03 二日目
大きさは騎乗用の大型の馬ほど。
その身体は酷く泥にまみれ、毛にこびりつく乾いた泥の中には黒ずんだ赤い血も混じっている。
右目には等間隔に並んだ三本の切り傷が刻まれており、溢れた血が乾いて固まり瞼はもう二度と開きそうにない。
左前足の蹄は無惨に砕け、下半身は泥と血の上に黒い焦げ痕まで加わっている。頭の一対の角は片方が根本から折れ、付け根は完全に血で赤く染まっていた。
加えて身体は不自然に細く、がりがりに痩せている。
一目見て分かるほどの、満身創痍の死にかけの鹿だ。立っているのもやっとに思える。
短剣を握る右手に力を込めながら、盾を持つ左手で腰のベルトポーチをまさぐるピエール。
投擲牽制用の小石を一つ握る。
鹿が突貫してきた。
静止した状態から一瞬で加速し突っ込んでくる。
開いている左目向けて投石するが身体を傾け毛皮で弾かれた。
左の盾を前面に構え、迎撃の構えを取るピエール。
鹿は一切速度を緩めず一直線に突っ込んでくる。
接触に合わせて斜めに盾を合わせようとピエールも真正面から身構える。
今にも角と盾が触れるか、という瞬間。
鹿がピエールの手前で急停止した。
「ぐ――」
ぼん、と太く短い破裂音を響き、少女の身体が高く宙を舞う。
彼女の視界には、手前で停止した鹿が即座に魔力の白光を纏い呪文を放ったのが見えていた。
突進はフェイント。
本命は衝撃波の呪文。
不寝番による疲れか鹿が手負いだったことによる油断からか、真正面から引っかかってしまったピエール。
鹿自身の突撃にも劣らぬ威力の呪文で突き飛ばされ、辛うじて受け身を取り背中から地面に落下した。
衝撃で肺の空気が押し出され息を詰まらせつつも、落下の勢いのまま即座に横へ転がる。
落下地点にすぐさま鹿の前足が突き刺さった。
どん、と衝撃と共に蹄が土に埋まり地面が揺れる。
びぃぃぃっ!
甲高い金切り声に似た声音で吠え猛りながら頭を翻し横っ飛びで体当たりを仕掛けてくる鹿。
ピエールは盾で直撃を防ぎながら右手の短剣を突き出して反撃した。
一瞬の交錯ののち、再び突き飛ばされるピエール。しかし力を受け流した為勢いは弱い。
「……」
地面を転がりながら衝撃を受け流したピエールがすぐさま姿勢を立て直し鹿へ向き直る。
防具代わりの分厚い革の上着を着ていた筈の右前腕が露出し、見る見るうちにぷつ、ぷつ、と赤い雫が滲み始めた。
体当たりを受けた際に鹿のブラシのような固い体毛で服ごと皮膚を削ぎ落とされたのだ。
傷は浅いものの広く、大人の掌一つ分ほどの範囲の少女の素肌が卸し金ですり下ろされたかのように無数の溝を彫られている。
しかし先の攻防はピエールが優勢だ。
彼女は体毛で皮膚を削がれたが、鹿は短剣によって左の前足付け根の腱を抉られていた。
鹿は姿勢を保とうとするものの左前足に力が入らずふらつきを止められない。
手傷を負いながらも敵に確かな反撃を加えたピエール。
距離を取って様子を見ようと立ち上がりかけたが、鹿はまともに歩けないと知るや自分の真後ろで呪文を放ち衝撃波を自分にぶつけて突進を敢行した。
ぼん、と後ろから何かに突き飛ばされたかのように一直線に宙を飛ぶ鹿の身体。
砲弾のような勢いで放たれた巨体の、突き出された隻角こそ盾で打ち払ったものの突っ込んでくる鹿の質量そのものをピエールは受け流すことに失敗した。
鹿の巨体の体当たりを、ほぼ真正面から受けて吹き飛ぶ少女の小さな身体。
「あ、ぐっ」
再度突き飛ばされ背中を打ったピエールが目を見開く。
眼前には前足を高く振り上げた鹿の巨体。
短剣を手放し掴んで止めた。
顔面めがけて振り下ろされる右前足を両手で受け止める。
う゛う゛う゛う゛、う゛あ゛あ゛あ゛!
金切り声と呼ぶに相応しい絶叫を上げながら噛みつこうと頭を振り下ろす鹿を、ほぼ馬乗りの状況から上半身を捩って避けるピエール。
少女の両腕は鹿の右前足と拮抗し、腱を損傷した鹿の左前足は力が入らずばたばたと空を掻いて暴れている。
う゛お゛あ゛あ゛あ゛! あ゛あ゛あ゛お゛お゛!
狂乱する鹿が草を食む為の臼歯をがちがちばきばきと噛み鳴らし頭を打ち付ける。
少女は頭を捻って回避するが避け損ねた後髪がいくらか噛まれ引き千切られる。
髪ごと頭皮を毟り取られたかと思うような鋭い痛み。
しかしピエールは痛みを堪え拮抗状態を崩さない。
半狂乱の鹿が敵を噛み殺せないことに痺れを切らしたのか、わずかに頭部を打ち付ける勢いが緩んだ。
頭を引いた鹿が魔力の白光を纏い、至近距離から衝撃波の呪文を――
少女の上半身が跳ね上がる。
右手という名の蛇が鹿の刹那の気の緩みに滑り込む。
ピエールの右手が、鹿の健在であった左目を貫いた。
う゛い゛ぎい゛い゛い゛いっ
鹿が仰け反り悶える。
急所を抉られる苦痛に。
少女が跳ね上がり食らいつく。
眼へ突き入れた右手を、更に奥までねじ込む為に。
「があ……っ!」
一瞬で形勢逆転した一人と一頭。
ひっくり返って悶えながら身体に貼り付く敵を振り払おうと暴れる鹿。
毛皮汚す血泥のようにへばりつき、目玉を貫く右手に奥へ、奥へと力を込める少女。
ぶぢっ、ぢゅっ。
球体を潰す感触。
ぐずっ、ぐりゅっ。
肉をかき分け奥をこじ開ける感触。
ず、ぐ、ず……ぐりゅりゅっ。
決定的な何かに届き、指先で何かをほじくる感触。
い゛い゛、い゛い゛あ゛……
鹿の身体から力が抜けた。
どす、と土埃を立てて地面に倒れ、半開きの口で途切れ途切れの浅い呼吸を繰り返すのみとなる。
ピエールは奥まで入り込んでいた右手をずるりと引き抜き、ふらふらと目の前の屍から離れた。
「……」
まず突き飛ばされた時に手放していた短剣を拾いに戻る。
地面に転がっていたそれを鹿の体液でぐずぐずに汚れた右手で拾い上げ、左手の盾と右手の短剣を握る感触を確かめながら妹の元へと戻った。
「……ごめんねアーサー。起こしちゃった?」
「ぇ……ぁ……」
まるでちょっと席を外していた、とでも言うかのような気安さでピエールが笑いかけた。
しかしからからと笑う姉の身体は土埃にまみれ、髪を一房毟られた頭から血が、右腕は皮膚を削ぎ落とされ流血の上に体液でぐずぐずに汚れている。
「……っ……っ」
「あっ、大丈夫、大丈夫だから、私は大丈夫だよそんな大きな怪我もしてないし。だからほら、ね」
ピエールが慌てて宥めようとしたのも束の間、ろくに身体も起こせず喘ぐばかりで言葉すら出ないアーサーの目から、とめどなく涙が溢れる。
姉の苦しみが。
支えてあげられない無力な自分が。
耐え難い苦痛の中で尚笑う姉の気丈さが。
負担でしかない自分が。
今この場のありとあらゆる事実がアーサーを苛む。
しかもそんな現実に対し、ただめそめそと泣くことしか出来ない。
それが辛くて余計泣く。
身動き一つ出来ないままに、涙だけがほろりほろりと溢れ出る。
「もー、泣き虫。仕方ないなあ」
ピエールは盾を持ったままの左手で、アーサーの頭を優しく撫でる。
満身創痍のぼろ切れのような状態でも。
妹の自責の念などお見通しだとばかりに。
苦痛などおくびにも出さず笑顔を浮かべて。
東の果てからは、太陽が顔を出し始めていた。
: :
鹿を討ち取った後。
ピエールは再度自分と妹の身体や装備を洗い、鹿肉を切り出して早めの朝食を取った。
雑に切り出された鹿肉は血抜きがなされていない為濃い血の味がしたが、新鮮であった為臭みは薄く、食べるに値する味の食肉として傷ついた少女の心を少しだけ癒した。
昨晩と同じように妹にも分け与え、沸かした白湯を嚥下してゆっくりと息を吐く。
夜通し戦い続けた小さな少女の、暁の間だけのささやかな休息の時。
ほんの僅かな時間身体と精神力を休めたピエール。
日が高く登り始める前に、早々にその場を後にした。
「よっと」
小さなかけ声と共に、ピエールが再び妹を背嚢ごと背負って立ち上がる。
朝日を背負い再び西へと歩き始めた。
「まあまあ美味しかったね。あんな痩せてぼろぼろじゃなくてもう少し食べられる部分が多ければなあ……」
軽口を叩きながら、垂れ下がる妹の右手を軽く握るピエール。
露出した右前腕には包帯が巻かれ、白い筈の包帯は既に中心部が赤茶色にじわりと染まっていた。
包帯は髪の毛を毟られた頭部にも巻かれている。こちらは腕ほどではないのか包帯は未だ白い。
「それにしてもあの鹿、相当怒ってたよ。前足切られたらちょっとくらい逃げることを考えてもいいのにねえ。呪文で飛び込んできた時はびっくりしちゃった」
独り言なのか妹に話しかけているのかどちらなのか分からない口振りで、ピエールの言葉は続く。
「それに、鹿って言ったら大体森か山じゃない? こんな平原ど真ん中にいるようなものなのかな」
喋りながら、垂れ下がる妹の手を握る力を強めたり弱めたりする。
にぎにぎ、にぎにぎ。
しかし相手が握り返してくることはなかった。
「……あの鹿、町で起きたこととは何か関係があるのかな」
独り言の終わりに、ピエールは小さな声でそう呟いた。
あの手負いの怒れる鹿は、町が滅びたこととは無関係なのか。
何か関係があり、町のみならずこの地域一帯で何か異変が起きていることの証なのか。
ピエールには何も分からない。
分からないが、不安を抱かずにはいられなかった。
道はまだ続く。
: :
人一人と荷物を背負い、わずかな小休止を挟みながら歩き続けたピエール。
前後左右、どこまでも地平線の彼方まで遮蔽物の一つも無かった平原も、太陽が真上に登り切る頃ようやく終わりを見せ始めた。
前方に見えるのは、標高の低いなだらかな山脈。足元の道は一直線に伸び、山と山の隙間へ潜り込むように続いている。
どれだけ歩いても変化の見られない平原の道が終わり、ピエールの心にもいくらかの安堵の念が訪れるかに思われた。
が、彼女の顔は優れない。
それどころか歩を進める度、じわじわと表情の険しさが悪化していく。
表情の悪化と比例するように、かすかに聞こえる悲鳴と剣戟の音。
平原を踏破し、山間の道の入り口に辿り着いたピエール。
そこは、人と魔物の争いの真っ最中であった。




