05 二日目
炎が全てを燃やしていく。
地面を、死体を、馬車を、魔物を。
ゆっくりと、確実に。
この辺りの植物は油分が多いのか火の勢いは衰えず、草と落ち葉を伝って野営地のあらゆるものが満遍なく焼かれようとしていた。
「……あっ……うっ……」
真っ先に左腕の力の入り具合を確認する。
腱は切れていない。筋肉も損傷していない。
ピエールは重たいため息と共に、少しだけ身体の力と緊張を緩めた。
「……アーサー」
断末魔の絶叫も途絶え、火の爆ぜる音だけが響く野営地。
その爆ぜる音にもかき消されそうなほど小さな声で、妹の名を呼んだ。
「……ぅ」
しかし返事はない。
耳元でなければ聞き逃してしまいそうなほど小さな呻き声が発されるのみ。
ピエールは表面が燃え続けている盾を地面に擦り付けて火を消し、冷めるのを少し待ってから武具二つを右手で持ち、左手でアーサーの身体にそっと触れた。
「っ」
妹の身悶えを感じてすぐに手を引っ込めた。
戻した左手の手袋にはとろりとした鮮血。
避け損なったあの火炎ムカデの尾の一刺しは、アーサーの肩を貫通してからピエールの肩に届いたのだ。
妹の肩には間違いなく穴が開いており、反面姉の怪我は動きに支障が出ないほど浅い。
これは間違いなく僥倖である。
役に立てない妹が身代わりになって最も重要な姉の身体機能を守ったのだ。
少なくともアーサー自身は必ずそのように考える。表情を変える余裕があれば笑みすら浮かべただろう。
ピエールもそのことは十二分に分かっている。
かといって一切気負わずにいられるほど姉が器用ではないことも、当然二人はよく分かっている。
「ごめんね……」
今にも泣き出してしまいそうな声音で搾り出すピエール。
そのまま、一歩踏み出そうとして。
「……待って……」
少女の背へと呼び止める声がかかった。
ピエールの足が少々過敏とも言えるほどに強張り硬直する。
一瞬の沈黙ののち、よろよろと声の元へ歩み寄る。
声の主は一組の母子であった。
野営地に到着した時、初めに見た二人だ。
母親の方は三十前後、娘はまだ十にも満たないと思われる。
目を見張るほど美しい親子だ。どちらも艶めく黒髪を長く伸ばした同じ髪型をしており、顔の作りも瓜二つ。
美しく凛としたその出で立ちは、さぞかし人々から好かれていたことだろう。
「あなた……無事なのね……?」
「……うん」
震える声で尋ねる母親に、ピエールは控えめに頷いた。
母親の胸に抱かれる娘は、無表情のまま目だけを見開き歯をかちかちと鳴らしている。
幼いながらの精神力で、泣き叫ぶことだけはなんとか堪えている、という顔だ。
「じゃあ……この子を、連れて行って」
「お母、さん」
娘が縋るような声で母を呼ぶ。
母は震える身体で娘の身体を強く抱く。
震える母には足が無かった。
少し離れたところに千切れ飛んでいるそれは、今にも炎に巻かれようとしている。
「私はもう駄目だから、せめて」
「……出来ない」
母の言葉を、ピエールが半ばで遮った。
俯く顔は暗く、今にも泣き出しそうなほど。
「なん、で」
「私にはその子を気遣う余裕がない。その子の体力と歩調に合わせてあげる時間の余裕がない。歩けなくなった時に抱える余裕がない。分けてあげられる食べ物も水も無い。魔物に襲われた時に守れる余裕がない」
「……」
「付いてくる、というなら止めない。……でも行き倒れても、何も出来ない」
「……その背負ってる人を、降ろしてよ」
「この子は私の妹なんだ。悪いけど、見ず知らずの人よりずっと大切な」
「どうせもう助からないわよ! 瀕死じゃない! そんな死にかけより私の、っ」
激昂した母親が足の痛みに呻いて動きを止めた。
娘を抱き締め俯いたまま、小さな声で搾り出す。
「……お願い、お願いよ。大切な、私の娘なの。とてもいい子なの。家の仕事も沢山手伝ってくれるし、とても頭がいいって学習所の先生もいつも褒めてくれるの。この間呪文で水を出せるようになって、他の子よりずっと覚えがいいって。人当たりも凄くいいし、同年代の子供たちにも、大人からも好かれてて……」
母親の言葉が途絶えた。
こんな言葉で目の前の相手を説得出来ないことは、既に察している。
言葉の代わりに、娘を一際強く抱き締めた。
「……ミア。この人に付いて行って。頑張って、付いて行って、生きて。ママと、パパの代わりに生きて」
「……お、お母、さん」
「ミア、愛してる。私たちの可愛いミア」
母親は身につけていた首飾りと指輪、それに小さなナイフと一房切り取った自身の黒髪を自分の鞄に詰め込み、そのまま鞄を娘に押しつけた。
頬と額に口づけを行い、優しく、しかし力強く娘の身体を押し出す。
押し出した後の母親の身体は、可哀想なほどか弱く震えていた。
「気が変わったら、いつでも娘を助けていいのよ」
「……きっと、変わらないよ」
「そうとは限らないわ。だってうちの娘はとても可愛くて魅力的だもの」
「……」
「私の可愛いミア。生きて。何があっても、生き延びてね」
「……お母さん」
「大好きよ」
ピエールは炎と煙を避けながら、ゆっくりと歩を進め始めた。
娘もまん丸の瞳を目一杯潤ませながら、何度も何度も何度も何度も母親の方へ振り返り、その度に微笑みかける母親の姿に余計に瞳を潤ませ、しかし最後まで泣き叫ぶことなく、野営地を後にした。
野営地が、ゆっくりと炎に埋まってゆく。
: :
野営地を抜け、延焼の続く地帯から離れたところでピエールは即座に休息を取った。
怪我をしたままだった妹の服を脱がせて怪我の具合を確かめ、応急処置を行う。
肩に穴を開けられた妹の怪我は決して軽いものではなく、恐らく左腕は仮に健康であっても動きに支障が出ていただろう。
ピエールはアーサーの肩の怪我に治癒の薬を使おうか逡巡したが、下唇を噛みながら静かに堪え薬を使わない簡易な処置に留めた。
手持ちの薬も多くはない。自分が歩けなくなる、戦えなくなるなどの本当に危険な状況の為に温存しなければならない。
処置を終えた時、ピエールの下唇にはわずかに赤色が滲んでいた。
続けて、野営地を去る際に回収しておいた千切れ飛んだ何かの獣の足を切り分けて火を通し食料とした。
その肉は毒こそなかったものの明らかに人が食べるに値するものではなく、想像を絶するほどの、堆肥へと変わる発酵中の雑草を思わせる饐えた臭みがあった。
ピエールは一切れ舌に乗せた時点で肉を食べるのを中断し、先にアーサーへビスケットと水を与えてから肉を全て自分で消費した。
最後に水を含んで口を濯ぎ飲み込んだが、口内の臭いは全く取れそうにない。
「っ」
吐き気に襲われた娘が、口を両手で押さえ辛うじて嘔吐を堪えた。
口を押さえたまま荒々しく鼻で呼吸してから、ゆっくりと手を離す。
その様を、ピエールは膝の上に乗る妹の額の汗を拭いながらじっと眺めていた。
道連れとなった娘、ミアは、今の時点で一度もピエールに対し口答えをしていない。
ただ黙々と彼女に付いて歩き、休息を取る時も黙って側に控え、食事として分け与えられた肉の余りも吐き気を堪えながら淡々と嚥下していた。
不満はいくらでもあるだろう。言いたいことはいくらでもあるだろう。
それら全てをピエールは反論せず受け止めるつもりであったが、その覚悟は無駄に終わった。
賢い子だ。
この場でいくら文句を言っても変わらないことを分かっている。
生まれて初めて味わう地獄のような臭いの獣肉でも、貴重な食料だと分かっている。
いくら辛くても、目の前の少女に付いて行かなければ生きられないことも分かっている。
十にも満たないであろう子供とはとても思えないほど聡い娘だ。
それこそがピエールにとって苦痛であった。
我が儘を言ってくれれば。暴れてくれれば。襲いかかってくれれば。
彼女の罪悪感はわずかばかり軽減出来たかもしれない。
"現実の見えていない子なのだから、生き延びられなくても仕方がない"と自分を納得させる縁になったかもしれない。
生き延びる為に母親を見捨てたことを罵り裁いてくれれば、少しは罪の意識を軽減出来たかもしれない。
そのようなことは一つも無かった。
幼い娘は文句一つ言わず、母親に言われた"生きて"という頼みを忠実に果たそうとしていた。
生きる為に今すべきこととしてはいけないことを、幼い心で必死に考え幼い身体で必死に実行していた。
ただ一度だけ。
獣肉の食事を終え、改めて一息ついた時に。
父親と母親のことを小さな声で呼びながら、俯いて涙をぽとぽと膝の上に落としていた。
ピエールはその光景を見てしまったことを、心の底から後悔した。
: :
山間の道を、二人と一人が歩き続ける。
淡々と歩きながら、ピエールは自身の精神力がゆっくりと削れているのを感じていた。
腕が痛む。
鹿の体当たりで皮膚を削ぎ落とされた右腕は、動かすのに支障こそ無いものの今も彼女を苛み続けていた。
更に火炎ムカデの火の息を至近距離で受けた時の余波で軽度の火傷を負ったのか、削がれた部位以外、左腕すらもひりつくように痛む。
関節以外を広めに包帯で覆ったが、歩いて風圧を受ける度に痛みは新鮮さをもって蘇る。
心が痛む。
自身の不覚により妹を傷つけてしまい、ろくな手当も出来ない。
肩の痛みは自身の腕などよりずっと痛むだろう。
それだけ痛くても、苦しみを表に出す余裕すらないほど毒で苦しんでいる。
愛する妹の苦しみを思うだけで、心に爪を立てられるような気持ちになる。
少し後ろを歩く子供の存在。
娘は早足で歩き続ける自分に、小さな歩幅で懸命に付いて来ている。
息は可哀想なほどに荒い。直接見ずとも全身汗だくなのが分かる。嘔吐を口内で堪え飲み下す音さえした。
だというのに何も言わない。"待って""休ませて""トイレ"などと一言も口にしない。
この自分より更に小さな娘の恐ろしいまでの必死さと健気さが、ピエールの心を更に苛んでいた。
"もう休もうか"と聞いてしまいそうになる。"歩く速度緩めようか"と提案してしまいそうになる。
次から次へと湧いて出てくる同情心と、それを切り捨てるという思考自体が負担になる。
それら様々な要因を抱えながら、周囲の気配に神経を尖らせ続けなければならない。
崩壊した町を出てから一日以上経過しているが、あれから一度も真に気を抜いて心を休められたことがない。
削れる自身の精神力が、頭痛という明確な形となってピエールの頭に現れ始めていた。
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ピエールが素早く横に身を滑らせ、直前まで彼女がいた場所を吹き付けられた火が覆った。
火の息を吐き終えた大型犬サイズの大昆虫はろくな回避行動も取らず、振り下ろされた短剣によって頭部と胸部の隙間に、まるでぴったりとはまり込むように刃が突き立てられた。
ぐり、と刃で内部を抉り蹴飛ばすと、大昆虫は少しもがいてから小刻みに痙攣するだけの物体へ変わる。
刃にべっとり付着した体液を拭ってから、ピエールは短剣を鞘へ納めた。
右手で左右のこめかみを挟み込むように押さえ、暫し揉みしだく。
「倒したよ」
俯いたままピエールが虚空へ呟くと、近くの樹の陰に隠れていた娘がよろよろとピエールの側まで戻ってきた。
意識して見ないようにしていたその顔を、ついちらりと見てしまう。
顔は青を通り越して白みを帯び始め、汗と涙と鼻水がそれぞれ区別出来そうにないほどぐしょぐしょに混ざり合い濡れそぼっている。
ピエールは気遣いの言葉を投げかけようと口を半開きにし、すぐに思い留まって閉じた。
間を開けてから改めて尋ねる。
「……この虫、食べられるかどうか、知ってる?」
「……ぁっ……ぇ……ぅ……」
尋ねられた娘は言葉を紡ごうとしたが、疲労の極まった荒い息は喘息のように詰まったり引きつったりを繰り返して言葉が出てこない。
目の前の相手の機嫌を損ねないよう早く答えなければ、という焦りが余計に言葉を詰まらせる。
ただ質問されただけなのに、涙さえ溢れている。
「焦らないでいいから」
流石に見かねたピエールにそう告げられ、改めて深呼吸してから何とか言葉を絞り出した。
「……む……無理……で……す……。こ……この……さん、く、さん、さ、山間、の……森、の……葉は……ど、どく、ど、毒、で……」
「そっか。ここ見渡す限り同じ樹しか生えてないけど、この樹の葉は毒なんだね。それで、葉を食べている虫も同じ毒がある、と」
娘がかくかく頷くと、ピエールは左手でそっと妹の手を握った。
数回にぎにぎして、反応を確かめ妹からも確認を取る。
もしもアーサーが健在であれば食用には適さないことに加え、死体の用途やこの毒樹を中心に成り立つ森の生態系、この虫――大ゴキブリが本来は大人しく人を避ける性質の種であること、休憩時に食べた獣始め先の襲撃の魔物がこの森とは全く無関係の場所から来た魔物であったこと、など様々な方面に話が及んだことだろう。
しかし彼女が言葉を発することはなく、ただ握られた手にかすかな反応を返すのが精一杯であった。
「……教えてくれてありがと。それと、ごめんね。この魔物が食べられないなら、君に夕食は分けてあげられそうにない。……じゃ、行くよ」
もうすぐ、今日は休むから。
最後に躊躇いがちにそう呟いてから、ピエールは大昆虫の死体を捨て置き再び歩き始めた。
娘はからからに乾いた喉が貼り付くような感覚を抱きながらも、ただ意志の力だけで追随を再開する。
二日目の夕方。
太陽が、視界の遙か先、西の果てへゆっくりと沈もうとしていた。




