18 四日目
豪傑熊に漁られたあとの四人組の荷物を引き寄せて集め、ピエールは再び休憩所の石壁に背中を預けて座り込んだ。
苦痛をなんとかいなそうと浅く呼吸を繰り返す中、ミアが早速与えられた杖を使いつつ四人組の荷物を漁っている。
薬や巻物の類はない。全て当人たちが所持したまま豪傑熊の胃袋に収まったのだろう。
食料は多少。昨日の夕食や今朝の朝食に使われていた乾物やビスケットのうち、豪傑熊が漁り残したものがいくらか残されていた。
水筒や空き瓶の類は踏まれて割れたり穴が空いているものが多いが、これらは自分たちでもある程度持っているのでさほど重要ではない。
武具は無い。その全てが豪傑熊が死体を貪る際にまとめて胃に収まり、あるいは食事の際に踏まれて原型を留めないがらくたと化していた。
とはいえ少女たちには、彼らの装備が一般的な量産品なのか、一目見ただけで四人組から拝借した盗品だと感づかれる一品物なのかの判断がつかない。
いらぬ疑いを避ける為には、人前で不用意に使えないものだ。
残されていたとしても、拝借するかは分からなかっただろう。
他はロープや衣類、寝具の類をミアの足の添え木や杖の材料として使い、四人の荷物の回収は終わり。
「ピエールさん、あの、どうぞ」
「うん」
側に座ったミアが甲斐甲斐しく差し出した匙を口に含むピエール。
もむもむと咀嚼してから、アーサーへ口移しで分け与えた。
再度ミアが差し出してくるのを今度は自分で嚥下する。
「……お二人とも、本当にありがとうございます。私なんかの為に、こんな……」
自身も合間合間に食事を口に含みながら、ミアがそう切り出した。
一方ピエールは何も気にしていない素振りで、呆けた顔で顎を動かしていた。
彼女の右頬の穴は完治した訳ではなく、食事が触れると痛む。その為左頬に食事を寄せた結果頬袋のような状態になっていた。
ミアの真剣な顔とは、あまりにも乖離した雰囲気。
「いいよ全然、気にしないで。ただの私の自己満足だから」
「……」
虚空を眺めたまま左頬の中身を飲み込むピエール。
姉の代わりと言わんばかりに、隣のアーサーが険しい顔でミアを見つめている。
「ま、あと二日くらいで町に着く筈だし大丈夫でしょ。アーサーは呪文で回復して貰ったから急に悪化することは無さそうだし、私も痛いけど戦えるし」
「……」
「だからそんなに申し訳なさそうな顔しなくていいし、私なんか、とか言わなくていいよ。君は本当に凄い子だから」
そう言ってにへ、と笑うピエール。
精神的には完全に憑き物が落ちた晴れやかな顔をしていた。
一方顔の右半分は包帯で覆われ、隙間からは焼けて真っ赤になった皮膚が覗いている。
表情と怪我の酷さが反比例しているかのようだ。
「ほらほら、ミアちゃんも食べて。これからまたずっと歩きっぱなしだから、お腹に入れとかないと大変だよ」
「は、はい」
ピエールに促され、ミアはおずおずと同じ匙を使って食事を口にした。
姉、妹、姉、ミア、の順に食事を胃に納めていく。
そうして用意した食事を残さず食べ終えた三人。
休憩所の井戸から沸かした水をありったけ水筒や空き瓶に詰め、装備を整え、ピエールはアーサーを背負い。
三人は再び西への旅路を歩き始めた。
: :
飛来する昆虫の頭に礫がめり込み、制御を喪った昆虫は錐揉み回転しながら落下した。
礫をめり込ませたまま、慌てたように脚をばたつかせて逃げ去っていく。
「いいよ」
昆虫が完全に視界から消えるのを待ってから、ピエールが呼びかけた。
松の木の後ろから、両手に杖を握ったミアがえっちらおっちら右足を庇いながら歩み寄ってくる。
その顔はやはり汗だくで、呼吸は哀れみを誘う荒さだ。
「……休む?」
「いえ、大丈、夫、です」
もうピエールの頭には、ミアを見捨てるという選択肢は存在しない。
その為葛藤も遠慮もなくミアへ労りの言葉をかけていた。
逆にその提案を、ミアの方が妹を慮って拒否する始末。
お互いがお互いを思いやった結果あべこべな状況と化している。
が、その逆転ぶりはお互いにとって好ましいものであった。
「じゃ、行こっか」
再び東へ一直線に進み始める三人。
歩きながら、ピエールは背負ったアーサーの左手を優しく握った。
握り返してくる手の力で妹の調子を窺い、別段異常は無さそう、ということで名残惜しくも手を離し歩くことに集中する。
たし、たし、とピエールが靴底で砂を踏む音。
その後ろからは、ミアが二本の杖で砂地を刺すざす、ざす、という音が必死に追いかけてくる。
両腕で握った杖は歩く際に体重を預けることで右足を庇う以外にも多少の体力温存になり、右足と杖を握る両手の痛みに脂汗を浮かべながら耐えていることを除けば意外に安定してピエールの歩幅に追いついていた。
その為ピエールはミアの為に歩幅を緩めたり休憩を増やしたりせず、おおよそ四人組との遭遇以前のペースのまま歩みを続けることが出来ている。
合間合間に、水筒にたっぷり蓄えた水を含みつつ。
三人は黙々と、西へ向かって歩き続けた。
: :
四人組の襲撃を撃退したのが早朝。
準備と朝食を終えて休憩所を出発し、昼前に短い食事休憩を取って更に歩き詰めて。
陽が少し西へ傾こうかという頃、松林の風景は終わりを見せた。
「急にじめじめしてきた……」
毒樹の森から松林へ変わった時のように、地面が砂地からだんだんときめ細かい土へと変わり、短い草が覆い始める。
更に進むと粗い石畳の道に繋がり、松の木が視界から消え去った。
広がったのは湿地帯だ。
石畳の道の周囲には太く長い葦のような植物が生え並び、ぽつぽつと広葉樹や、池とも沼ともつかぬ水たまりが点在している。
足下こそ石畳のおかげで安定しているが、湿度が高く松林と比べるとあまり心地の良い空間ではない。
全身に生傷を抱えているから尚更だ。
ピエールは何も言わずに背負った妹の手を握り、首をかしげて傷だらけの妹の顔をのぞき込んだ。
呼吸こそ乱れているものの重篤そうな様子はない。
浮かぶ表情も苦痛ではなく警戒心だ。
「大丈夫?」
妹の手を名残惜しくもにぎにぎしながら後ろへ呼びかけると、掠れた声でミアから返事が届く。
「だい、じょうぶ、です」
「そっか。……ごめんね、まだ歩くよ」
「は、い」
道が変わろうと行うことは変わらない。
三人は止まることなく、一直線に西へと進み続ける。
: :
べきっ。
道を少し逸れたピエールが、一本の大木から大きめの生枝を腕力で折り取った。
道へ戻って歩きつつ、長さ一メートル、直径五センチほどの枝を一直線、かつ先端が鋭くなるよう短剣で削っていく。
がりがりと木屑を落としながら数分歩けば、一本の木の槍の完成だ。
「次、いい感じの水辺を見つけたら一旦止まるからね」
「……」
「だから、それまで頑張って」
「……ぁ、ぃ」
短剣を鞘に戻し、木の槍を携えてピエールは歩き続ける。
視線を左、南へ投げれば二十メートルほど先に動物の姿が一つ。
河馬だ。
爬虫類のような鱗を持った奇妙な河馬が水辺に半身を浸からせ、耳をぴんと立ててじっとしていた。
ピエールの左目にはぴんと立った河馬の耳が揃ってこちらを向いているのも見えている。
三人の存在には気づいているが、関わる気は無いようだ。
これまでに数度水辺で半身浴を行う河馬とすれ違ったが、皆一様に三人に意識を向けつつ、敵意は抱いていなかった。
人間にあまり興味がないのか、危害を加えられなければ反撃しない性質なのか。
どちらなのかは分からなかったが、不必要な戦闘を行わずに済むのは僥倖であった。
横目で河馬を観察しながら更に進むと、石畳の道に沿うように大きな池が広がっているのが目に入った。
池のほとりまで辿り着いたところで、歩みを止める。
無事な左目を閉じ、周囲の気配にじっと意識を集中させた。
生物の気配は少ない。
自分たちと、遠くにいる河馬たちと、あとは小動物のみ。
暫く足を止めても、突然何かに襲われることはないだろう。
「はぁふ」
後ろでどさ、と倒れ込む音。
ピエールが後ろへ振り向くと、ミアがその場で尻餅を着いて座り込んでいた。
顔面にびっしょり汗を浮かべ、息荒く胸を上下させている。
「お疲れさま。少し休んでていいよ」
返事はない。
声を出す余裕もなく、ころんと寝転んで息をするだけの生き物と化していた。
そんな彼女をその場に残し、ピエールは妹を背負ったまま池の縁へと向かう。
葦のような固い草をかき分け、沼に足を取られないようつま先で探りながら向かった池。
水底は見えない。水がやや濁っていることを加味しても尚、相当深そうだ。
面積も広く、ちょっとした町の広場ほどの広さがある。
先ほど見かけた、目当ての生物が棲むには十分な環境だろう。
ピエールはベルトポーチのポケットの一つを探り、行動食としていた干し肉……ではなく、底に溜まった粉とも塵ともつかない食料のかすを指先で丁寧にかき集めた。
かき集めた食料屑を水面に撒く。
中腰で、先ほど拵えた木の槍を構える。
数分待つ。
まず小魚が現れた。
水面に浮かぶ屑をちまちまと啄んでいる。
水際に立つピエールへの警戒心は皆無に近い。
人間という存在に全く接触したことがない証だ。
小魚たちが必死に息継ぎをするかのように、水面に向けて口をぱくつかせている。
ピエールは微動だにせずそれを見守る。
ぱくつき続ける小魚。
ピエールはじっと睨み続けて。
中型の鯉が現れ即死した。
小魚を狙い水底から顔を出した瞬間、ピエールに木槍で貫かれたのだ。
一直線に突き出された鋭い枝は鯉の左目から右鰓までを貫通し、少し暴れたもののすぐに弱弱しくなった。
ピエールは木槍を、鯉が抜けないよう捻って持ち上げる。
その次の瞬間。
鯉を追いかけて巨大な怪魚が水上へと飛び出してきた。
細長い身体は蛇のようで、太さは子供の太股ほど。
ぎょろつく目玉に大きく裂けた口を持ち、口には肉を噛み千切る為の鋸状の歯。
更に不気味なのはその魚、四肢がある。
細長い身体にもっと細長い四肢が二対四本付いており、先端には物を掴める指まである。
細長い不気味な手足を振り回しながら、鯉を追いかけ水際に飛び出してきた怪魚。
四肢で地面を掴んで一直線に陸上へ――
出てきたところをピエールに踏み潰された。
少女二人分の体重と人間離れした脚力で首元、鰓のある辺りを踏み潰された怪魚は一撃で骨を砕かれ肉を潰された。
しかしそれでもすぐには動きを止めず、踏まれた状態のまま胴体をびちびちびちびちっ! と激しくのた打たせ渾身の力で暴れ続ける。
細長い四肢も一緒にばたつかせながら。
「うわぁ……」
足つき魚が不気味に四肢を振り回して暴れるのをピエールは生理的嫌悪感露わに見守り、完全に動きが停止したのを確認してから嫌そうに足を離した。
ねちゃ、と粘液が靴底で糸を引く。
鯉が引っかかる木槍を左手に、右手の指先でこれまた嫌そうに怪魚の尾の端を摘んで持ち上げる。
「魚……だよね。蛇ではない……?」
息絶えた怪魚をまじまじ見つめる。
やはり尾鰭背鰭があり、目には瞼があり、潰れてはいるものの鰓がある。
蛇ではないだろう。
四肢という異物があるだけの魚だ。
「まあいいか……」
何はともあれ。
食料になりそうな獲物を仕留めたピエールは、再び葦をかき分けミアの元へと戻っていった。
: :
その後。
湿地の植物を拾い集め、ミアに呪文で点火して貰って何とか火を熾したピエール。
石畳の上で鯉と怪魚、二尾の魚を開いて焼き始めた。
「あ、あの、これは……」
「まあまあ、非常事態ってことで……」
釈然としない顔でミアが見つめるのを、ピエールは苦笑いでやり過ごした。
二人の視線の先には。
石畳を剥がし、その石材で組まれた即席の竈があった。
石畳の一角はピエールによって剥がされ、ぽっかりと欠けが出来ている。
人が通る分には何も問題はないが、馬車が気づかずに通ろうとすれば車輪を取られ事故に繋がりかねない。
あからさまに石畳が欠損し、おまけにすぐ側で竈が組まれている為流石に御者が気づくだろうが、悪質ないたずら扱いされても無理のない行いである。
とはいえ今は緊急事態であり、なりふり構っている余裕はない。
ミアも自分に口出し出来る権利がないことは重々承知しているので表立って批判することはなかったが、表情にだけは釈然としないものが浮かんでいた。
木槍の串に刺された二種の魚が、竈の火でぱちぱちと焼けていく。
今の三人には塩以外の気の利いた調味料も無ければ、丹念に洗える水の余裕も、綺麗に魚を捌ける為の道具もない。
ただ短剣で頭を落とし腸を抜き、鱗が付いたまま雑に開き、怪魚は四肢を落としぶつ切りにして木槍に通しただけのものだ。
料理とはとても呼べない野蛮な加工。
おまけに焼いてる最中ですら泥臭さが臭う。
石畳を剥いで竈にした後ろめたさと臭いによる味への不安とそれでも貴重な食糧が手に入った感謝と、様々な感情がない交ぜになった複雑な気分で少女たちは魚が焼けるのを見守り続けた。
そうして数十分かけて、鱗が爆ぜ、内部まで完全に火が通ったのを確認してから。
火から木槍を下げ、焼けた魚を外して並べた。
むわぁ。
「っ……」
立ち上る湯気はどこまでも泥臭く、誰ともなく息を詰まらせる。
まず一番にピエールが、意を決して焼けた鯉の身をほぐしてつまみ、舌の上に乗せた。
「ぅぇ……」
目を閉じて感覚に集中する。
泥臭い。
美味しくない。
一応毒は無さそう。
ピエールは眉をハの字にしたまま、無言で鯉を咀嚼し嚥下した。
続けて怪魚。
生では薄桃色だった身は火が通り褐色に変わっていた。
同じようにほぐして舌の上に乗せる。
目を閉じて一秒、二秒、三秒。
「これは駄目だ」
ぺっ、と道の脇に吐き出した。
水筒で舌を丹念に濯いで水も吐き出し、続けて怪魚の身もさっさとより分け池の中へと投げ捨てる。
念のためもう一度口を濯ぐ。
「そんなに、美味しくなかったんですか?」
「え? ああ、違う違う。あれは多分毒があるね」
「……どく」
疑問に対し思いも寄らぬ返答が返ってきて、ミアは思わずおうむ返しに呟いた。
苦笑いのピエールは荷物の中から使いかけの岩塩を取り出し、荒く削って鯉へとまぶしていく。
「……毒って、そんな風にすぐ分かるものなんですか?」
「うーん、普通は分かんない、のかなあ。私はほら、経験と、体質というか感覚というか……そういうのがあるから。あれは舌に乗せたらすぐにぴりぴりして、少しだけど薬みたいな粉っぽい風味がしたからすぐ分かったよ。多分お腹壊してずっと下すことになると思う」
それよりもほら、とピエールは鯉を三等分により分け、三分の一をミアの方へと寄せた。
一度苦笑いを見せてから、何も言わず鯉の白身を咀嚼し、妹へと口移しを行う。
釈然としないままミアは鯉を口へ運び、予想以上の泥臭さで思わず咽せて咳き込んだ。
貴重な食糧である鯉の身を吐くことだけはせず、賢明に自身の分を全て胃に納める。
とはいえ数日前の毒樹の森で食べた謎の偶蹄の脚と比べればずっとずっとましであることに気づいてからは、精神的には幾分楽であった。
泥臭い魚で食事休憩を取った三人は。
口元に残る泥臭い口臭に悩みながらも、再び湿地帯を歩き始めた。




