07 二日目
顔への石を弾くと同時に背後から気配。
しかしそれが幻であることは分かっている。
念の為、という程度の力で短剣を振るい幻を掻き消して、再び毒樹の幹に背を預けた。
預けた途端、闇の中から石が飛来して少女の胸に当たる。
がきょ、と服越しに硬い物にぶつかる音を残して、石は地に落ちた。
少女はもう避けることもしない。
「ああ……」
動いていないのに息が荒い。
鳩尾から上、皮下の中身に圧迫感がある。
刺すような頭痛は、頭蓋骨の内側に茨の鞭が巻き付いているかのようだ。
身体にはべとついたヘドロのような脂汗が滲む。光の下で見たならば、汗はきっと汚水のごとき濁った灰色だ、という誤った認識を抱きたくなる不快感。
「うあ……」
少女の口から途切れ途切れにうわ言が洩れる。
何か喋っていないと、思わず目を閉じてしまいそうになる。
今にもへたり込んでしまいそうになる。
少女の身体に限界が近づいていた。
このまま持久戦が続けば、人外じみた身体能力を持つピエールであろうと集中力を保つことが出来ない。
周囲への警戒を怠れば、たちまち闇の中に屯する二匹の鼠蝙蝠の餌食になる。
三人は毒に身体を蝕まれながら、生きたまま食い殺されることになるだろう。
しかし。
魔物との地獄の我慢比べは、もうじき終わりを迎える。
わずかに白み始めた空が、少女の心を希望の灯で照らしていた。
「大丈夫……生きてる……生きれる……死んでない……」
小声でぶつぶつ呟き、ピエールは俯いていた顔を持ち上げやおら虚空を見つめた。
毒樹の隙間から見える東の空が、だんだんと明け始めている。
心の底から待ち望んだ暁の時。
「最後だ……最後……焦ってる……絶対焦ってる……来る……来る……来る……」
赤子が涎を垂らすかのように、もろもろと口の端からだらしなく言葉を垂れ流すピエール。
普段であれば、魔物であろうと敵前で長々無駄口など叩かない。
彼女自身、今の言葉が心の中での想いなのか実際口に出した発言なのか区別が付きにくくなっていた。
朦朧とした意識の中で、本能的な闘志だけが今の彼女を繋ぎ止めている。
「来るって……絶対……ほら来て……来てよ……」
がくん、と首が折れるかのように頭を俯かせた。
その瞬間、彼方から飛来する石二つ。
一つ避けて一つは盾で弾いた。
乾いた音を立てて闇に消える石。
その奥から、石が弧を描いて戻ってくるかのように鼠蝙蝠の巨体が飛びかかってくる。
ピエールが目を極限まで見開いた。
顔を上げ真正面から鼠蝙蝠を見据えた。
短剣を大きく振りかぶった。
少女の身体が跳ねる。
びゃっ、と横へ落ちるような速度で眼前の巨体へ突貫する。
そして満身創痍の少女は飛びかかって来ていた幻ど真ん中を突っ切って、その奥にいた鼠蝙蝠本体へ今度こそ確と短剣を突き立てた。
ぎゅっ。
下腹部に短剣の刃を深々と突き立てられた鼠蝙蝠の鳴き声は、拍子抜けしそうなほど小さなものだった。
薄汚れた尖った金属が表皮を破き、肉をこじ開け、腸をかき混ぜる。
体当たりに等しい勢いで刺された鼠蝙蝠は勢いよく突き飛ばされ、血で落ち葉を汚しながら地面を転がった。
ぼとっ、ぼとっ、と地面を跳ねながら転がり、毒樹の根本でその勢いを止める。
このまま何事も無ければ、二、三分で死ぬであろう致命傷だ。
遂に鼠蝙蝠の一匹に致命傷を叩き込んだピエール。
しかし突き立てた短剣の手応えを右手で感じたその瞬間にも、横からもう一匹の鼠蝙蝠が襲いかかって来ている。
短剣を突き出した後の右手側から迫る鼠蝙蝠の巨体。
足を真上に振り上げ鋭い爪が顔面に迫り来るのを、身を捩って盾を右側へ突き出し防いだ。
かと思ったら掻き消えた。
足爪を振り上げる幻の陰に潜んでいた本体が、幻とはまるで異なる低い姿勢で懐へ滑り込んだ。
ずぶっ。
右腕を貫く長い足爪。
ピエールの顔が苦悶と、何より傷の深さに顔を歪めた。この深さでは肉を抉って毒を出すなど不可能だ。
唯一の僥倖は、刺さった爪が深かったことで鼠蝙蝠側もすぐに爪が抜けず、即時離脱出来なかったこと。
ピエールは爪が刺さったままの右腕で足を掴み取り、その先に繋がっている鼠蝙蝠本体を地面に叩きつけた。
「がああああっ……!」
苦し紛れの絶叫と共に右腕の爪を引き抜き、無事な左腕を振り上げて盾で鼠蝙蝠の鼠の顔面を叩き潰す。
続けて首の骨を踏み砕き、更に全体重と膂力をかけて盾の縁を胸部に突き立て鼠蝙蝠の胴体にはっきりとした陥没を作った。
脳がこぼれるほど頭部が砕け、首と胸部が潰れた鼠蝙蝠が完全に沈黙する。
間髪入れず右手の短剣を投擲した。
一直線に飛ぶ短剣が先ほど短剣を突き立てた瀕死の鼠蝙蝠へと着弾し、血塗れの腹部に纏わりつく魔力の白光を命ごと霧散させる。
短剣を突き立てられた鼠蝙蝠が、密かに回復呪文を用いて腹部の致命傷を治していたのだ。
もしもピエールが最後の一刺しを加えなければ、じきにこの致命傷すらも完治させて襲いかかってきていただろう。
だがいくら消耗していようと、夜に一度叩き砕いた筈の鼠蝙蝠の顔面が元通りになっているのをピエールが見逃しはしなかっただろう。
今度こそとどめを刺された二匹の鼠蝙蝠が、完全に絶命する。
五時間近い時間をかけて、ようやく戦いに勝利したのだ。
二匹の鼠蝙蝠を討ち取ったピエールが、短く咳をするかのように息を吐いた。
そして倒れた。
受け身一つ取れずに顔面から落ち葉に突っ込んだ。
身体が痺れて動けない。
盾持つ左手など、持ち手を固く握り締めたまま鉄に変わったかのようにがちがちだ。
「ふっ……は……ふ……」
鼻から呼吸は出来る。
視線を動かすことも出来る。
唇は動かない。
穴の空いた身体の痛みも鈍い。
手足は指先一本、ぴくりとも動かない。
鼠蝙蝠の足爪の毒は、極めて即効性の高い麻痺毒であった。
一刺しされてから完全に動けなくなるまで、十秒と経っていない。
ピエールが今まで受けた数度の爪傷も、抉るのに少しでも躊躇していれば対処が間に合っていなかっただろうほどの即効性。
その時は今頃、意識を保ったまま自分の内臓を食い散らかされる水音を聞いているところだ。
ピエールの意識は、今度こそ闇の中へと落ちようとしていた。
鼠蝙蝠を討ち取ったことで完全に緊張の糸が切れていた。
どれだけ意識を保とうと努めても、どうせ身体は痺れて動けない。
もし今新たな襲撃者が現れれば、間違いなく自分たちは死ぬことになる。
だがもう何も考えられない。
今はもう何も出来ない。
身体が痺れて動けない。
心も痺れて動けない。
ピエールは目と口を半開きにしたまま、気絶によって意識を手放した。
: :
ピエールが倒れて意識を失ってすぐ。
一つの人影が、震えながらも落ち葉を踏んで立ち上がった。
旅の道連れの娘、ミアだ。
先ほど腕を刺された時のピエールの叫びによって目を覚ましていた。
暁の森は既に暗闇の中になく、薄暗い、と呼べる程度にまで明るさを取り戻していた。
視界は通る。
両手をきつく胸元に押しつけながら、娘は震えて辺りを見回した。
自身の傍らで滂沱の如き涙を流している金髪の少女。
表情をぐしゃぐしゃに歪めてどうにかして身体を動かそう、愛する姉の元へ這い寄ろう、と試みている。
しかし、彼女の身体は無情にも、仰向けから俯せに寝返りをうつことすら叶わない。
その余りにも鬼気迫る、絶望に満ちた顔に見ている娘の方すら悲しみを誘われた。
離れたところには、おぞましい魔物の亡骸が二つ。
顔面の潰れた、恐らく蝙蝠らしき大きな動物。
腹部に短剣が突き刺さり、紐状の内臓がまろび出ている同じ種類の動物。
見ているだけで身の毛がよだつ。この小さな童女にとって、生物の脳など生まれて初めて見るものであった。
その片方の亡骸の側に。
茶髪の少女が手足から血を流しながら倒れていた。
娘は歯をかちかち慣らしながら、おっかなびっくり少女の元へ歩み寄っていく。
「あ、あ、あの……あ、の……」
震えながら途切れ途切れに呼びかける。
しかし返事はない。
ぴくりとも動かない。
もしかして死んでしまったのだろうか。
あの二匹の魔物と相打ちになって。
その可能性を考えた娘の胸中に、重たい何かが生まれる。
だがその何かの原因は、先ほど見た金髪の少女の嘆きの表情であった。
少女が死んでしまったら自分も遠からず死ぬことになる、ということよりも、大切なお姉さんを喪ってしまったあの金髪の人があまりにも可哀想だ。
と、無意識のうちに自身の未来のことより先に考えていた。
屈み込んだ娘が、茶髪の少女の生気の薄れた顔を覗き込んだ。
目と口は虚ろな半開きのまま動かない。
目の下は漆黒に近いほど真っ青な隈で色濃く染められ、顔は全体的に青い。
わずかに白みを帯びている唇の端からは涎。気にする素振りどころか反応すら窺えない。
見た目は明らかに死人だ。
だが弔いの為両目を閉ざそうと娘がかざした手の平に、ほんの僅かな呼吸による空気の流れが触れた。
娘が目を見開き、地面に手をついて至近距離から茶髪の少女の顔を見つめる。
かすかだが、はっきりとした呼吸があった。
「あ、あの、あの、あの……!」
身体を揺さぶり必死で呼びかけたが返事はない。
やはりただの屍にしか見えない。
娘は身体を縮こめたまま周囲を数度見回してから、倒れる少女の足を持ち上げてずるずると引きずり始めた。
足を持ち上げようとした瞬間、がちがちに固まって曲がろうとしない少女の身体に再度驚きを露わにする。
実際は麻痺毒によるものであったが、人は死ぬと身体が固くなる、という聞きかじりの知識が娘の頭を過ぎっていた。
「はぁっ、ふぅ、ふぅっ……!」
ちっぽけな童女の身体で、苦労しながら少女のかちかちの身体を嘆く金髪の隣へと引きずり終えた娘。
引きずり終えて一息つき、金髪の少女が泣きながら震える指先で茶髪の身体を撫でるのを見届けてから。
娘は悩んだ。
酷く悩んだ。
泣きそうな顔で悩んでから、鼠蝙蝠の亡骸から短剣を回収しに向かった。
周囲をきょろきょろ見回しながら、酷く怯えきった様子で鼠蝙蝠の亡骸へと駆け寄る娘。
もうぴくりとも動かないその亡骸。溢れている内臓からは、まだほかほかと生温かそうな湯気が立ち上っていた。
「ぅぅ……」
小さな声で呻きながら、娘が短剣の持ち手に手を伸ばす。
にちゃぁっ。
「ひっ」
短剣は激戦の証と呼ぶべき多種多様な粘液で持ち手まで汚れており、触れた娘の指先に半透明の不気味な液体が糸を引いて付着した。
絶望的な顔で娘は手を引っ込め、毒樹の落ち葉で指先を拭い、更に集めた落ち葉を使って粘液に触れないように短剣を引き抜いた。
ずるっ、ぼとっ、と鼠蝙蝠の身体から引き抜かれた短剣が地面に落ちる。
続けて刺し跡から溢れた血やそれ以外の液体が短剣に塗りたくられる。
彼女は短い人生経験の中で、この短剣以上に穢らわしい物体には今まで出会ったことがない。
娘は泣きそうな顔をしながら落ち葉で短剣の端っこを掴み、地面を引きずって横たわる二人の元へと戻った。
「……」
人生史上最悪の汚物である短剣を茶髪の少女の側に置き、改めて娘は二人へ視線を向けた。
すると、金髪が自身に目を向け何かを必死に訴えていることに気づいた。
金髪の少女は目つきが細く鋭く、鋭利で冷たい圧迫感と威圧感がある。
娘は酷く怯えながらも、落ち葉に膝を付き懸命に意図を汲み取ろうと意識を傾けた。
――ねえさんの
――こしに
――くすりびんがある
――きずぐすりをきずにかけて
――げどくやくをのませて――
耳を寄せないと聞き取れない程度の声量で、たったそれだけの言葉を絞り出しただけで金髪の少女は疲労困憊になって顔を青ざめさせ、苦しげに喘ぐばかりとなってしまった。
娘は弱々しく呼吸するばかりとなった金髪を悲痛な顔で見下ろしてから、下唇を噛んで行動に移った。
俯せに倒れている茶髪の少女の腰のベルトポーチを開け、中身を慎重に探る。
最初に開けた箇所はごろごろと石が詰まっていて、投擲用だと知らない娘は首を傾げながらも開いた箇所を元に戻した。
続けて開けた箇所には欠片状の干し肉が一塊。
彼女が町を出る際に回収し、行動食となっている物だ。
娘の目の色が変わる。
搾り尽くされからからに乾いていた筈の口内に涎が滲んだ。
何せ昨日の昼から歩き詰め、夜は昏倒するように眠り、何も食べていない。
ひとつまみ、せめてひとつまみだけ、ちょっとくらい食べたって、こうして働いたんだから――
下唇を噛む力を強め、かぶりを振って欲望を堪えた。
今まで以上に激しく震える手で元に戻し、次に開いた箇所でようやく小さな薬瓶を三本ほど発見した。
ラベルを見て治癒の薬と汎用解毒薬を見分け、治癒の薬の瓶の蓋を開ける。
未だ血の滲む右腕の穴にそっと垂らそうとした。
と思ったら何故か手の甲が娘の眼前にあった。
遅れて風圧が髪を揺らした。
何が起きたのか分からなくて、茶髪の少女が弾かれるように飛び起きて自身を殴ろうとしたのだと、殴られる直前に寸止めされたのだと遅れて把握して、遅れて恐怖がやって来て姿勢を崩して尻餅を着いた。
薬瓶が手からこぼれ落ちる、という寸前で茶髪の少女が瓶を掴み取る。
「……ごめん。痛みで気が付いて、気が付いたと思ったらすぐ近くに妹じゃない誰かがいて、びっくりして咄嗟に手が出ちゃった」
目覚めたピエールは発言のあとに続けて口を開きかけたが、何も言わずに閉じた。
礼を言おうとした口を。
ピエールは掴んだ薬瓶を一瞥し、左手でベルトポーチを軽くまさぐってから瓶の中身を手足の怪我へ注いだ。
眉をしかめて治癒の苦痛に耐える。
「あの蝙蝠の麻痺毒、効きが物凄く早かったけどその分抜けるのも早いみたいだね。もう抜けちゃったよ」
一瓶の中身を複数ある全ての傷口に注ぎ終え、ピエールは息を吐いた。
他の瓶を娘から回収し、妹を小脇に抱え、ずり、ずり、と毒樹の落ち葉の上を這って座ったまま幹に背を預ける。
未だ生娘のように泣き腫らしている妹の背中をぽん、ぽん、と撫でさすり、身体の力を抜いた。
「……アーサー、あの蝙蝠は食べれる?」
手を握ってから尋ねると、アーサーは握り返して反応を示す。
ただそれだけのことで意思の疎通を終えたピエールは"毒持ちだもんねぇ"とだけ呟いた。
弱々しく目を閉じ再び大きく息を吐いてから、膝に手を置き立ち上がる。
「起きてすぐで悪いけど、ちょっとだけ歩くよ。死体のすぐ側にいるのはあんまり良くないから。離れて、それから、少しだけ……休ませて」
やはりピエールは視線を向けないまま娘に告げ、返事を聞くこともなくアーサーに背嚢を背負わせ、背嚢ごとアーサー自身を背負った。
べたつく額の汗を左手の甲で拭い、思わず確認してしまう。
勿論濁ってなどいない。汗は無色透明だ。
娘が立ち上がったのを背中ごしに気配と音で確認してから、ピエールは歩き始めた。
しかしその歩調は娘でも無理無く追える、昨日と比べて明らかに遅々とした歩みであった。




