23 五日目
姉妹を含めた、全ての人間にとって与り知らぬ事実だが。
今ピエールと対峙している獅子頭こそが、一連の全ての騒動の原因であった。
人類の活動範囲より遙か北。
人々が地形も棲息する生物も何も知らぬ前人未踏の領域であるそこに、獅子頭という魔物は棲息していた。
膂力。飛行能力。攻撃、妨害、回復呪文。
多彩な能力を備えた獅子頭はその地域の強豪の一角として名を連ね、この獅子頭は親元から離れ独り立ちしたばかりの若い個体であった。
この独り立ちしたばかりの個体は若さ故の好奇心と加減知らずで独り立ちするやいなや大暴れを繰り返し、他の魔物を虐げ緑を燃やしてきた。
その結果多くの魔物が獅子頭から逃げ延び南に流れ着き、更に騒動の原因たる獅子頭そのものまで逃げる魔物を気まぐれに追いかけてきたのだ。
その無邪気で悪辣な性格を支えてきたのは、回復呪文に他ならない。
これまで彼は何度も他の魔物の決死の反撃に遭い重傷を負ってきたが、回復呪文の力で全て完治し、返り討ちにしてきた。
故に今回も引くことを知らない。
今までどんな怪我でも自ら治し、勝利を重ねてきた。
そして今回も。
多少手傷を負った程度で、この魔物が怯むことは決してないだろう。
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――ぅうるる。
獅子頭がうなり、何本もの火柱が地面を走ってピエールへ迫る。
跳ねて避ければ着地点に今度は氷柱。
右手の盾を振るって数十キロはありそうな氷の塊を弾き返せば。
もう目の前に獅子頭の巨体がある。
「うっ……!」
真上から叩きつけられる両の前足。
太く分厚い爪が紙一重でピエールの前髪を削り、叩きつけられた石畳が弾けて両者の視界を遮る。
巻き上げられた石畳の破片に隔てられた、一瞬の膠着状態。
ピエールが破片を突っ切って先手を打った。
「がああっ!」
渾身の力で振り抜かれた盾が、獅子の巨顔を強かに打つ。
それは先日、ロッテの頬を打ったものより遙かに力の籠もった一撃。
流石の獅子頭といえど目を剥いて横へ仰け反り、一瞬ふらつく。
だがそれだけだ。
怯んだ隙に側面へ回ろうとしたピエールだったが獅子頭はすぐに体勢を立て直し、敵へ尻を向けるようにして横回転した。
「がっ」
何かに打たれたピエールが真横へ吹き飛んでいく。
荒れた地面の上をがん、がん、がん、と転がりながら吹き飛び、壁に衝突する寸前で止まった。
背を向けた格好のままの獅子頭。
反撃に用いた長い獅子の尾をぶるん、と一振りし地面に叩きつけた。
まるで見せびらかすかのように。
握り拳を地面に突き立て、ピエールが立ち上がる。
正面に向き直った獅子頭は、彼女を余裕綽々の態度で見つめていた。
「まずいかも……」
再び射出された呪文を避けながら、ピエールは一人ごちた。
今のピエールには致命的な問題がある。
武器がないことだ。
武器のない今の彼女では、いくら驚異的な身体能力があろうと巨大な魔物に一撃で致命傷を与えることは難しい。
そして獅子頭が相手では、無数の手傷を積み上げて消耗させ削り殺す、という手段は使えない。
呪文で牽制しながら隙を見て飛びかかってくる獅子頭。
ピエールは前足による打撃を、踊るような軽やかな足捌きで側面に滑り込んで回避した。
左拳を全力で脇腹に叩きつける。
ばぎっ。
矢のような鋭さを持った左フックが金色の毛並みの奥へとめり込み、円柱状の何かを砕いた。
尾による反撃は盾でしっかりと防ぐも、その間に素早く距離を取られている為追撃は叶わない。
疲労から大きく一息。
ピエールが深呼吸を終えた頃には、もう殴り砕いた筈の肋骨は治っていた。
一方、ピエールは致命的な被弾こそ無いものの消耗は着実に積み上がっている。
「ああ……お腹空いた……」
戦況は着実に、悪化の一途を辿っていた。
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盾を左手に持ち替え、右手で瓦礫を拾い上げて投擲した。
握り拳ほどの鉱物の塊が回転しながら獅子頭の顔面へ飛来する。
しかし何の布石もない真正面からの投擲は通用しない。
獅子頭は頭を少し傾け、紫色の立派な鬣で受けた。
外套で矢を巻き込んで弾くかのように、瓦礫の勢いを殺して無力化している。
反撃の呪文が放たれた。
地面を火柱が走り、獅子頭の頭上には合計九本もの巨大な氷柱が浮かべられている。
ピエールが火線を横に跳ねて避ければ、着地の隙を突くように放たれる氷柱。
計九本が一斉に横並びで放たれた。
横移動では避けられない。
ピエールは咄嗟に屈み、地面に張り付いて氷柱を回避した。
瞬間。
ピエールの身体を巨大な影が覆った。
真上にいる。
どおん、と石畳が爆ぜた。
四つん這いのまま転がって避けたピエールに、石畳の破片が襲いかかる。
重傷に足る威力こそ無かったものの、土砂を浴びせかけられる衝撃でピエールの意識が一瞬逸れた。
金色の巨体はもう目の前だ。
自身が仰向けで、両前足を振り上げた獅子頭が馬乗りの状態になっているのに気づいた。
上半身を左によじる。
叩きつけられた両前足を回避し、胴体全体で下半身を押し潰そうとするのを紙一重で転がり逃げた。
しかし回避出来たのはそこまでだった。
最後に振るわれた獅子頭の長い尻尾が。
咄嗟に構えた盾越しにピエールの顔を打った。
「ぐぶっ」
いくら盾で防いでも勢いを完全には殺せない。
その上打たれた場所がまずかった。
傷を焼いた顔面右側だ。
盾を構えた左腕が右顔面を強く刺激し、ピエールは自身の顔の骨が折れるのを感じた。
目の下、頬骨のあたりだ。
耐えていた筈の苦痛が一気にぶり返し、ピエールは変な声を上げながら、とさ、と尻餅を着いていた。
どうやら有効打が入ったらしいと判断したのか、追撃をせず様子を見てくる獅子頭。
ピエールはすぐに立ち上がって構えたものの、焼いて止めた筈の右顔面から再び血が滴り始めていた。
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トン単位に届きそうな巨体が、軽やかに宙を舞う。
上空二十メートルの位置で滞空した獅子頭が斜めに滑り落ちるように滑空し、ピエールへ体当たりを仕掛けてくる。
転がって避ける。
転がって避ける。
転がって避けたところに追撃の氷柱が降ってくる。
氷柱そのものには当たらなかったものの、体勢を崩したところへ急降下した獅子頭が石畳を踏み散らかした。
石畳の破片も辛うじて避ける。
振るわれた右前足を盾で正面から受けてしまった。
「うぎっ……!」
威力を受け流し損ねたピエールは左腕をもぎ取られそうなほどの力で打たれ、その場でぐるん、と独楽のように一回転して膝を突いた。
顔を上げた目の前には、獅子頭の巨大な口。
自身の腕ほどもありそうな牙が迫ってくる。
針金のように太い獅子の髭の一本一本まで鮮明に見えるほどの至近距離。
右で渾身のカウンターを放った。
固く握った右の拳が鋭く突き出され、獅子頭の巨大な牙の一本を半ばから一撃で叩き折る。
獅子頭が怯んだ。
巨大な牙を砕かれる痛みは、さしもの獅子頭でも無視出来ない。
ピエールは更に追撃を仕掛けようとするも、獅子頭の足下から爆炎が吹き出し半歩下がった隙に相手は建物の上へと逃げ延びていた。
「……あぁ……もう……」
一対一での格闘戦では、ピエールは決して獅子頭に引けを取っていない。それどころか優位でさえある。
しかし戦況は確実に獅子頭が優勢であった。
ピエールが与えたダメージは全て元通りに治され、度重なる接触による消耗はピエールにのみじわじわと積み重なってゆく。
このまま続けば確実にピエールの方が削り殺されるだろう。
ピエールの視界の先では、建物の上で悠々と回復呪文を施す獅子頭が折られた牙を元通りに治したところだった。
どすん、と巨大な肉球で石畳に降り立ち、余裕の態度で戦闘を再開しようとしている。
放たれる呪文。
氷柱と火線、二種類の攻撃呪文を複雑に組み合わせた攻撃を辛うじて避ける。
隙を見せれば、その隙に距離を詰めて接近戦を仕掛けてくる。
回避、あるいはかすり傷を負いつつ打撃で有効打を与え、獅子頭は回復の為に距離を取る。
最初からもう一度。
この繰り返しだ。
打撃のみでは目を潰そうが骨を砕こうが回復の壁を越えることが出来ない。
詰み。
正にそう呼ぶべき、すぐに負けはしないが勝つことも決して出来ない絶望の寸前に彼女はいた。
しかしピエールの心はまだ折れていない。
「いたぞ! ここだ!」
遠くから声がした。
広場のど真ん中、ピエールのいる場所から数十メートルは離れた場所に。
この町の兵士と思しき数人の集団が姿を見せたのだ。
「戦闘中だ……!」
「あの子供は……?」
兵士たちは獅子頭と相対するピエールの姿を見て、一様に驚き目を見開いていた。
ピエールは彼らの存在を目を向けずに把握し、即座に声を張り上げる。
「武器を持って来て!」
「何……?」
「武器! 打撃力のある斧か鈍器か、無ければ槍でも剣でも何でもいいから!」
「おいお前、補給所に行ってちょっと貰ってこい」
「しかし隊長……」
「早くして! もう限界が」
魔物は馬鹿ではない。
目の前の敵が他の生物と鳴き声でコミュニケーションを取り始めるのを、黙って見過ごす理由はない。
獅子頭が飛んだ。
ピエールは慌てて宙を舞う巨体へ瓦礫を投擲するものの、背を向けた獅子頭の急所へ当たることはなく、金色の毛皮へいくらかぶつかって終わる。
「うおおおおっ!」
飛びかかってくる獅子頭へ、咄嗟に剣を構える兵士たち。
しかし獅子頭は空中、接触する直前でぴたりと停止し即座に氷柱を放った。
兵士の剣より遙かに太く重たい氷の槍が人の身体を容易く潰し貫き、戦場への闖入者たちは全員氷を血肉で赤く染めて死んだ。
再び一人と一匹だけに戻った戦場で。
ピエールへと振り向いた獅子頭が、元通りになっている巨大な白い牙を見せつけるように口を開いた。
人間は、こうやって快感を表現するのだろう?
と言わんばかりに。
ピエールの心は。
今はまだ、折れていない。




