26 五日目
予想通り、怪我を完治させた獅子頭は再び姉妹の前へと降り立った。
巨大な口を半開きにして牙を剥き出しにし、全身の毛が震えて逆立っているかのような静かで激しい怒気を露わにしている。
ううう……と野太い声で唸る姿は、誰が見ても激怒していると分かるだろう。
事実、獅子頭は今までの生の中で最も大きな怒りに包まれていた。
その怒りの根源はすなわち、誇りと驕り。
目の前の小さい生物を、一度は確実に下し、勝利したのに。
自身が上である筈なのに、今はこうまで苦戦させられている。
弱者認定した獲物に手玉に取られているという事実が、獅子頭の魔物としての誇りをこれ以上ないほど傷つけているのだ。
怒りに染まった獅子頭が、充血する目を見開いて呪文を放った。
石畳が弾け飛ぶほどの激しい火線は、まるで迫り来る爆発のよう。
姉妹は互いに手を伸ばせば届く位置を保ったまま横跳びで避け、即座に体勢を立て直して飛びかかってくる獅子頭の迎撃に入った。
やはり狙いはアーサーだ。
ちょこまかと周囲を飛び回り、鬱陶しい妨害を行う蚊のごとき相手。
刺激物を警戒した獅子頭は頭から飛びかかるのではなく、上を取って胴体で叩き潰す戦法を取ったようだった。
長身の妹の全身を獅子頭の影が覆い、直後に轟音を立ててトン単位はあるであろう巨体が落下してくる。
アーサーは落下を転がって避けつつ、避け際に懐から長さ十数センチほどの毒針を取り出して獅子頭の左中足に突き立てた。
麻痺毒の塗られた円錐の針が、獅子頭のブラシのような体毛の奥の皮膚に数センチ刺さる。
しかし獅子頭は毒針の一刺しを意にも介さず横回転して尻尾でアーサーを薙ぎ払うと、針が刺さった左中足を呪文で焼いてから回復呪文で治して見せた。
毒針への対処法としては実に手早く確実なやり方だ。
一方、獅子頭の尾はまるで鋼鉄の鞭のようなしなりと威力があり、アーサーは盾で防いだものの量産品の盾には尾と全く同じ形の陥没が出来ていた。
勢いも殺しきることが出来ず、吹き飛ばされて五メートルほど石畳を転がっている。
すぐに体勢を立て直したもののふらつきが残っていた。
そこへすぐさま追撃を仕掛けようとする獅子頭と、間に割り込むピエール。
射出された氷柱を鎖付き鉄球が容易く打ち砕き、自身へ迫る鉄球を獅子頭は更に大量の氷柱を飛ばして力業で地面へ叩き落とした。
至近距離でピエールと獅子頭の視線が交錯する。
獅子頭は激しい雄叫びを放とうと魔力を喉元に集中させて。
ピエールは右足を振り上げて獅子頭の喉元を蹴り上げた。
ぐぬ゛う゛っ、と鳴いた獅子頭が息を詰まらせ、息と魔力を吐くのが一瞬遅れる。
ピエールは右足を天高く振り上げた姿勢のまま、曲芸じみた体術でぐるんと空中で一回転し地面にめり込んでいた鉄球を再度振り上げた。
ごしゃっ。
砕ける下顎、飛び散る血と歯。
地面に半分埋まっていた鉄球は弾かれるような勢いで飛び上がり、獅子頭の下顎を喉元から砕き散らし宙へと舞った。
そのままでは雄叫びどころか息すら出来ない致命傷だ。
しかし獅子頭の心は折れてはいない。
顎を砕かれながらも、怯まず右前足を振り上げた。
狙いは鉄球。
まるで家猫が跳ねる布球を叩くかのように右前足で鉄球を殴りつけ、爪を折りながらもピエールの持つ鎖付き鉄球を弾き飛ばしたのだ。
弾かれた鉄球は遙か遠く、炎上する建物の壁を貫き、最早手の届く位置にない。
これで目の前の相手は、再び有効な攻撃手段を喪った。
あとはじっくり怪我を治してから反撃すればよい。
「姉さん、次!」
そう判断した獅子頭の目の前で、アーサーからピエールへ二本目の武器が投げ渡された。
長さ七十センチ程度のシンプルな剣が、ピエールの両手に握られている。
両腕を振り上げるピエール、その手に握られた剣。
頭上の刃を見上げる獅子頭の脳裏に、初めて何かが浮かんだ。
「だああああっ!」
逆手に握られた剣が渾身の力で振り下ろされ、獅子頭の前足を貫く。
刃が五十センチほど地面に突き刺さり、完全に地面に縫い止められた形になった。
足を自ら引き裂かねば、とても動くことは適わない。
だがその程度、引き裂いて脱出してから治せば済む話だ。
まだ治せばいくらでも挽回出来る。
足を裂いてでも飛んで離れて治しさえすれば。
距離を取って、治す。
そのことで頭がいっぱいな獅子頭の、身体の上に。
アーサーの手によって何かが被せられた。
網だ。
軽量金属で出来た鎖帷子のような投げ網。
この小さく手強かった生物と戦う前、町を攻めていた時の雑魚どもが使っていた道具の一つ。
確かに翼の上にこれを被されると邪魔で飛ぶことが出来ない。
だがこの網は強度は大したことがない。
自分の力で引き裂けばすぐに飛ぶことが出来る。
何度も網をかけられては裂いて飛び、群がる雑魚どもを殺してきた。
網を裂いて、足を裂いて、飛んで、治して。
そうすれば。
そうすればまだ挽回出来る。
そうすれば、まだ、挽回――
気づいた獅子頭の目の前に、それはあった。
自身の頭より大きな瓦礫の塊を抱え上げたピエールの姿が。
一体どこの建物から砕け落ちてきたのかも分からない、少女自身の体積すら上回る巨大な瓦礫。
ピエールが両手で抱え上げているそれは、間違いなく数百キロの重さがあるだろう。
それが今。
身動きの取れない獅子頭の頭上にあった。
獅子頭の脳裏で途轍もない速度で思考が回転する。
避ける。
出来ない。
吠える。
出来ない。
治す。
出来る。しかしそのまま振り下ろされるだけ。
氷柱。
出来る。しかし振り下ろされる方が早い。
火線。
出来る。しかし振り下ろされる方が早い。
出来ない、出来ない、振り下ろされるだけ、振り下ろされる方が早い――
一瞬の思考の果てに。
獅子頭の脳裏で、ようやくそれが確かな姿を持った。
もしかして。
もしかすると。
自分はこのまま死ぬのではないか。
: :
――回復呪文を操る魔物は、総じて非常に厄介な強敵である。
しかし彼らは回復呪文を操るからこその、致命的な欠点が存在している。
引き際を知らないことだ。
通常の魔物であれば分が悪いから戦いを避けるところを、怪我を治せるからと突っ張る。
治せるから大丈夫、と高をくくり、引き際を誤る。
その結果。
勝てない、と気づいた時にはもう遅い。
治せないほどの致命傷を負い、逃げることも出来ず、死ぬ。
回復呪文を操る魔物は、怪我を治せる強力な力を持ちながら、戦闘における実際の生存率は決して高くない。
致命傷を負い、回復呪文に頼り切りではいつか死ぬ、という危機感を現実のものとして痛感し、その上で運良く生き延びた一握りの者だけが慎重で老練な魔物として大成出来るのだ。
この獅子頭が生き延びるには、アーサーが合流する前に出し惜しみせず激しい雄叫びを活用し物理攻撃で押し潰すのが一番勝率の高いやり方だっただろう。
少なくともアーサーが戦闘に加わり潮目が変わったのを察した時点で、戦闘を止めて去るべきだった。
しかし自身の能力に慢心し、驕ったこの個体がその選択肢をとることは絶対になかった。
驕りのない個体ならば、そもそも逃げる魔物を追って南下することも、気まぐれに町を襲うという選択も取っていないのだ――
: :
詰み。
生の終わり。
死。
真っ黒な死そのものが、自身の頬をひたひたと撫でているのに気づいた。
見ないようにしていた自身の絶頂の瞬間の終わりが、空から降る隕石の姿で獅子頭の眼前に現れていた。
つい一分、いや三十秒も前までは、意識すらしていなかった死。
それが今やすぐ側にある。
それに気づいてしまった獅子頭は。
――あ゛……あ゛お゛ぅ……
媚びた。
身体を縮こめ、怯えた家猫が甘えた声を出すかのように媚びた。
最期に一矢報いる、という発想も無く、傷ついた喉を必死に振るわせて眼前の相手に媚び、魔物なりの精一杯の命乞いをしていた。
頭を下げて上目遣いのような体勢でピエールを見つめ、成体としての、強者としての誇りもかなぐり捨てて一心不乱に命乞いを続けている。
――に゛ゃ……お゛……う゛ん……
死にたくない。
死にたくない。
こんなところで死ぬつもりなんて――
どごぉん!
瓦礫による会心の一撃が獅子頭の脳天に突き刺さった。
頭蓋を砕き脳を潰し、頭の上半分があった場所に瓦礫が納まる。
脳機能を一撃で喪失した獅子頭は反射で動くこともなく、すん……と動きを止めた。
獅子頭は死んだ。
どんな傷でも即座に治した回復呪文の使用者は、あまりにも呆気なく、糸が切れるように即死した。
こうして地域一帯を騒がせた恐るべき怪物は。
凡百よくいる引き際を誤った愚かで哀れな魔物として、その命を散らすことになったのだ。
: :
「お姉ちゃんっ!」
瓦礫が獅子頭の脳天に突き刺さり動きが完全に停止したのを見届けてから、アーサーは弾かれるようにして姉の元へと駆け出した。
じっと獅子頭の屍を見下ろしていたピエールだったが、妹が近づいてくるのに気づくと満身創痍の顔で、力なく微笑んだ。
駆け寄ったアーサーが、溢れる感情のままにピエールを抱き締める。
怪我をしている小さな姉の身体を痛めないように、しかし長く苦しい旅の間に伝えられなかった、ありとあらゆる感情を乗せて。
ピエールも同じように、自身より背の高い妹の背中へ腕を回して抱き返した。
燃える建物と、巨大な魔物の屍を背景に。
傷だらけの小さな姉と病み上がりの大きな妹が、顔をすり合わせ、血泥に汚れながら抱き合う。
「お姉ちゃんっ、ああっ、良かった! 本当に良かった!」
「毒はどう? ちゃんと治して貰えた?」
「大丈夫です! あの後神教の神官が気配を頼りに私をすぐ見つけて、お姉ちゃんが戦闘していたのも察して、戦力になるからと優先して治させて、それで」
「そっか、良かった……頑張った甲斐が、あったかな……」
「お姉ちゃん、ああ、お姉ちゃん……、全部、お姉ちゃんが頑張ったから、お姉ちゃんが凄かったから何とかなったんですよ、お姉ちゃんが、あんなに沢山痛い思いをして、辛い思いをして、苦しい思いをして……!」
「大丈夫だから……私は、大丈夫だから……そんな泣かないで……」
「でも、お姉ちゃんが、お姉ちゃんが……!」
「はいはい、そうだね、でも大丈夫だよ……こうして、二人で……無事に……」
鼻声でぐずるアーサーの背中をぽん、ぽん、と優しく叩くピエール。
暫し妹の背中を叩きながら、ゆっくりと身体から力が抜けていく。
そして、崩れ落ちた。
「お姉ちゃんっ!」
素早く抱き留めたアーサーの腕の中で、体力と精神力の限界を迎えたピエールは花が枯れ落ちるかのように意識を手放した。
こうして。
短く苦しいピエールの旅路は、ようやく終わりを迎えることとなった。




