20 四日目
それが棘だらけの大きな海星だと分かったのは、河馬が呪文を使って海星を吹き飛ばしてからだった。
雨の夜闇の中で淡い魔力の白光を纏った河馬が、吠えもせず静かに湿地の泥を巻き上げた。
濁った濁流が竜巻のように天高く渦を巻き、一匹の棘海星を空へ打ち上げる。
五本足の身体は一本一本の長さがおよそ一メートルほど、足の太さはその四分の一程度。
表側には海栗のように鋭い棘がびっしり生え、裏側には中心に口らしき開口部が一つ。
ピエールの知る海星の魔物と言えば、裏側には目や口があり、五本ある足のうち二本を使って器用に二足歩行を行う。
そんな本来の海星の性質からはかけ離れた魔物であったが、今現れた棘海星はもっと本来の海星に近い性質を有しているようだ。
河馬の呪文によって泥水ごと打ち上げられた棘海星は力強く地面に叩きつけられた。
四肢が千切れるようなことは無かったが、裏向きに地面に落ちた一瞬動きを止めている。
突貫した河馬が一息に踏み潰した。
ぱぁん、と中身の詰まった何かが破裂する音を立てて、棘海星の中心部分が弾け飛ぶ。
しかし戦いは終わりではない。
なんせ北の果てには、無数の棘海星が群れをなして迫っているのだから。
左手に握った盾の握り具合を確かめつつ、ピエールは河馬と海星の戦いをじっと観察していた。
どうやら北から数え切れないほどの海星が現れ、湿地帯の各所にいる河馬たちが縄張りに土足で踏み入る外敵を蹴散らしているようだった。
ピエールが注視している場所以外でも、泥が竜巻のようにうねり、波のように荒れ狂い、夜の雨の空に姿を現している。
雨音に紛れ、ばしゃん、ばしゃん、と液体が地面に打ち付けられる音が響く。
それを聞きながら、ピエールはちらりと傍らで横たわる妹に視線を向けた。
しかし自身を見返すアーサーの表情は優れない。
彼女にも、姿を現した棘海星たちの詳細は分からないようだった。
暫く観察している内に、遂に海星の一匹が河馬の縄張りを抜け少女たちの元へと向かってきていた。
棘のある面を表にしたまま、足二本で立って歩くようなこともなく、葦を薙ぎ倒し這って進んでいる。
ピエールは左手の盾に加え右手に短剣を抜いて構えた。
べた、べた、と湿地を這って進んでくる高さ五十センチほどの棘だらけの物体。
動きは全く速くない。人が腕だけ使って匍匐前進する程度だ。
とはいえ突然機敏に動き、不意打ちしてくる可能性を最後まで警戒しながら。
棘海星が這おうと、足一本を持ち上げようとしたその瞬間に。
距離を詰めたピエールが短剣を海星の足の裏側へねじ込んだ。
ごりっ、と思ったより硬質な手応えを返しつつ、刃の先端が海星の棘のない裏側へ突き刺さる。
ピエールは力任せに短剣を振り上げ、引っかけた海星を裏返した。
牙なのかどうかも分からない鋭い突起が生え並ぶ、円形の開口部が露わになる。
盾を掲げて身を防いだ。
革が泡立ち腐食するじゅうじゅうという音が、盾越しに聞こえてくる。
酸だ。
裏返しにされた棘海星は、開口部から粘りのある酸性の液体を吐き出しピエールへと飛ばしてきていた。
開口部が口だとするならば、消化液かもしれない。
酸を盾で防いだピエールはそのまま素早く開口部に盾の表面を押しつけ、開口部に蓋をするような状況へ持ち込んだ。
棘だらけの五本腕に反撃されるより早く、短剣を足と足の間に突き立てる。
ぐぎっ。
短剣を突き立てる感触は硬く、肉というより骨の間に無理矢理刃をねじ入れるかのようだ。
それでも短い刃は深々と突き刺さり、足と足の間から中心部に到達するほどの傷を与えた。
刃を軽くねじって中身を掻いてから引き抜くと、先ほどの酸が傷口からブシッ、と溢れて棘海星の身体を内外から腐食させる。
体内の酸を貯めておく器官を傷つけたようだ。
裏返しになったまま酸を溢れさせた棘海星は暫くぶるぶると震えていたが、じきに動きも弱まりかすかに震えるだけとなった。
ひっくり返し、酸を防ぎ、足の間から酸を貯める器官を刺すだけ。
見た目の厳つさの割に斃すのは難しくなさそうだ。
しかし大きな懸念が二つ。
「……やだなぁ」
迫り来る棘海星の群れはまだまだ途絶えそうにないこと。
そして、これまで酷使し続けた短剣が酸に曝されることによって、いよいよ限界を迎えそうなことだった。
: :
「んっ」
突き立てた短剣が足の間に食い込み、棘海星の身体から酸が滲んだ。
悶えるばかりと化した五星の身体を短剣を持ったままの右手で掴み上げ、重さ百キロは下らないであろうそれを離れた場所へ投げ捨てる。
棘海星を投げ終えたピエールが、雨の夜闇の中で短剣を翳した。
既に先端が丸い。欠けた上に酸で角張った部分が削れた結果だ。
持ち手と刃の繋ぎもがたがきており、持ち手を握ったまま揺らすと刃がぐらつく。
「これは予想外かな……」
ピエールが呟く合間にも、再び一匹の棘海星が葦を踏み越え三人の元へと這い寄ってきた。
更に北の彼方では河馬の戦闘も続いている。
ピエールは無造作に棘海星へと駆け寄った。
棘海星の伸ばした足が、ちょうど触れそうになる距離。
……の、直前でぴたりと停止し横へ逸れた。
ピエールを迎え撃とうとする棘だらけの足が、無為に空を掻く。
あとはその足を短剣の先端で引っかけ、すくい上げるように持ち上げるだけだ。
二十、三十と棘海星を撃退したピエールはコツを完全に掴んでいた。
それは最早戦いではなく作業に近い。
ひっくり返された棘海星は今までと全く同じように開口部から酸を噴出し、ピエールは念の為盾を構えつつも上半身を捩ってたやすく避ける。
そして短剣を突き立てる。
硬い。
がりっ、と骨を掻くような感触がして、初遭遇時の半分ほどしか刃が刺さらない。
まだ酸の器官には届いているようだが、この調子だといつ届かなくなってもおかしくない。
傷口から酸を滲ませた棘海星を投げ捨て、ひとまずこちらへ向かってくる棘の塊が途絶えたことでピエールは一息ついた。
肩で息をしながら、左腕で顔の汗と雨と滲む血を拭う。
疲労で項垂れる身体を引きずり、ピエールは広葉樹の根本へと戻った。
幹に背を預け腰を下ろし、取り出した瓶の中身を一息に飲み干す。
「……大丈夫?」
小さな声で呼びかけると、アーサーは弱々しい顔でピエールを見つめ返している。
その顔色はさほど悪くない。
周囲の植物によって風雨を避け、動かず身体を休められているおかげだ。
ミアもアーサーの傍らで、荒くも寝息を立てている。
側では戦闘が続いているが、やはりちょっとやそっとでは起きないほど疲れているらしい。
「見てこれ。練習用の刃がない短剣みたいになってる」
妹へと短剣を掲げて見せ、ピエールはからから笑った。
笑いかけると口元に滴が垂れてきたので、左腕で拭う。
拭った滴は顔から滲んだ血で桃色をしていたが、今の彼女には見えていなかった。
「あのヒトデさー、やっぱりこの辺にいる奴じゃないんだろうね」
視線を北へと向けつつ、ぼそりと呟いた。
北では未だに河馬たちが、各所で大立ち回りを続けている。
「初日の鹿もそうだし、火炎ムカデも、鼠蝙蝠……はどうか分からないけど、豪傑熊も、きっとこの辺の奴じゃないだろうし。あんなのが普段から歩いてたら人が通れる道扱いされてないよね」
ピエールはもう一度顔を拭った。
腕が右顔面の火傷痕に一瞬擦れ、鋭い痛みを発する。
「多分北で何かあったんだろうなー、それで北の、本来人が関わらない筈の場所に棲んでた魔物が南へ押し出されてきた」
ピエールの説に基づけば、河馬はこの湿地帯土着の生物なのだろう。
長い時間の中で、石畳の道を通過する人間とは相互不干渉の関係が成り立った。
そんな河馬たちは北から来る棘海星の群れには三人と同じように、もしくは三人以上に迷惑しているという訳だ。
ピエールが自説をアーサーに語っているうちに、再び河馬が打ち漏らした棘海星がこちらへ向かってきていた。
「はーやだやだ、一体何がこんな迷惑引き起こしたのやら……」
愚痴っぽく話を締めつつ、立ち上がるピエール。
再び木の下から、雨の下へと飛び出していった。
: :
姿を現してからおよそ三、四時間ほどで、棘海星たちの群れは一掃され、湿地帯は再び雨音だけが響く世界に戻った。
河馬たちは泥を巻き上げるのを止めて半身浴に戻り、まき散らされた棘海星たちの破片はどこからともなく現れた大きな巻き貝たちに食材として消化されていく。
ピエールも横たわる二人の元へと戻っていった。
濡れた上着を脱ぎ、雨でしとどに濡れた身体を丹念に拭い、再び二人の元へと潜り込む。
それ以降は一切の襲撃はなく、静かに夜と、雨は明けて。
散り散りになった雨雲の隙間から、待ち望んだ鮮やかな朝陽が顔を覗かせていた。
朝陽が湿地の池を、濡れた葦を、木の下の少女たちを。
刃が折れ柄が外れた短剣の残骸をも、鮮やかに光で染め上げていた。




