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姉妹冒険者物語  作者: 並野
お姉ちゃんの旅路
159/181

06 二日目

「今日はこの辺で休むから。……君はもう寝てていいよ。心配しなくても、夜は(このこ)と一緒に守れるから見殺しにはしないし、出発する時は起こすから」


ピエールの最大限の譲歩の言葉。

 それを聞いた娘は母親の肩掛け鞄をお腹に抱えて尻餅を着くように座り込み、ころんと倒れた。

 死んだ虫が足を丸めるかのように手足を折り、荒々しい呼吸を繰り返すだけの物体へと変わる。

 弱々しく目を閉じ激しく胸を上下させる娘の姿を暫し見つめてから、ピエールも野営の準備を始めた。


 山間の道はまだ続いている。

 辺りには例の毒樹一種類しか樹が生えておらず、その全てが真上に向かい高く真っ直ぐ伸びていた。

 伸びる木々の幹は茶色一色で低い位置に葉は無い。さながら天に向かって垂れる鍾乳石のようだ。

 遙か先端を見上げれば競い合うように高所高所へ葉を茂らせており、それを見てようやく鍾乳石ではなく樹だと分かる。


 一方、毒樹しか生えていないが密度はそう高い訳ではない。

 木々はまばらで地へ陽が落ちる隙間は十分にあり、地面には背の低い柔らかい下草と落ち葉による絨毯が敷き詰められていた。

 尤もそれは、裏を返せば短い下草しか生えていないということでもある。低木はおろか背の高い草も全く見当たらない。毒樹の落ち葉も多く、無害な朝露や薪は集められそうにない。

 背負っていた妹をそっと木陰に降ろし、荷物を降ろして自身も草の絨毯に腰を降ろす。

 泥を吐き出すような重いため息が出た。


「……調子はどう?」


布を丸めて枕にして妹の後頭部に敷き、顔の汗を優しく拭いながらピエールが尋ねる。

 尋ねられたアーサーは瞳を弱々しく半開きにし、衣擦れにも満たないほどか細い声で言葉を放った。

 陸に上げられ死にかけの魚が喘ぐように途切れ途切れで発されるそれを、穏やかに、辛抱強くピエールは聞き取っていく。

 そうして半死半生の妹が絞り出した言葉に、ピエールの表情が強張る。



――わたしがめいれいするから


――わるいのはわたしだから


――わたしのせいにして


――こどもをもうころして――



 ピエールは、すぐには答えなかった。

 何も言わず、疲れた身体で妹を抱え上げ優しく抱き締めた。

 互いの首を絡めた状態で、何も言うことなく、ただそうしていた。


 アーサーは分かっている。

 あの娘の存在が姉にとって大きな精神的負担になっていることを。

 この極限状態で、どうせ最後は行き倒れるのを見捨てるしかない子供に対し押さえ切れない同情心を抱いていることを。

 冷たく切り捨てられない。かといって優しく接して心の安寧を計ることも出来ない。

 無辜の命がかかった二律背反に悩んでいる。

 それを解決するには、今この手で殺してしまうのが一番手っ取り早い。

 どうせ最後は見捨てるのだ。間接的か直接的かの違いしかない。

 この場で殺して、罪悪感も責任も全て自分に押しつければいい。アーサーに命令されたから、アーサーが悪いから、仕方がない、と。

 アーサーは、弱った身体を奮い立て、労りの言葉より先にそう提案した。


 だが。

 アーサーは分かっている。

 この姉にそんなことが出来る筈がないと。

 心労と責任を妹に丸投げ、など出来る筈がないと。

 そんな器用な真似が出来るのなら、初めから悩んだりなどしていない。

 人に優しく、だけど真に大事なものは見失わず、かといって冷徹にはなり切れない。

 それがピエールという名の小さな姉なのだと。

 アーサーもまた、分かっていながら言わずにはいられなかった。


「……アーサー、ありがと。……ごめんね」


小さな声で礼を述べた後も、姉は妹を抱き締め続けた。

 ほんの僅かな間だけ、周囲の警戒すらも忘れて妹を抱き続けていた。



   :   :



 毒樹の葉の隙間から、月明かりが二人と一人に注ぐ。

 夜闇の中でも空気は温かく、むしろ肌にまとわりつくような生ぬるい不快感を伴っていた。

 娘はかすかに上下する胸以外微動だにしない。死んだように眠っている。

 隣に横たわっているアーサーも似たような状態だ。娘との違いは、呼吸が苦しそうに喘ぐようなものである、という点だけ。


 そんな二人の側で、ピエールは二日目の単独不寝番を敢行していた。

 目を半開きにして夜闇に慣らし、短剣と盾を握り締め毒樹の幹に背を預ける。

 精神力を(やすり)にかけながら睡魔に抗い、周囲の気配に意識を向け続けていた。


 月は高く上り、夜も半ばを過ぎている。

 しかし何も現れない。

 今晩は風も無く、夜の毒樹の山は恐ろしいほどに静かであった。


 俯く自身のかすかな呼吸音がはっきりと聞こえる。

 やや離れた位置にいる妹と娘の呼吸音すらも聞こえる。

 ピエールは無音の森の中で、努めて無心を保ち頭を空っぽにして精神を落ち着けていた。

 毒樹の木々と暗闇に、心身ともにとろけて混ざり合ってしまいそうなほどに。


 余計なことを考えてはいけない。

 考えれば心が乱れ頭が重くなるから。

 今だけは周囲の気配にだけ心を配っていればいい。

 その方がずっと気が楽だから。


(だから私は、何も聞いていない)


そう心の中で絞り出し、ピエールは不寝番を続ける。

 寝ている娘が親を呼びながら呻くのも、彼女の両の目から溢れる雫が月明かりで煌めくのも。

 何も聞いていないし見ていないことにした。


   :   :


 心すり下ろす不寝番を始めて幾ばくか。


 何か来る。


 ピエールは武具を握る手の力を強め、くし、と毒樹の落ち葉を踏んで立ち上がった。

 盾を握る左手で、手袋越しに額を拭う。

 冷や汗はいくらか拭えたが、頭痛は拭えそうにない。


 気配の位置はやや高く、毒樹の頂上付近かあるいは空。

 どうにも不明瞭な、確信の無いぼやけた印象を抱く気配だ。

 ピエールはちらりと視線を横へ投げ、妹が苦痛を堪えた眼差しで見つめ返していたのに穏やかに笑い返してから、神経を上空の気配へ集中する。


 音はしない。

 羽ばたきも、枝を揺らす音もない。

 全くの無音の夜の森のままだ。

 ピエールはゆっくりと息を吸い、そして止める。


 短剣を斜めに振り入れた。

 しかし刃は空を掻き、無音の飛来者が振るった鋭い爪もお互い空振りすれ違う。


 屈んで攻撃を回避していたピエールが即座に姿勢を起こし、襲撃者を正面に捉えた。

 対する襲撃者もピエールの攻撃を回避したことで軌道を乱し、夜の森の落ち葉の上へその身体を落ち着けていた。


 襲撃者は、体高一メートルは越すであろう大きな蝙蝠だ。

 前足には蝙蝠の特徴である大きな皮膜の翼が張られ、後足にはまるで猛禽のものを丸ごと移植したかのような鋭い爪。

 一方、頭部だけは蝙蝠というより齧歯類、鼠のものによく似ている。鋭い門歯がかすかな月光を浴びてぬらりと煌めいた。

 鼠蝙蝠、とでも呼ぶべき不気味な様相。

 だがその迫力の無い出で立ちとは裏腹に、向き合うピエールの顔に余裕はない。

 それは精神力の消耗からか、あるいは。


 鼠蝙蝠の側も真正面からピエールの姿を見つめ返し、一鳴きもせず、落ち葉を踏みしだく音一つ立てず完全な無音のまま後ろ宙返りするかのように飛び上がった。

 木と闇の合間に姿が隠れる。


 姿は当然見えない。

 音も一切しない。

 五感では鼠蝙蝠の存在などもうどこにも感じられない。

 気配すらも夜闇の中で朧に紛れる。

 しかしどれだけ朧になったとはいえ、気配が消えていないことをピエールは分かっている。


 その場に棒立ちとなったまま、少女は動かない。

 無音、無風、微光の中、俯いて気配にのみ全神経を集中させる。


 木々が不自然に揺れた。

 葉が無為に舞った。

 何かが落ち葉へ落ちた。


 ピエールは動かない。


 小石が飛来した。

 視線も向けず半歩摺り足で避ける。

 枝が飛来した。

 最小の動きで盾を掲げて防ぐ。


 ピエールは動かない。


 傍らに横たわる二人めがけ石が飛んだ。

 右手を伸ばして短剣の刃先で弾く。

 もう一度石が飛んだ。


 弾くと同時に猛烈な速度で身体を捻りピエールは背後へ短剣を突き込んだ。

 視界に大写しになった鼠蝙蝠の巨体へ。

 翻した上半身の動きだけで落ち葉を舞い上げながら蝙蝠の胴体へ短剣を食い込ませた。


 そして蝙蝠は霧のように掻き消えた。


「あっ、がっ」


死角から突き飛ばされたピエールが毒樹の幹に額をぶつけた。

 即座に立ち上がり、追撃を警戒しながらまずは怪我の具合を確認する。


 痛みに意識を向けた瞬間、短剣を滑らせて自身の腕の肉を削いだ。

 浅く裂かれた柔らかいぷにぷにの腕の肉を、傷口ごと切り落とす。


 それと同時に、アーサーが闇夜の中で顔面を蒼白にしながらも"どく"と辛うじて絞り出していた。


「……ね。傷から、良くない熱があったよ」


自身の肉片と一緒にぼとぼとと塊のような鮮血を落ち葉へ落としながら、ピエールは再度警戒姿勢を取る。


 先ほどの鼠蝙蝠が放ったのは幻の呪文だ。

 闇夜の中で隠れて呪文を用い、実体のない自身の幻を生み出してピエールへぶつけた。

 石を投げつつ、幻の呪文をぶつけつつ、毒を持つ後脚の爪と牙で本命の一撃を仕掛ける。

 闇夜の奇襲であるにも関わらず、入念で巧みな戦術。


 ピエールは構えて周囲に目を向けたが、当然のように鼠蝙蝠の姿はもうどこにもない。

 先の攻撃そのものが幻であったかのように。

 しかし幻ではないことは、削ぎ落としたばかりの腕の痛みが鋭く主張している。

 まだ戦いが終わっていないことも、闇の中に未だ朧に漂う気配がかすかに示している。


 再び石が飛ぶ。

 軽く弾く。

 枝が飛ぶ。石が飛ぶ。

 全て難無くいなす。

 この程度の牽制は、落ち着いてさえいれば防ぐのは造作もない。


 その間にも数度幻がピエールめがけて放たれた。

 しかし元より彼女は視覚ではなく気配という別種の感覚に依存している。

 種さえ割れてしまえば幻と本物を感知し分けるのも不可能ではない。

 二度、幻であるという確信を持って盾で殴りつけ幻を掻き消して。


 三度目の幻をわざと大袈裟に短剣で掻き切り鼠蝙蝠の攻撃を誘った。

 焦れていた鼠蝙蝠がここぞとばかりに奇襲をしかけた時。


 眼前にあったのは、黒く焼け焦げた盾の表面であった。


 人間離れした怪力で振り降ろされた盾が鼠蝙蝠の右目を潰すに飽きたらず飛び散らせる。

 盾の通過軌道上にあった歯は残らず粉と砕かれる。

 顎だったものが押し潰され顔にぶら下がる肉と骨片の塊に変わる。


 ぎぴぎゅっ。


顔の右半分から顎にかけて叩き砕かれた鼠蝙蝠は勢いをつけて落ち葉積もる地面に叩きつけられ、跳ね返って毒樹の幹に背中から衝突した。

 圧迫された肺から漏れた空気が、喉と砕けた顎を通過して不格好な鳴き声となる。


 殺せてない。

 が、好機。

 ピエールは短剣を握り締め吹き飛んだ鼠蝙蝠へ一歩踏み出そうとして。


 すぐ真横にもう一匹いることに気づいた。


「っ、そっ」


目をあらん限りに剥いてその場に倒れた。

 体勢が崩れるのも構わず屈んで足爪を避け牙を盾で防ぐ。

 咄嗟の回避だった為体勢は馬乗り状態だ。

 仰向けに倒れたピエールの上で、隠れ潜んでいたもう一匹の鼠蝙蝠が激しく暴れる。


 牙は盾で防げる。

 短剣は前足の爪と拮抗している。

 しかし下半身の足爪は――


「がっ、あああっ……!」


ピエールが右足を振り上げた。

 全身をバネのように跳ね上げ膝を鼠蝙蝠の胴体へねじ込む。

 攻勢が緩んだところで顔面へ盾。

 完全に怯んだところで短剣を、という寸前で鼠蝙蝠はたまらず飛び上がって闇の中へ逃げてゆく。


 立ち上がったピエールが一瞬躊躇した。

 歯噛みして顔をしかめた。

 しかしそれも瞬きの間ほどのこと。


 次の瞬間には、ピエールは自身の右足へと短剣を突き刺していた。

 匙でバターをほじくり出すかのように、表皮を貫き肉を抉り出す。

 鼠蝙蝠の足爪が刺さった箇所を。

 痛みを堪えるあまり、目だけを大きく見開いた無表情のまま。


 短剣を突き立て終わったピエールは、二匹の鼠蝙蝠がその場から消えているのを確認し、しかし周囲から気配は途絶えていないことに警戒を漲らせつつも腰のベルトポーチから薬瓶を掴み取った。

 視線も向けず蓋を開け、自ら裂いた手足の傷へと中身を注ぐ。


 苦痛、苦痛、苦痛。

 尽きぬ痛みがちっぽけな小娘の身体に注ぎ込まれる。

 しかし怪我による表面的な痛みなど、心に一切届かない。

 愛しい者を背負って戦っているから。

 心に苦痛さえ無ければ、今負っている全ての怪我は重傷には至らないただの手傷でしかない。

 手が動かなくなる訳ではない。足が動かなくなる訳でもない。

 心頭滅却すれば無傷同然。

 本人はただの痩せ我慢だとおどけて評するだろうが、それは紛れもなく闘志と呼ばれるものであった。


 薬瓶の中身を注ぐ最中、ピエールは鼠蝙蝠からの妨害を最後まで警戒していた。が、実際には鼠蝙蝠たちの襲撃が行われることはなかった。

 それどころか、薬を注ぎ終え一息ついて改めて迎撃体勢に戻っても、何も仕掛けてこない。

 だというのに周囲に漂う朧な気配が消えることはない。


 ピエールは毒樹の幹に背を預けて力ない苦笑いを洩らした。

 不意に闇の彼方から石が一つ飛んでくるのを盾で弾く。

 当たれば怪我はするだろうが、今までの牽制と比べるとあまりにやる気の無い投擲だ。


「……ほんと賢い」


ピエールは確信した。

 鼠蝙蝠たちは持久戦に切り替えたのだと。

 闇の中から、投擲で神経だけをすり減らさせて消耗するのを待っている。

 それは今の彼女にとって涙が出るほど有効で、叫びたくなるほど悪辣な最善手であった。


 恐らく期限は夜が明けるまでだろう。

 既に夜も折り返し地点までは来ている。

 明けるまでは、正味五、六時間、というところ。

 それまで、消耗極まるこの頭をほんの少し休ませることも出来ない。


 心を刻む戦いが始まる。

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