16 四日目
「化け物がああっ!」
一拍遅れて飛びかかってくる、怒りで我を失った様子のエリアン。
ピエールはそれを横目で見つめて。
懐へ鋭く踏み込み顔面を盾で殴りつけた。
ぼぐぉっ……、と重く残響感のある打撃音が休憩所に響く。
「……」
盾がめり込んだ顔面は象にでも踏まれたかのように陥没し、エリアンは喋ることも振り上げた剣を下ろすことも出来ずに硬直していた。
ピエールが足で軽く蹴飛ばすと、べりっ、とエリアンの顔面から盾が剥がれ、身動き一つ取らず仰向きに倒れた。
潰れた口元からはかひゅ、かひゅ、と空気が洩れるばかり。
頭蓋が砕け、脳があるべき空間は半分に潰れている。もう意識はないだろう。
「えっ……あっ……?」
一瞬の出来事に我に返ったステフと、ミアに構っている場合ではないと気づき意識を相手へと戻したロッテが似たような反応を示した。
ピエールが短剣を投げてから、十秒程度しか経過していない。
たったそれだけの時間で、有利だった筈の戦況は絶望的な状況へとひっくり返っていた。
「なっ……なんっ……起きろ、起きろよエリアン! お前が! お前が切り出した襲撃だろうが! おい! 起きっ……ひっ!」
ピエールはもうロッテの目の前にいた。
手を伸ばせば届く距離で、右半分を血で染めた少女の顔がロッテを見つめている。
「……え、えへへ、わ、私は悪くない、のです、あいつらが襲撃を命令したのです、だから、た、たす」
ロッテが命乞いしながら半歩下がろうとした瞬間。
ばちっ。
まるで女の子同士の喧嘩のような動きで、ピエールがロッテの顔を盾ではたいた。
しかし人間らしからぬ怪力で打たれた結果、ロッテの顔は二百度近く後ろへ回転している。
一言も発さず、震える手で自身の頬があった場所を触ろうとするロッテ。
しかし彼女の手が触れたのは頬ではなくうなじ。
直後、受け身も取れずに顔面から後ろへ倒れた。
じきに死体へと変わるそれは、小刻みに痙攣し続けていた。
最後に残されたのはステフ。
そしてロッテに暴行され土埃の中横たわるミア。
「あ……その」
ステフは辛うじてその場に立っている。
しかし全身は震え、顔にはびっしょりと脂汗を浮かべ、挙げ句の果てに股座を濡らし湯気を立ち上らせていた。
ピエールは何も言わない。
閉じられた右目を含む顔右半分と妹を抱える左腕の掌はしとどに血で濡れ、右手には焦げた盾を握っている。
その盾の縁には赤とそれ以外の色の何かがべっとりとこびりついていた。
そんな満身創痍の少女の顔は。
本当に人間なのかと疑いたくなる、見ただけでぞっとするほどの無表情であった。
光の喪われた左目など、最早暗がりに身を潜める魔物の眼差しそのものである。
「た……たす……たすけ……」
「誓って」
少女の姿をした怪物相手に股間から何かをこぼしながら、辛うじて口からも言葉をこぼすことに成功したステフ。
彼に対し、ピエールはただ一言そう要求した。
「それ、は……」
「神様に誓って。私たちが君の仲間を返り討ちにしたことを誰にも明かさないって。君の仲間は魔物に襲われて死んだことにするって。私たちに罪をなすり付けない、私たちに危害を加えない、町に着くまで私たちを助けるって」
「……」
「そう、中央神教の神様に誓って。そうすれば殺さない」
ステフの顔に、恐怖だけでなく苦悩の色も現れる。
中央神教における神は単なる象徴ではない。
祈りには祝福が与えられ、戒律を守り続ければ力となり、過ちは力と祝福の剥奪によって正される。
そんな中央神教にとって、神への誓いとは単なる口約束ではない。
特に、人の生き死にが関わるような重大な誓いであれば、意図して破れば単なる過ちでは済まない。
ステフの視界の端に、無惨にも殺された仲間二人と、じき死ぬであろう仲間一人が映る。
彼らの姿はどれも凄惨だ。
頭蓋を砕かれた衝撃で目玉や舌が飛び出た恐ろしい死に顔や、苦痛や意識があるのかも分からない不気味な痙攣。
長年の付き合いがある仲間の惨死に、確かな怒りは存在する。
しかし仕掛けたのは間違いなくこちら側。
元よりこの状況、カリシクの法に照らせば正当防衛になりうる。
それを曲げてまでピエールを断罪、復讐したいという気持ちは強くない。
それに何よりも。
ステフはただ単純に、目の前の少女に恐怖していた。
少女の形をした暴力そのものに。
機嫌を損ねて惨たらしい死体の仲間入りをすることに。
「わ……わか……」
震えながらも同意を示そうとするステフ。
しかしステフの行動は他ならぬピエール自身によって遮られた。
「は……え……?」
手振りでステフを遮ったピエールが、松林の遙か北の先へ視線を投げる。
視線をそちらに固定したまま、やや間を空けて。
自嘲とも自暴自棄とも取れる曖昧な笑みをへら、とこぼした。
「……ミアちゃん。生きてる?」
北に視線を固定したままピエールが呼びかけると、土埃にまみれ倒れていたミアがやおら起きあがる気配を見せた。
肌を露出している腕と顔に青痣をいくつも作ったミアが、震えながら辛うじて上半身を起こす。
ピエールはミアの元まで歩き、盾を持つ右手でミアの身体を持ち上げた。
自身の左半身に立てかけるかのように無理矢理立たせる。
「私に背中を預けていいから、そのまま立って前を向いてて。……絶対に怯えないで」
君もね、とピエールが付け足すと、ステフは震えながら身体を反転させて北を向いた。
ミアも目の上が腫れた暴行後そのものの顔を持ち上げ、足の痛みに震えながら前を見る。
「あ……あの……一体な」
ステフの息が止まった。
視線も震えも全てが停止して遙か北にあるものを見た。
遙か北、松林の彼方にそれはいた。
遙か遠くにいる筈なのに、はっきり分かるその姿。
松の木と比較して、明らかに異常なその巨体。
身長優に三メートル強。
茶色い毛皮に黒光りする巨大な爪。
真っ直ぐにこちらを見据えたまま、二足歩行で砂地を踏みしめこちらへ歩み寄ってきている。
豪傑熊。
ただの熊とは比べものにならない、魔獣と呼ぶに相応しい魔物の姿がそこにあった。
「あンっ、ひっ、なッ」
恐怖のあまりステフの呼吸が乱れ、過呼吸の様相を呈し始める。
ミアも目を千切れんばかりに見開いたまま、硬直して動かない。
ステフ同様に股を生温かく濡らし、半開きになった口は歯をかちかち打ち鳴らしている。
「まだ敵意はない。楽に食べられそうな獲物か様子を見てる。怯えないで見返し続けて」
ピエールが告げる合間にも、豪傑熊は着実に歩を進めている。
近づけば近づくほど分かるその威圧感。
カクロロはピエールのことを怪物だと評したが、実際にこうして豪傑熊と見比べれば痛感しただろう。
本当の魔物とは違う、と。
豪傑熊の歩みはゆっくりだが、歩幅が人とはまるで異なる為速度は決して遅くない。
気づけばもう前腕の爪がミアの手首ほどの太さであることや、口の端から泡とも涎ともつかない白い液体を垂らしていることもはっきりと見える。
堂々とその場に立ち、アーサーを左腕で抱えて豪傑熊を真正面から見返すピエール。
しかし態度とは裏腹に、内心は六割ほど死を覚悟していた。
戦闘になれば確実に死ぬ。
妹含め万全の状態ならまだしもこの負傷と装備では絶対に勝てない。
仮に撃退出来たとしても、町に辿り着くどころかまともに身動きが取れないほどの重傷を負うのは想像に難くない。
唯一の望みは戦闘そのものの回避である。
幸い相手は初日に戦った鹿のような半狂乱ではない。
それでいてよく見れば右手の爪は二本砕け、茶色い毛並みには裂傷や焼け焦げた痕がある。
戦闘で手傷を負った状態であることが窺える。
相手に一筋縄ではいかない、手を出せば更に傷が増える相手だ、と思わせれば。
そう判断させれば、豪傑熊にリスク回避の選択を取らせることは決して難しくはない。
だから最善は怯えないこと。怖がらないこと。逃げないこと。
相手に弱い獲物だと思わせず、警戒させ、危険性を意識させること。
それを徹底すれば生存は十分狙える。
筈だった。
「……う、うわああああああっ!」
突如ステフが絶叫した。
度重なる恐怖に精神が限界に達したステフが、半狂乱で叫びながら踵を返し一目散に逃げ出したのだ。
豪傑熊が駆けた。
瞬間的に二足歩行を四足走行へ切り替え、四つん這いであっても高さ二メートルを越える毛皮と筋肉の山が驀進してくる。
しかしピエールは怯まない。
怯めば死が確実になると分かっている。
下がるどころか一歩大きく踏み出して。
振り下ろされた爪を盾で殴り返した。
飛び散る火花と爪の破片。
カウンターで打ち払われ宙を掻く丸太のような茶色い豪腕。
予想外の結果に豪傑熊の思考が一瞬上滑りし――
「がアアアアアアアーッ!」
ピエールが全身全霊の雄叫びを放った。
小柄な少女の肺にある空気を全身全ての筋肉を使って絞り上げ、一息にぶつけた。
空気がたわむような錯覚と毛皮が震えるほどの威圧感が、豪傑熊の巨体を満たし揺さぶり通過する。
周囲一帯から鳥と大型昆虫が一斉に飛び立ち逃げていく。
豪傑熊が怯んだ。
腕を引っ込め顎を引き、三メートルを越える巨体が自身の半分にも満たないちっぽけな少女に警戒心を抱かせた。
遅れて爪が一本砕かれたことに気づいた。
「……」
鼓膜が裂けそうなほどの絶叫のあとに、一瞬の静寂が訪れる。
腕を引いた豪傑熊が思考を巡らせる。
魔物の脳裏で、損得計算が行われる。
下がった。
前を向いたまま、その巨体からは想像もつかない軽やかさで後方へ下がって少女から距離を取り、豪傑熊は逃げたステフの追跡に切り替えた。
熊相手には決して背を見せて逃げてはいけない。
それは通常の熊であっても魔物である豪傑熊であっても、どうやら同じらしい。
二度目のステフの絶叫が響いたかと思うと中途半端なところで途絶え、ややあって口元を真紅に染めた豪傑熊が二足歩行で三人のいる場所へと戻ってきた。
戻ってきた豪傑熊もピエールも、お互い決して視線を逸らさず、豪傑熊は遠巻きにうろつきながら少しずつ距離を詰め、転がっていた荷物を鼻先で探り、死体三つを装備ごと丸かじりにして貪った。
ばきばきばき、と巨大な歯車に木片が挟み潰されるような、湿った硬い何かが砕かれる音が響く。
豪傑熊の巨大な顎は骨どころか軽金属の防具すら紙切れのように噛み砕き、一口目で頭から胸まで、二口目で胴から股間まで、三口目で千切れた足二本をいっぺんに胃袋に納めた。
計四人分の肉で腹を満たした豪傑熊は、最後までピエールを警戒しちらちらと振り返って視線を向けながらも、彼方へと去っていった。
「……」
戦いは終わった。
残されたものは少なく、刻みつけられたものは多い。
ピエールの右目は潰れた。
これはもう町で専門家の治療を受けなければ、手持ちの薬では治らない。
左手と右頬にはいくつもの穴。
風穴が空くほどではないが、頬はともかく手は薬を使って治さなければ戦闘に支障が出る。
右腕は震えている。
いくら人外じみた身体能力を持つピエールといえど、人の胴体ほどもある豪傑熊の腕に小盾で真正面から打ち合って無事な筈がない。
特に痛む前腕の骨は恐らく骨折ないしひびが入っている。
これも薬が必要な上、応急処置にしかならない。
アーサーも無数の爆風呪文の余波を受け、顔面にいくつも裂傷が出来ている。
瞼に刺さった小石はすぐに抜けたが、ピエールほどではないものの流血している。
無事な片目からはとめどなく溢れる涙。
その涙の原因は、きっと自身の痛みではないだろう。
そして。
ああ、そして。
ピエールは盾を握り妹を抱えたまま、ゆっくりと視線をずらした。
視線を降ろし俯いて、自身のすぐ側で倒れているその姿を見た。
恐怖で震えながらも左足で辛うじて姿勢を維持していたが、つい先ほど限界を迎えてその場に倒れ込んだその小さな身体。
ロッテに全身を激しく踏みつけられ、蹴り飛ばされ。
右足の膝が、おかしな方向へ曲がっているミアの姿を。




