表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
姉妹冒険者物語  作者: 並野
お姉ちゃんの旅路
161/181

08 三日目

 鼠蝙蝠の死体から離れ五分ほど歩いてから、ピエールはゆっくりと妹と背嚢を毒樹の根本へ降ろした。

 自身もぺたりと座り込み、幹に背を預けて足を前へ投げ出す。


「ああ……」


声が洩れた。

 黒く縁取りされた目を緩く閉じて、ピエールは細く長く息を吐く。


 傍らにはアーサー。

 ピエールは右手を地面に垂らし、妹の手を自身の腕に添えさせる。

 何かあった時に、動かず腕を掴むだけで気づけるように。


 ピエールは少しだけ、ほんの少しだけ警戒も疎かに心身を休めることにした。

 これ以上気を張っていたら頭がもたない。


「……」


目を閉じたまま、盾を握ったままの左手で傍らの背嚢を漁る。

 手探りで瓶を掴み、盾から手を離さず器用に片手で蓋を開け中身の匂いを嗅いだ。

 薬品系の異臭がしないことを確認し口へ運ぶ。


 酢だ。

 果実の風味はしない。穀物酢だろうか。

 ピエールに詳細は分からなかったが、あまり濃度は高くなくひとまず飲用に足るということで彼女はそれを一瓶飲み干した。

 美味しいまずいの話以前の、それ単体で人が飲むべきものではない、という気分がした。


 つい投げ捨てそうになった空き瓶を蓋を閉め背嚢に戻し、食料の残りと水筒を出す。

 食料のいくらかを自分で食べてから、水筒の水と一緒に妹へ再度口移しで分け与える。

 一連のことを全て目を閉じたまま手探りで行い、終わった後も目を開けず片づける。

 朝陽照らす中で目を開けているとひりひりと眼球の芯が痛んだし、ただ開けていることすら酷く億劫であった。

 今の彼女にとって、それは手足の怪我の痛みよりも煩わしいものであった。


 食事を終え、満身創痍の身体をなんとか休めようとしていたピエール。

 しかしそれを、小さな子供の呼びかけが遮った。


「あ……あの……」


震える声が、目を閉じているピエールの耳に届く。

 閉じていた目をなんとか、意識して努めて開き応えた。


「……なに?」


ピエール自身でも驚くほど低い声が出た。

 あからさまに怯える娘の姿に、罪悪感がちりちりと心を苛む。

 しかし心身の疲労から、取り繕う余裕すら持てない。


 怯える娘は見る見るうちに目を潤ませ泣き出しそうになったが、なんとか堪えて言葉を続ける。


「こ……コップか……瓶を……貸して、貰え、ません、か……。呪文、で、水を……出す……ので……」

「……」


最後の方は今にも消え入りそうだったが、辛うじて言葉を絞り出した娘。

 ピエールは無言で暫く見つめ、ややあってから背嚢から小鍋を取り出した。

 先日川の水を煮沸した時に使ったものだ。


 ――食べ物か水でも要求してきたらよかったのに。

 要求してくれれば冷たく扱えたのに。

 同情心を紛らわせられるのに。


 ピエールの心の野生(・・)が疼いた。

 疼いてからすぐに、自己嫌悪に陥った。

 それが余計に心を苛む。


「あ……あり、がと……ござい……」


小さく礼を述べてから、娘はとぼとぼ姉妹から離れた。

 離れたところで、呪文を唱えるくぐもった声がする。


 ほどなくして、とぽとぽとぽ、と小鍋に放たれる水音がする。

 ピエールが目を閉じてぼんやりしていると、水音がいやにはっきりと耳に響く。


 とぽとぽ。

 とぽとぽとぽ。


 水音はか細くも意外に長く続き、ピエールがちらりと薄目を開けて見ると小鍋に半分、コップ二杯分ほどの水が満ちていた。

 先日の、娘の母親の言葉が脳裏を過ぎる。

 確かにこの年でこれだけ水の呪文を扱える者はそういないだろう。

 なんとも優秀で、将来有望な人材である。


 そんな風にぼんやり考えていたところ、ピエールと娘の視線がはっきりと交差してしまった。

 娘は一瞬呆然とした顔でピエールの顔を見つめ返してから、すぐに小鍋へ視線を落とす。

 小さな小さな喉をごくりと鳴らし、身体を震えさせる。


「……あ、あ、あの、この、水」

「いいよ。いらない。君が全部飲んだらいいから。分け前が欲しいとか、そういう意味で見てた訳じゃないから」

「で、で、でも」

「いいから」


震えながら水の満ちた小鍋を差し出そうとしてくる娘を押し留める。

 娘は今にも叱られるのではと怯える子供の顔で姉妹の顔色を窺ってから、初めはおずおずと、やがて勢い良く、一滴たりとも逃さない勢いで水を嚥下し尽くした。

 小鍋を逆さにし、落ちてくる水滴一滴まで小さな桃色の舌で受け止めると、我に返ったのかやや恥ずかしそうに小鍋を地面に置く。

 今までこんな行儀の悪いこと一度もしたことなかったんだろうな、とピエールはぼんやり思った。


 続いて娘は肩掛け鞄の中から大きな丸パンを取り出し、もむもむと小動物めいたかじり方でパンを食べ始めた。

 三分の一ほど食べてから、名残惜しく包みを巻き直し鞄へ戻す。

 彼女自身もちゃんと食べ物を持っていた。野営地は全て燃えてしまったが、個別に確保していてくれてよかった。

 ピエールはその事実に安堵し、ほんの少しだけ心の重荷が軽くなった気分になった。


 もしかしたら。

 もしかしたら、このまま娘を連れて隣町まで辿り着けるかもしれない。

 儚い希望が脳裏を照らしかけたが、ピエールはすぐに振り払った。

 体力も、水も、食べ物も、辛うじて今朝まで持っただけだ。今日、明日と耐えられるとは限らない。

 次の魔物の襲撃で、守り切れるとも限らない。

 無駄な希望に縋ってはいけない。


 だけど。

 もし。もしかしたら。この可能性に心を浸すだけで、ピエールの心は随分と軽くなった。

 昨日からずっと続いていた頭痛さえ和らいだような気分になって、この賢く可愛らしく将来有望な無辜の娘を見捨てることに自分がどれだけ罪悪感を抱いていたのかを痛感した。


「……ごめんね、アーサー」


傍らで横たわる妹に小さな声で謝る。

 妹は苦痛の色を滲ませつつも"仕方ないですね"とでも言いたげな、苦笑と許しの表情を姉へと返した。

 言葉など無くとも、お互いの感情は筒抜けであった。


 後頭部を完全に毒樹の幹に預け、やや上を向くような体勢で力を抜く。

 暫くの間、ピエールは静かにそうしていた。



   :   :



 正味一時間ほど心身を休めてから、ピエールは再び妹と背嚢を背負い山間の道を西へ歩き始めた。

 まだまだ目元の隈は色濃い。

 しかし青白かった顔色は血色を取り戻し、今朝のよろめいた半死人のような歩調ではなくなっている。

 体調はある程度回復していた。


 一方ピエールの体力が戻ったということは、歩調は速まり娘は早足で付いて行かなければならない。

 昼を待たずに息は相当荒くなっていたが、それでも娘は必死でピエールの背中に食らいつき続けていた。

 引き攣ったような浅く絶え間ない呼吸音を響かせながら。


 山間の毒樹の道はどれだけ進んでも殆ど代わり映えせず、左右の毒樹の山と低い下草と敷かれた石の道筋だけが視界内に広がっていた。

 生物の姿も無い。この辺りは生え並ぶ毒樹を中心に生態系が成り立っており、毒樹の葉を食用とする大型生物も少数だが存在する。

 しかし一晩明けて歩き始めてから、そういった生物の存在や気配を感じたことは一度もない。


 まるで森そのものが息を潜めているかのようだ。

 ピエールはそう感じていた。


 一切の言葉無く、落ち葉を踏む音と呼吸音だけを鳴らしながら進む二人と一人。

 先頭を歩くピエールの感覚が何かを捉えた。


「……ん」


小さく呟く。

 しかし歩みを止めることはなく、また小声であった為後ろにいる娘が反応することもなかった。


 ピエールが右手を上げ、背負っている妹の右手を握った。

 数度にぎにぎして意思の疎通を行う。

 どうやらアーサーの方も気づいているようだ。


 しかしそれきり何か相談するということもなく、歩き続ける。

 歩き続けていると、やがて視界にもはっきりと変化が訪れた。


 毒樹の減少。

 彼らの独壇場であった筈の山間の道で、毒樹の生え並ぶ間隔が少しずつ広がっていく。

 それと同時に地面を覆っていた下草の種類も変わり、草の絨毯、という形容からずれ始めた。


 下草の絨毯が剥げ、その隙間から見えるのは毒樹の森の土とは明らかに異なる黄土色の砂。

 どうやらここを境に土質が毒樹に合わないものへと変わっているようだ。

 それはつまり、毒樹の森の終わりをも示している。


 毒樹の数は加速度的に減り始め、変わりに低木の類が増え始める。

 やがて毒樹が完全に途絶え、道を挟み込むように伸びていた山も左右へ広がり道から離れて。


 視界に広がったのは砂の平野だ。

 やや目の粗い黄土色の砂が敷き詰められ、その合間から枯れたような色の草や低木、それに松らしき針葉樹が主な植生となっている。

 砂地ではあるが砂漠ではない。乾燥しておらず、つま先で少し砂を掘ると内部は湿っている。

 海岸の松林。

 周囲に海どころか水辺も無いが、おおよその印象としてはそのようなものだ。


 ピエールは一度立ち止まり、目の前に生えている一本の針葉樹を見上げた。

 高さ二十メートルはありそうなそれを隅々まで見回したが、実は見当たらない。

 実っていれば食用に、と期待したが時期ではないようだ。

 落胆の小さなため息と共に、少女は再び歩き始める。



   :   :



 松の幹に、中型犬ほどもありそうな大きな甲虫が貼り付いている。

 二人と一人は甲虫を刺激しないよう、甲虫から少し迂回して歩く。


 ある程度進んだところで甲虫は両羽を勢いよく広げた。

 ばるばるばる、と内羽を喧しく羽ばたかせ宙を滑空しながら一直線に少女らへ滑り降りてくる甲虫。


 の、顔面めがけてピエールが投擲した小石が鋭く突き刺さった。


 ばがん、と小気味よい音を立てて石が直撃し、甲殻の頭部が仰け反る。

 続けて二個、三個と投石が直撃する度甲虫の姿勢が乱れ、最後の一発が外羽に命中すると回転しながら地面に落下した。

 甲虫は羽を畳むのも疎かに、慌てて逃げ去っていく。

 その様を見送りつつ、二人と一人は道へ戻った。

 長く続くまばらな道石の上を進む。


「……」


ピエールは無言で歩きながら、背負っている妹の垂れ下がる右手をそっと握った。

 同時に呼吸音に意識を向ける。


「っ……ぅ……」


弱く荒い。

 体力を喪い心肺機能は弱々しく、しかし身体は空気を求めて呼吸を早めようとしている。

 背負っているピエールには見えていないが顔色は青くも白くも無く、逆に不自然に赤い。

 さながら泥酔者のような異常な顔色をしている。


 良くない傾向だ。

 昨晩から今まで、弱った身体を無理して何度も動かしたことや、鼠蝙蝠の襲撃時ピエールと共に起きていたのがじわじわと響いている。

 本当は今すぐ休憩を取って寝かせてやりたい。

 優しく横たえ、額を撫でて、休ませてやりたい。


 しかし歩を緩めることは根本的な解決を遠ざける結果にしかならない。

 妹の命を守る為に必要なのは、一刻も早く町に着きまともな回復技術を修めた者の手当を受けること。

 ピエールは下唇を噛みながら、黙々と松林の中を歩き続ける。


「え゛ぅ」


不意に背中のアーサーが厭な声で呻き、水音を迸らせた。

 ピエールの鎖骨の辺りに胃液と水の混ざった吐瀉物が吐きかけられる。

 漂う()えた異臭。


しかしピエールは一切怯まない。

 嫌がる素振りを全く見せずに、右手でアーサーの頭をそっと撫でた。

 アーサーが苦痛と申し訳なさで泣いているのに気づけば"気にしないで"と小さな声で囁きかける。

 慈愛の笑みを浮かべながら。


 そんな姉妹の背中を、必死で追い縋る娘はじっと見つめていた。

 弱音一つ洩らさず自分より大きな妹を背負い歩き続け、吐瀉物を吐きかけられても嫌がる声一つ上げず、それどころか優しく頭を撫でる姉の後ろ姿を。

 自身の疲労すら忘れて、じっと見つめていた。


 じっと見つめていたからこそ、気づかなかった。

 ピエールが歩きながら真剣な口調で話しかけていたことに。

 唐突に立ち止まったことに。

 姉妹の背中の向こうに朽ちた小さな廃墟が現れたことに。


 廃墟の入り口に、妙な岩の塊が落ちていることに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ