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姉妹冒険者物語  作者: 並野
王国の竜
17/181

冒険者-08

 どこからか、硝子が砕けるような音がした。

 それは破魔矢を撃ち込まれた姫の周囲、魔力の白靄が弾ける音だったが、確かに音を聞き取ったにも関わらず、炎に阻まれてハンスの目に音の源が見えることはなかった。


 地下広間を埋め尽くしていた魔力の炎はじきに鎮火し、紅蓮に埋め尽くされていたハンスの視界が元に戻る。

 焼け焦げて縮こまった腐竜だったもの、根源の魔力を失い物言わぬ躯へと戻った五体の屍、負傷具合のばらばらな冒険者たち、そして。


「あ、ぎ」


姫が小さくうめいて、泉の中に崩れ落ちる。


「クリスっ!」


ハンスが叫び、脇目も振らず姫の元へと駆け寄った。

 姫の脇ではピエールとアロイスが警戒心の残る表情で目を光らせていたが、これ以上手を出す気は無いようだった。

 尤も、攻撃の兆候を見せれば別だろうが。


「クリス、クリス……!」


足が濡れるのも厭わず、泉の中を突っ切って姫を抱え起こしたハンス。

 何度か呼びかけると、弱々しくも姫は目を開く。

 その瞳と髪は薄茶色の、姫本来のものだ。先ほどまでの灰色に濁ったものではない。肌の色も人間離れした白さが抜け、代わりにその顔は真っ青に青ざめている。


「……あなた、誰? わたし、どうしたのかしら……。何だか、夢を見てた、ような……」


震える声でハンスに問いかけた姫は、左手を口元に当てると喉が裂けそうなほど高い音で数度咳をした。

 手を離せば、紫がかった明らかに正常ではない色の血痰が付着している。


「クリ、ス……」


ハンスが顔をくしゃくしゃに歪め、荒れてがさがさになった唇を強く噛み締めた。唇に食い込み、鮮血が流れる。

 何と答えればいいのか分からない。正に、そういう顔だ。


「お爺さん……どうしてわたしの名前を知ってるの……? あっ、そ、そうだ……国の、レールエンズの皆は……? 今、国で病気がはや……」


再び姫がせき込み、汚れた血を吐き出す。

 ハンスは目を閉じて言葉を探していたが、やがて険の無い、優しい顔で微笑んだ。


「……我々はレールエンズを救いに来た治療師の一行だ。もう苦しんでいた国民は皆治療して、あとは君だけだ。君は我々が助ける。……だから、だから」


ハンスの顔が震える。決死で涙を堪えながらも、笑顔を取り繕う。


「だから、安心して眠るんだ。そうすれば、後は我々が君を助けるから」

「そう、なの」


ハンスの言葉を聞いた姫は、小さく呟いて目を閉じた。

 再び咳をし、矢の刺さった脇腹から血が滲む。


 直後。

 唐突に目を開き、儚くも悪戯っぽい顔をして姫は笑った。


「本当に、ハンスお兄ちゃんって嘘が下手ね。そんなだからわたしにいつも騙されちゃうのよ」


ハンスの顔から笑顔がするりと抜け落ち、表情を失った顔で目を見開いた。

 姫は血で汚れた左手を伸ばしかけてから、すぐに引っ込めて右手をハンスの皺だらけのくしゃくしゃの頬に伸ばした。

 少女のすべすべの、そして生気の薄れ始めた冷たい手で老人のがさつく頬を撫でながら、姫は遠い目をして追憶に耽る。


「もう、お爺ちゃんじゃない……。一体……何年、こうしてたのかしら……」


姫の目が虚ろになり、呼吸が弱々しくなり始める。

 そしてそれに反比例するかのように、動揺し激しくなるハンスの鼓動。


「クリス……!」

「父様がね……ここを使って、わたしをね……守って、くれたの。……でも」


クリスがせき込む。その咳も弱く、途切れ途切れだ。


「クリス、もう喋らなくていい! 喋らなくて……」

「わた、しの、身体……死ななっ……ど……。心が……、なっ……れで……」


姫がぽつぽつと話す中。

 竜神だった残骸が、ぼこりと崩れて音を立てた。

 警戒心漲るピエールとアロイスが、即座に反応し振り向く。

 真っ黒な炭屑になった腐肉。その中から、斑のひも状の物体が絞り出されるように這い出てきた。

 薄汚れた白黒の、小さな蛇だ。

 ピエールとアロイスが凝視する中、明らかに死にかけの蛇がゆるゆると身体をくねらせて泉の縁を登り、辿り着いた姫の胸元に潜り込む。

 姫はそれに気づくと、震える左手でそっと蛇を撫でた。

 瀕死の蛇の白黒の身体を、姫の汚れた血が彩る。


「……い、で、あり、が、と……オア、ミィ……。……れ、めん、ね……」


口元を赤紫の血で濡らした姫が、小さく、穏やかに微笑んだ。

 瞼が降り、腕からすっと力が抜ける。


「皆、殺して、ごめん、なさい……。終わらせてくれて、ありがと、ハンスお兄ちゃん……」


目を閉じたまま、最後にはっきりとそう口にして。

 姫は、動かなくなった。


「……クリス」


ハンスが姫の名前を呼ぶ。数度呼んで、数度揺さぶる。

 それでも姫は動かない。それでも再び繰り返す。

 分かっている筈のことを何度も何度も確認して。

 何度繰り返したか分からないほど繰り返して、繰り返して、ようやくハンスはそれを認めた。

 クリスは、死んだ。


「お、お、おおお……!」


身体全てを震わせるかのようなうめき声と、流れ落ちる涙。

 うめき声はやがて嗚咽となり、嗚咽はやがて大きな大きな慟哭へと変わる。


 ハンスが泣く。

 齢六十を越えた老人が頭を激しく振り乱し、大粒の硝子球のような涙をぽろぽろとこぼしながら。

 あの日から歯を食い縛って一度も泣かずに耐えてきた男が、幼い子供のように大声を上げ、幼い日の大切な友人の名を呼びながら。


 ハンスが泣く。

 姫の亡骸を、その腕に抱えながら。

 この日。森に囲まれた魔法の王国レールエンズは、真の意味での終焉を迎えた。


   :   :


 戦いの後始末は重苦しい雰囲気の中、粛々と行われた。

 負傷者の手当を行い、散らばった腐敗物を軽く掃除し、三人の少女と一匹の蛇の亡骸を中庭で火葬する。

 一連の始末はアロイスとハンスの手によって行われ、手当の施された負傷者三人は中庭の片隅で、火葬される骸とそれを間近で見つめ続けるハンスを眺めていた。


「やっとけりが着いたな……」


ピエール、アーサー、オットーの負傷者三人が中庭で休んでいる所にアロイスが戻り、オットーの側に腰を降ろした。

 動くことを止めた国王と王妃、それに火葬した三人を含む遺骨を応接間の玉座の側へと移動させた後だ。


「爺さんはどうしただ」

「今日一晩は一人にしてくれってよ。まあ仕方ねえよな」


大きく息を吐いてから、アロイスは空を見上げた。

 王宮の壁に囲まれた空は、ほんの少しだが暮れ始めている。


「一人にして大丈夫なのけ? 色々と」

「俺も考えたが、本当に骸骨たちは綺麗さっぱり動かなくなってるし、例の気持ち悪い雰囲気も無くなってる。大丈夫だろ」


元凶は、あの王女だったってことだ。

 アロイスが付け足した感情の籠もらない呟きに、オットーはやるせなさから顔をしかめ、背けた。

 一瞬とはいえ熱風が直撃したその頭と下半身には、包帯が何重にも巻かれている。


「何ともすっきりしねえ話だで」

「まあな。最期に王女が少しだけ喋ってたが、結局詳しい顛末は分からず仕舞だ」

「つうかよ、わざわざ殺さんでも何とかすればその姫さん止められてたんじゃねえのけ?」

「……そういうのは止めとけ、苦労が増えるだけだ」


中年二人は揃って空を見上げ、大きなため息を吐いた。

 それから、会話に加わらぬ姉妹二人に視線を投げかける。

 そこには小さく鼻を啜りながら姉にしなだれかかり懐に顔を埋めるアーサーと、その後頭部を優しく撫でながら、心臓の鼓動に似た一定のリズムを刻むピエールの姿。

 その仕草は、泣き疲れた子供をあやす母親を思わせる。


「ん? どしたの?」


中年組からの視線に気づいたピエールが、顔を上げて二人を見返した。

 その顔のゆうに八割は包帯で覆われ、左腕は添え木で固定され、手足の先は巻かれた包帯が滲んだ血で桃色に染まっている。その外見は重傷どころか、生者に見えるかどうかすら怪しい。

 その懐に顔を埋めるアーサーも、両の二の腕と左のすねに包帯が巻かれ服や後髪の腐食が激しい痛ましい惨状だ。


「本当に変な奴だで、おめえら」

「えー、なんでさ?」


アーサーを撫であやす手は止めずに、包帯の隙間から見える片目と口だけで明るく微笑むピエール。

 その顔に、戦闘中漲っていた強烈な気迫や闘志の類は全く感じられない。


「こうして見ると本当にただの小娘って感じしかしねえべ。それが戦い始めるとあれ。……おでには分かんねえ、さっぱり分かんねえ。旦那はどうやって見抜いただ?」

「俺だって分かんねえよ。分かってたのはこいつらが順当に経験を積んできた、年季の入ったベテランだろうってことだけだ。それがまさかここまで出来て、こんなもの持ってるとは……なあ?」


中年二人が顔を見合わせ、揃って姉妹の胸元へ目を向けた。

 少女たちの胸元に煌めく、純ミスリル製の胸当てへと。


 ミスリル。

 この世で最も高価な、輝く純白の金属。その理由は軽さ。

 ミスリルはあらゆる金属を凌駕する驚異的な強度を持ちながら、綿のように軽いという単純ながら極めて強力な性質を持っている。

 服の下、薄皮一枚分でもミスリルを身に纏えばあらゆる攻撃を防ぎ、そして身につけているのも忘れるほど負担が軽い。

 その性質から権力者や金持ちを筆頭に莫大な需要を集め、ミスリル製の防具は他の金属の追随を許さないとてつもない価格で取引されている。

 また、ミスリルは加工が極めて困難で、ミスリルを融解させられる魔力の持ち主は現代の魔法使いには一人もいないという真偽の不明瞭な噂話や、ミスリルに纏わる多種多様な逸話やおとぎ話がその信仰じみたミスリルへの憧れに拍車をかける。


 二人が持っているのは服の下に身につけている女性用の胸当て二つ、それに表面を革で覆い隠していた小盾一つだが、これだけでも豪華な屋敷が一、二軒は余裕で建てられるほどの価格が付くことは間違いない。


「……取っちゃやだよ」


中年二人の視線が自身の胸に集中しているのを感じ取り、ピエールは右手で胸を隠して薄目で二人を睨みつけた。


「誰が取るかよ。お前らは今回の功労者だ、流石にそんな奴ら相手に盗み働くほど落ちてねえ。……それに、いくら死にかけだからってお前ら相手に盗みとかおっかなくてとても出来ねえよ。盗めても他のもん無くしそうだ。腕とか命とかな」


アロイスが肩をすくめて笑い飛ばすと、ピエールもすぐに表情を緩めて再びアーサーの頭を撫で始める。


「んで、そっちの妹はどうしたんだべ」


オットーの視線がピエールから逸れ、アーサーへと向かった。

 彼女は未だ姉の懐に顔を埋めたままだ。話題に上った今も、顔を上げる気配は一切無い。

 その対応に、ピエールは苦笑いしつつ包帯の上から自身の頬を掻く。


「暫くそっとしといてあげて。アーサーは戦い終えた後はよくこうなるんだよね」

「傷でも痛むのけ」

「どっちかというとこっちかな」


苦笑いのまま、自分の顔の包帯を指差すピエール。

 理由を察した中年二人の笑顔が、少しだけ強ばった。


「ああ、確かにお前の顔は酷かったな」

「どっちがアンデッドだか分からんほどだったべ。どんだけあの腐った汁を浴びてたんだか」

「お姉ちゃんは、もっと自分を大事にしてください」


中年二人の発言に、アーサーが顔を埋めたまま小さく同調した。

 すかさず三人が視線を向けたが、再び彼女が喋ることはない。


「お姉ちゃんだってよ」

「余裕が無い時はつい地が出ちゃうんだよ。普段は格好付けて姉さん、なんて呼んでるけどね」

「何だかんだ言ってもおめえはやっぱり姉貴で、そいつはやっぱり妹ってことけ」

「まあねー」


そこで会話が途切れ、アロイスが大きく息を吐く。

 それから小さなかけ声と共に立ち上がった。


「何はともあれお疲れさん、前衛の三人とも本当によくやってくれた。あとは帰るだけだ。俺たちは一階の兵士の詰め所跡で休むから、お前らも適当な場所で休んでるといい。何かあったら言え、雑用は無傷の俺の仕事だからな。……それともう一度言っとくが、移動するなら手貸すぞ?」

「いらない」


アーサーに間髪を入れぬ拒絶をされ、小男は小さく笑う。

 次いでオットーも立ち上がり、中年二人は連れ立って中庭を去った。

 後には、姉妹二人だけが残る。


   :   :


 夕焼け空の中、中庭のテーブルに飾られたままの硝子の花が光を浴びて微かに煌めく。

 それを眺めながら、二人はゆっくりと保存食をつまんでいた。

 ピエールが包帯で覆われた右手の指先でクラッカーやナッツをつまみ上げ、自身とアーサーの口元に少しずつ放り込んでいく。

 アーサーは両手を力無く地面に垂らした状態で、頭だけを前に伸ばしてピエールの手から食事を行っていた。

 その様はまるで親から給餌を受ける雛鳥だ。


「ごめんね、右手こんなんで。血の味とかしない? 大丈夫?」

「いえ、大丈夫です。私の方こそごめんなさい、本当は自分で食べるべきなんですが……」

「いいっていいって、動かすと痛いんでしょ? じゃあしょうがないよ」

「ありがとう、お姉ちゃ……姉さん」


言い掛けてから訂正し、頬を赤くしてアーサーは俯いた。

 その顔はわずかに赤い血の斑点が出来ているが、包帯を巻くほどでもなく、水で流して少し治癒の呪文をかけたきりだ。斑点は、小さなかさぶたになっている。


「別に無理して言い直さなくてもいいのに。お姉ちゃんでいいよ?」

「おね……姉さんが、よくても私は嫌です」

「そう?」

「ええ」

「そっか」


ピエールは血の滲む右手で林檎の砂糖漬けの欠片をつまみ、アーサーの口へと運んだ。

 暫く咀嚼するのを見届けてから、今度は革の水筒の先を妹の口元へと当てる。

 んくんくと小さな喉仏を上下させながら、水がアーサーの喉を流れ落ちていく。

 いくらか飲んだ所で水筒を離し、今度は自分が水を飲み始めた。

 二人合わせて半分ほど水を飲んだ所で、水筒の蓋を閉めて脇へ置く。そして、また保存食をつまみ始める。


「それにしても、何とか生き残れてよかったよね」


ピエールは明るく何気ない口調で切り出したのだが、その言葉でアーサーは一転して表情を暗くし、口を堅く結んで俯いてしまった。

 余計な一言だと気づいたピエールが慌てて取り繕うが、その表情は見る見る内に暗さを増していく。


「本当に何とか、です。どこで死んでもおかしくなかった。腐敗物を浴びた時、上半身だけでなく下半身も一緒に浴びていれば今頃私は死の瀬戸際。姉さんが吹き飛ばされた時一度でも胴で受けるのに失敗して、頭や腰を打っていればきっとそのまま全滅。飛行中のあれを捕まえるのに使った巻物が、よくある使い物にならない粗悪品なら。ハンスが殺されてやはりそのまま全滅していたかもしれません」

「い、いやでも結果としてちゃんと生きてたからさ、だからそんな思い詰めなくても」

「本当に! 本当に死ぬかもしれなかったんですよ! しかも、あのニアみたいな最悪な死に方で……!」


突然声を荒げたアーサーの目尻が潤み始める。そこから完全な泣き顔に変わるのは一瞬だ。


「よかった……本当によかった……! 生きててよかったよ、お姉ちゃん……、ごめんなさい、私が弱かったからこんなにぼろぼろになって、私がもっと強かったらちゃんとお姉ちゃんを守れたのに……!」


再び何度もしゃくりあげ、泣き始めるアーサーの頭をピエールは数度優しく撫でた。


「ああもう、さっき痛い痛いってわんわん泣いたばっかりじゃん。アーサーはほんと泣き虫なんだから」

「でも、でもぉ……!」

「はいはい、よしよし」


ピエールが頭を撫でながら強引に自身の胸元へ引き寄せると、アーサーの頭はその懐にすとんと収まった。

 互いに言葉も無く、緩やかな空気が流れる。

 アーサーの頭を撫でながら、ぼんやりと目線の先にある硝子の花束を眺めるピエール。穏やかな雰囲気の中ゆっくりと瞳を閉じ、微かな微笑で右手を動かし続ける。

 暫しの間続いた、優しい沈黙。それを先に破ったのはアーサーだ。


「……姉さん」


その音量は小さく、罰の悪そうな声音。


「ん? どしたの?」

「すいません、その……少し、催して、きました」


最後の辺りは本当に消え入りそうなほど小さな声で、懐に頭を預けたままの顔を耳まで真っ赤にして呟いた。

 ピエールが緩く笑い、アーサーが胸元から離れるのを待ってから立ち上がった。


「外、出よっか」


   :   :


 左足が不自由なアーサーの左から、ピエールが胴へと手を回す。

 厳重に包帯を巻かれた左の二の腕を刺激しないよう慎重に、二人三脚の要領で二人は広間を歩く。

 その歩みは極めて遅い。


「ごめんなさい、せめてどちらか片方の腕だけでも無事なら杖を突けたのですが」

「これくらいなら平気だよ。……というか、謝るくらいならむしろアロイスのおっちゃんに頼んだ方が余裕だったんじゃない?」


ピエールが冗談めかした態度で横目で見つめると、アーサーは罰の悪そうな顔で目を逸らした。


「そ、それは……嫌です、他人は……。ごめんなさい、我が儘言って」

「いや、軽い冗談だからそんなに真に受けなくていいよ。しかしまあよかったよね、私の手の怪我とアーサーの足の怪我が両方とも左で。これが左右ならちょっと大変だった」

「そうですね」


軽口を叩きつつも、二人はのそり、のそりと遅々とした歩みで広間を横切る。

 足元の絨毯に足を取られないように気をつけている為、その速度は一層遅い。

 ピエールに歩く調子を任せ、それに合わせているアーサーがぼんやりと真上を見上げた。空は既に薄暗く、日差しの線も既に消えている。ここに来た時光を浴びていた錆びた鉄仮面は、今はもう影の中だ。


 時間をかけて門の前まで辿り着いたピエールが、左足を使って器用に門を押し開けた。

 錆びた金属の擦れる音と共に門が開かれ、夜の王国の姿が視界に広がる。


 二人は一言も喋らず、目を見開いてその光景に目を奪われた。

 小高い丘の上に立つ王宮から、眼下に広がるのは星の川。

 王宮の入り口から冒険者たちが入ってきた外門までを、一直線に光の粒が列を成している。

 そしてその周囲を取り巻くように、視界の及ぶ範囲一帯にちらちらと灯る光。


 薄暗い夕方の城下町を、沢山の街灯たちが今も照らしているのだ。

 その景色は既に滅んだ廃墟の国とは思えない、優美で、それ故に儚い美しさを伴っている。

 王国の死という事実を拒むかのように。

 王国はまだ生きていると言い張るかのように。

 城下は光り、国を照らす。


「……これ、あのお姫様がやってたのかな」

「でしょうね。他に出来る人はいません」

「ちょっと、他の人呼んでくる」


アーサーをその場に座らせてから、急いで広間の奥へと引き返すピエール。

 やや間を開けて、三人の男を連れて戻ってくる。


「おお……」

「こりゃすげえべ」


中年組二人は感動を覚えつつもまだ常識的な反応だ。視線を右から左、左から右へと何度か往復させて景色を堪能していた。

 一方、ハンスは身体を震わせたり目を見開くといったことをせず、目を細めて静かにその光景を見下ろしていた。

 五十年かけて刻まれたハンスの皺の、その奥に埋もれる細まった瞳から静かに涙が流れる。

 枯れた老人の、一体どこにこれだけの量の雫があるのか。少し前にあれほど大量の涙を流していながらも、皺を濡らす雫は未だ尽きることを知らない。


「懐かしい……懐かしいのう……。この国を出る前日も、こうして同じ景色を眺めていたのだ、クリスと、共に……」


とめどなく湧き出そうになる感情と表情を押さえながら、ハンスが語る。


「普段は平然としていたクリスが、その時ばかりは不安そうな顔をして、寂しくなるね、と呟いたのだ。そこで儂は、たった五年、すぐ戻ってくるから心配するなと返した……。それがまさか、五年どころか、五十年もかかるとはな……」


表情や姿勢はそのままに、ハンスが数歩前へ歩み出る。

 町へ向かって、坂道を降り始めた。

 その後ろにアロイスが続き、俺が付き添うから心配するな、と残る三人に手振りで語りかけた。

 王宮の前に佇む三人の視界からハンスとアロイスがゆっくりと遠ざかっていき、やがて見えなくなる。

 その様を最後まで見届けてから、座ったままのアーサーが横に立つピエールの服の裾をつまんだ。ぼろぼろに腐食していた服の端が、つままれたことであっさりと千切れる。


「……姉さん、そろそろ」

「ん? ああ、そうだった」

「おい、おめえらまでどこ行くんだべ。んな怪我で」


随分な労力をかけて何とか立ち上がり、王宮の脇へと回ろうとする二人をオットーが呼び止めた。

 それは純粋な疑問と心配からの言葉だったが、振り返ったアーサーの表情は優れない。強い羞恥と嫌悪感の入り交じった顔だ。

 その横ではピエールが、見慣れた苦笑いを見せる。


「トイレだよ。流石に中でする訳にはいかないからね」

「……ああ、さよけ。邪魔してわりいな」


得心行ったオットーが言葉少なに王宮の中へ引っ込み、二人は改めてえっちらおっちら王宮の脇の茂みへと進み始めた。

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