21 五日目
昨晩の戦闘に一切気づかないまま目を覚ましたミアが、ピエールによって打ち捨てられた短剣の残骸を見て目を見張った。
長さ三十センチほどの短剣は刃が根本で折れて喪失し、柄は刀身そのものからすっぽ抜けて柄と刀身で分離してしまっている。
辛うじて投擲武器として使えるか、という程度のがらくただ。
せめて折れた刃の先が残っていれば良かったのだが、そちらは棘海星の体内に突き刺さったまま夜の湿地に消えていった。
加えて、表面に張られた革が腐食したことで露わになったミスリル製の小盾もミアの目に入っている。
が、胸当て二着の時点で驚きの限界に達している彼女にとってミスリル製の防具がもう一つあったからといってさしたる驚きには繋がらなかった。
二つあるなら三つ目があってもおかしくない、だの、防具はこんなに高価なのに武器は普通の短剣なのか、といった考えが浮かんだ程度だ。
「……全然、気づきませんでした」
「あはは、ミアちゃんすやすやだったもんね。あの海星も鳴いたりしなかったし」
四人組と一緒にいた一昨日の晩はぐっすり眠れたものの、昨晩は再び雨の中不寝番を完遂したピエール。
再び目元に隈が出来ているが、戦闘がすぐ終わったこともありまだ体力には余裕があるようだ。
雨上がりの広葉樹に背を預け、ぼんやりした顔で笑っている。
「まあ、魔物に怯えずしっかり眠れたなら良かったよ……」
ふああ、と大きな欠伸をし、ピエールは口元をむにゃむにゃもごもごさせた。
右顔面の包帯は雨でしっとりと濡れ、滲んだ体液で灰と桃のまだら模様になっている。
「さ、準備しよ。……そろそろ、町が見えてくる筈だよ」
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雨上がりの濡れた湿地帯を、三人が進む。
空は青空と太陽が覗き、灰色の雨雲はもうどこにもない。
白い千切れ雲だけが点在する空の下、淡々と石畳の道を進み続けている。
「……あー……」
道の脇に大きめの池を見つけたピエールは、通りすがりに首を伸ばして葦の隙間から池を覗き込んだ。
しかし湿地の池はピエールの予想通り、期待を裏切る結果を見せる。
水面は棘海星の体液で油膜を張ったように汚れ、死んだ魚が腹を見せてぷかぷか浮かんでいた。
その中には、ピエールが再び捕らえて朝食にしようと目論んでいた鯉の姿もある。
漂う臭いも鉱物油を薄めたような悪臭で、とても浮かんでいる魚を食べる気にはなれない。
今まで通りがかった全ての水辺が、死骸の浮かぶ汚染された水たまりと化していた。
既に手持ちの食糧が尽き、鯉で賄おうと思っていたピエールには大きな痛手である。
「……すみません、こんなことなら私の……」
「いいって、池を確認せず早とちりしたのは私だし、そもそも君のなけなしの食べ物を奪ったりしないよ」
ピエールが無駄な鯉探しに出ている間にミアは持っていた丸パンの最後の欠片を食べきっており、結果としてミアだけが朝食を取り、姉妹は朝食抜きという結果になっていた。
とはいえ彼女の言葉通り、仮に予め池の汚染を知っていたとしてもミアの食糧を奪うような真似はしなかっただろう。
この調子なら、仮にこれ以降食糧が手に入らなくともぎりぎり町まで辿り着ける筈だ。
しくしく泣いている空きっ腹を、そんな言葉でごまかす。
「はー……町に着いたら何か美味しいものをお腹いっぱい食べたいな……お肉……お魚……パン……甘いもの……」
口元から、ぽろぽろと欲望をこぼしながら。
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夜が明けて歩き始めてから、およそ五時間ほど。
昼前になろうかという頃合いで、ようやく湿地帯に終わりが見えた。
「森だ」
ピエールがぼそりと呟いた。
道を進むごとに湿地帯から葦が減り、代わりにどこにでも生えていそうな多種多様な下草や低木に変わり始める。
油膜の張った大小の水たまりも無くなり、点在する木々の密度が増して。
三人の目の前に姿を現したのは、どこにでもありそうな平々凡々とした森の道であった。
「……」
周囲の景色が変わったからといって、殊更立ち止まる理由はない。
淡々と石畳の道を少女たちは進む。
しかしピエールは、森の道に何か厭なものを感じ取っていた。
「……何もいない?」
小さな声で背負っている妹に問いかける。
すると握った左手から反応が返ってくるが、アーサーの意見もピエールと同じらしい。
何もいない。
森は恐ろしく静かで、大、中型生物の気配がほぼ全く感じられない。
小動物も殆どいない。
鳥の鳴き声など一切しないし、風も通らないので森の中は異様に静かだ。
森そのものが必死で息を、身を、潜めているかのような錯覚。
数日前に通った、山間の毒樹の森を通った時の感覚を更に極端にしたような有様であった。
勿論、だからといって進まない訳にはいかない。
歩を止めることなく、見た目だけは何の変哲もない不気味な森を進んでいく三人。
会話はない。
そろそろゴールが近いことをうっすら察しているのか、本能が何かを訴えかけているのか、石畳を踏む音だけを立てて一直線に森を進み続けていた。
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森を歩き続けて更に数時間。
昼をやや過ぎた辺りで、三人は森の中で休憩を取ることにした。
石畳に座り込み、息を整えながら、休憩所で汲んだ水の残りと、道沿いでいくつか採集出来た食用に出来る野草や木の実、それに苦肉の策で集めた少量の芋虫を口にする。
食料はそれだけだ。
各々が持っていた食料は全て食べ尽くし、頼みの綱であった鯉も食べられず、食料に出来そうな野生動物の姿は見当たらない。
ピエールはうつろな目で、ただ炙っただけの野草を貪っていた。
「ふぇ」
自分の吐いた息があまりにも青臭くて、ピエールは変な声を出した。
膝の上のアーサーや側で寝転ぶミアも、口の端を野草の緑色で汚している。
皆一様に野草の苦みが口に残ってうんざりしたような顔だ。
そうして食後に三十分ほど休憩を取り、そろそろ出発の準備をしようかという頃合いで。
姉妹が気配を捉えた。
「……ん……おっ……?」
目を軽く見開いたピエールが顔を上げ、東の道の奥へ目を向けた。
念のため妹を手早く背負い、ミアに呼びかけて暫く。
道の奥から一組の男女が姿を現した。
早足で進んでいた彼らもこちらに気づき、鬼気迫る顔で近づいてくる。
「こんにちは、ねえ君た」
即座に盾を首元へ構えた。
言葉途中で男が向けた剣の切っ先が、ピエールの首と盾の向こう側に添えられる。
剣を向ける二十代半ばほどの男の顔には余裕はなく、息は荒い。
隣にいる男と同年代と思しき女性も同じように切羽詰まった顔で睨みつけており、片手には小さな木製の短杖を携えていた。
ピエールの表情が凍り付いた。
まさかこんなことする筈が無い、という想いと、こうなるのか、という諦めと。
相反する感情が一瞬だけ湧き上がり、すぐにピエールの中の冷静な戦士が貌を覗かせる。
「持ってるもん全部渡せ。その盾も、荷物も、食料品も」
「……」
「死にたくなかったら早くしろ!」
男が怒鳴った。
傍らのミアがびくっ、と身体を震わせ、ピエールの薄汚れた身体に縋りつく。
さりげなく左手で彼女の顔を自身の脇腹へ押しつけた。
これから起きることを見せないように。
一方のピエールは一切の怯えも憤りもなく、何の感慨も抱いていない、ひどくつまらなさそうな無表情へと変わった。
顔を伏せるふりをして、男女の装備を観察する。
男の抜いた剣は細く薄い。鞘も薄っぺらで、魔物を斬る為の剣でないことが一目で分かる。
二人とも防具を身に着けておらず、旅装以前に鞄も持っていない。
野盗ですらない。
町から着の身着のまま、最低限の護身用の剣だけ握って飛び出してきた、と言わんばかりの姿だ。
それはつまるところ。
「……西の町、えっと、カリシクだっけ。あとどれくらいで着く?」
「余計なことを喋るな! 黙って俺の」
ピエールの右手が閃いた。
盾を構えていた筈の右手が突然爆発したかのような勢いで振るわれ、盾と密着していた筈の刃が一瞬で砕き散らされる。
男が認識出来たのはそこまで。
次の瞬間には盾の縁が男の首にめり込み、脊髄を叩き潰され石畳に倒れ込んだ。
側頭部を強く打って意識を失い、そのまま命も失うだろう。
女の方も男が盾で殴られるまでは認識していたが、男が倒れ込むより早く踏み込んできたピエールに全く同じ目に遭わされて意識と命を失った。
首元に中心部まで達するほどの深い陥没を作って倒れ伏す一組の男女。
三人と二人が出会ってから、わずか三十秒にも満たない間の出来事であった。
「終わったよ」
「……」
すぐに半歩戻ってミアの視線を隠し、昏倒し死に際の乱れた呼吸をするばかりの男女を見下ろすピエール。
その顔は最後の最後まで、つまらなさそうな顔のまま。
ただ害意をぶつけてくるだけの、何の罪悪感も抱かず殺すだけでいい敵。
なんて気が楽なんだろう。
こんなに分かりやすい敵ならば、十人でも百人でも殺してやるのに。
自分の中の野生が疼き、ピエールは目を閉じて小さく頭を振った。
意識を切り替えて、死体をつま先で転がして探る。
見た目通り、何も荷物を持っているようには見えない。
懐も薄っぺらで物がしまってある厚みではなく、このまま東へ向かったとしても休憩所にすら辿り着けたか怪しいほどだ。
せめて剣だけでも拝借出来れば良かったが、刃が予想以上に脆かったおかげで弾くだけのつもりがもう粉々だ。
勿体ないと思うべきか、一切信用できない安物を握らずに済んだと思うべきか。
「……」
失った物はないが、得た物もない。
精々がいくつかの情報。
こんな軽装の人間がいるということは、恐らく町ももう近くにあるだろう、ということ。
そして。
まるで町から慌てて逃げ出したかのような、逃げ出したくなるような、そんな何かがいるかもしれない、ということだ。
希望と不安と警戒を胸に。
ピエールは二人を連れて、再び森の道を歩き始めた。




