竜が鳴き、何かの液体で濡れた鼻先で姫の頭をくすぐる。その途端恐怖に染まった顔を跳ね上げ、至近距離で姫はその存在を目にした。
少女の顔が恐怖から、安堵と歓喜に変わっていく。
(竜神様! 竜神様だわ! 本当にわたしの元に舞い降りてくださったのね! わたしを助けてくださったのね!)
満面の笑顔で何かが滴る首根っこに手を回し、姫は頬をすり寄せた。服や髪に滴る何かが染み着いていくが、少女は一切お構いなしだ。
愛する主人の抱擁に、されるがままの出来損ないの竜。
その心に満ちた感情を、測れる者は誰もいない。
: :
(やっと終わったね、オアミ、じゃなかった、竜神様。……未だに慣れないわ、オアミィが本当は神様の遣いじゃなくて、竜神様そのものだったなんて、ふふ)
姫が笑い、自身の横に並び立つ竜の胴に指を這わせた。
すっかり腐って変色した竜の鼻、ゴムのような高密度の腐肉で出来たその穴から、体温の無い冷たい息がわずかに漏れる。
彼女らがいるのは謁見の間。アンデッドと化した死体がいなくなり、がらんとしていたその空間。
そこに今並ぶのは、いくつもの時計たち。
壁に並ぶ掛け時計。
床に散らばる置き時計。
玉座に控える柱時計。
大きさも古さも装飾もまるで異なるその時計たちが、喧しく時を刻み続けている。
(国民の皆やお父さまとお母さまが眠り病の後遺症から回復して、王国が元に戻るまではわたしたちがこの国を治めるのよ。だからわたしが、今は王様)
腐肉の竜から手を離し、姫は薄緑の、翡翠と竜鱗石で飾られた玉座の上にそっと腰を下ろした。
頬杖を突き、足を組んで、子供ながらに精一杯偉そうな格好を取る。
(うむ、柱時計兵士よ。余のことを守るのだぞ。掛け時計職人よ。薬と巻物、それに硝子細工の生産ペースはどうなっておるかね? 置き時計メイドよ、王宮の掃除は任せるぞよ)
その様は、まるで子供のごっこ遊び。言い終えてから姫は一人ぎこちなく笑い、背もたれに体重を預けて天井を仰ぎ見た。
(……それから、年計り時計よ。あの日から、一体何年経ったかね? 余の大切な友達は、余の……いえ。わたしの、わたしの大切なハンスお兄ちゃんは、あと何年で帰ってくるのかしら)
姫が立ち上がり、玉座の周りに立ち並ぶ柱時計、その内の一つの前に立った。
時を刻む柱時計の、時刻を表す文字盤の下。そこには年月日を示すパネルが付いている。
時計が示す年は、ハンスが戻る予定の年にはまだ遠い。若干気落ちした顔で、玉座へと戻る姫。
(……ハンスお兄ちゃん。わたしも、王女としてちゃんとやるから。自分の役目は、ちゃんと果たすから。だから、早く戻ってきてね。戻ってきたら、魔法学校で覚えてきた呪文を見せてね、それから、わたしの頭を撫でて、わたしのこともいっぱい褒めてね……。わたしも、オアミィも、待ってるから……)
睡魔に微睡むかのような虚ろな目で天井を見ながら、翡翠の玉座に座る姫が寂しげに呟く。
竜がずりずりと腹を滑らせて、主の周りを玉座ごと包み抱くように囲んだ。
ぐふぉ……ぉぅ……。
竜が頭を寄せ、姫の身体に愛おしげに擦り付いた。
生気の無い真っ白い首筋を、鼻先でつつく。
その仕草は、精一杯の愛情を込めた不器用な口づけのようだ。
視線を向けぬまま、姫は左手で竜の頭を撫で返す。
既に死んだ筈の国で、彼女たちだけが鼓動を刻み続ける。
: :
以降の夢の景色は、だんだんと加速を始める。
現実の見えぬ姫と、何も語らぬまま静かに付き従う出来損ないの腐肉の竜神。
光の消えた街灯に魔力を灯し、国中の床や壁に飛び散っていた赤黒い何かの汚れを掃除し、王国中から「死」を取り除く。
地に根付く何故か成長を続ける枯れた植物。
周辺に住み着く、死んでいる筈なのに動く獣や亜人たち。
王国に侵入する、サンベロナからの調査隊を自称するアンデッドの一団。
その全てを腐竜は撃退し、そして撃退したら何故か眠れる生者と変化した元アンデッドを姫は目覚めさせる。
目覚めた生者たちはやはり身悶え、嘆き、姫に何か伝えようとするがそれも叶わず、絶望に染まって城下に転がっていく。
あくまで心は清らかな王女のままに、歪な認識と、歪な身体の中で。
やがて時が経ち、王国の周囲から完全に死が取り除かれ、王国に侵入するアンデッドも殆どいなくなる。
それでも。
彼女たちの時は進まず、彼女たちの夜は開けることもない。
彼が戻るその日まで。姫と竜は、死者の悶え泣く王国をたった二人だけで守り続けたのだ。




