02 一日目
ピエールは淡々と平原の道を進み続ける。
見渡す限り草が生え並ぶ平原は代わり映えというものが一切無く、果たして本当に進んでいるのか、呪文で化かされて同じ道を堂々巡りさせられているのではないか、そう思わせてしまいそうなほどであった。
しかし彼女はそのような不安を一切抱かず、ただ強い意志を持って道を進み続ける。
そうして歩き続け、陽もやや傾き始めた夕方の平原。
彼女の耳と鼻が変化を捉えた。
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初めに臭ったのは漂う血臭。
次に聞こえたのはかすかな水の流れる音。
ピエールが見つけたのは、小さな川の流れと道に散らばる人の死体であった。
小川は本当に小さなもので、人がひょいと跳ねて越えられそうな程度。
しかし流れは淀みなく、水も透き通っている。水源として使えそうだ。
その側、道の端に散らばっている人らしき死体が二つ。
既に屍肉を啄む禿鷲の群れに集られ、残っているのは骨格と血染みと所持品の残骸ばかり。頭部も無い。
禿鷲は屍肉は漁るが生きている人間を襲うような種ではなく、ピエールの存在を捉えても警戒心を募らせるだけで襲うこともなければ鳴くこともない。
彼女を視界から外さないようにしながら残骸の骨を啄み続けている。
「……」
死体を一瞥したピエールがゆっくりと死体の元へと近づいていく。
禿鷲たちはさっと死体から散り、少し離れたところで遠巻きにし始めた。
死体の元へ到着したピエール。立ったまま暫し死体を観察してから遺品の回収を始めた。
鞄や衣類は散々啄まれた所為で穴だらけになり、食料は無く瓶は割れ周囲に散乱している。
回収に値しそうなものは硬貨くらいであり、ピエールは散らばったコインを一枚一枚拾い集めて死体の元から離れた。
小川のほとりで硬貨を洗い始めたところで、禿鷲たちが屍肉漁りに戻る。
「……今日はここで終わりかな……」
虚空へ呟き、硬貨と短剣を洗い終えたピエールが川から離れ静かに腰を下ろした。
一息ついて、背負っている妹の容態を窺う。
「アーサー……」
調子はどう? と尋ねようとしたピエールは、言葉を半ばで霧散させた。
あえぐような、震えるようなか細い呼吸。
ピエールには見えていないものの、脂汗をかき険しく閉じられた目。
明らかに好ましい状態ではない。
ピエールはアーサーを背負ったまま、薪に出来そうな低木の枝や投石に使えそうな小石を足早に探しに向かった。
暫しの探索ののち、一塊の小枝と少量の枯れ草、それに沢山の石を集め終える。
周囲の探索を終えたピエールは背負っていたアーサーを優しく横たえ、背嚢から取り出した毛布を丸めて枕にした。
小鍋に小川の水を汲み、枯れ草を丁寧にほぐし、荷物から出した火付石を使って着火にかかる。
数分の格闘の末ほぐした枯れ草の繊維片に火がともり、ピエールは額の汗を拭った。
「……呪文のありがたみがよく分かるね」
枝に火が移り、小規模な焚き火の体をなし始めたところでピエールは妹の頭を膝に乗せ、左手でその頭を撫でながら右手で小鍋を火にかけた。
竈などは作れていない為、手に持って火の上にかざし続ける。
水が完全に沸いたところで各々のコップに注ぎ、もう一つの小鍋にも満たし、沸いた水がある程度冷めたら水筒に注ぎ、小さな火を余すことなく使って水を沸かし続けた。
コップに注いだ白湯を一口含む。
舌で丹念に転がすが、ピエールの感覚器官には毒や不浄は感じ取れない。
ゆっくりと嚥下した。
「アーサー、ご飯と水だよ」
左手で頭を撫でつつ、妹に呼びかけた。
しかし返事はない。
弱々しく息をしながら、しかし薄目を開けて姉を見返すばかりであった。
「どう? 食べれる?」
「……」
妹からの返事はない。
表情も苦しげな顔のまま傍目に変化はない。
しかしその顔だけで、姉には彼女の返答がはっきりと理解出来ていた。
「……しょうがないなあ」
からからと軽く笑うピエール。
右手で荷物から出してあった何かのビスケットをつまみ、自身の口に放り込んだ。
一瞬顔をしかめつつも咀嚼し、続けてコップの白湯を啜る。
口内でもごもごして。
アーサーの頭を持ち上げ、躊躇いなく彼女と口づけを行った。
こぼれないようしっかり密着させてから、口内の物を舌で押し出し、口移しで妹へと与える。
震える喉で何とか嚥下したのを確認してから、ぷぁ、と口を離した。
「美味しくないねこれ。苦いとか酸っぱいじゃなくて、なんというか……えぐい、というか、くどい、というか……」
唇を尖らせつつも、ピエールは続けて十枚ほどビスケットと白湯をアーサーへ与えた。
続けて何かの乾物を、全て口移しで与え続ける。
気取ることも恥ずかしがることもなく、当然の医療行為として。
最後に再び白湯を飲み、食事を終えた二人。
次にピエールはアーサーを抱え、小川のほとりへと向かった。
妹の装備を一つ一つ外し、半裸になった妹の身体を川の水で清め始める。
ピエール自身は一切装備を外さない。
自分が妹を守らなければならないから。
今の状況で装備を外し無防備な姿を曝すことは、周囲に危険を感じられなくとも絶対にしたくはない。
「っ……」
「大丈夫? 痛かった? ごめんね」
身体を洗う最中、鎖骨近辺の傷口に水がかかったアーサーがかすかに呻いた。
慌てて妹の身体を少し持ち上げ、傷口を水から遠ざける。
ちゃぽちゃぽ。
ちゃぽ。
小川の流れる音に紛れて、アーサーが水面をたゆたう音がする。
死にかけの人間が、川で洗われる音。
「はい、綺麗になったよ」
そう呼びかけてから、アーサーの身体を川から引き上げるピエール。
手持ちの布で丹念に拭ってから再び装備を着せた。
陽はもう地平線の上に乗っている。
やがてこの平原も闇夜に染まるだろう。
「夜だ……」
小さな呟きが、鬱血したような紫色の夕暮れ空に霧散する。
ピエールは広げていた道具を背嚢に納め、背嚢を背もたれ代わりに背中を預け、両足を前方へ投げ出した。力を抜き、ふう、と息を吐く。
隣に横たわる妹の額をそっと撫でると、つい先ほど小川で清めたにも関わらずもうじっとりと生温かい汗が滲んでいる。
「アーサー、辛いよね」
背嚢の背もたれに頭をも預け、真上を見上げながらピエールが言う。
視界に広がるのは一面の紫。
無数の星と大きな月が、既に煌めき始めている。
「何も心配しないで、ゆっくり休んでていいからね」
優しく呟き、胡乱に空を眺め続ける。
長い長い夜の始まり。
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一日目、時刻は真夜中。
空は完全に夜色に染まっているが、煌めく星と月の輝きによって視界は通っている。
ずっと夜闇の中にいるならば尚更だ。
「……」
背嚢の背もたれに背を預けていたピエールが音も無く起き上がった。
左手には小盾を握り、右手は無手。
見開かれた目が、月明かりを反射して輝いていた。
起き上がったピエールは、右手でアーサーの頭を小さく一度撫でてから立ち上がった。
暗い夜の草地の彼方へ視線を投げかける。
待つことおよそ数十秒。
草地の中から、何者かが頭を出した。
猫だ。
人間大の大きな猫。
家猫そっくりの、しかし縮尺だけがおかしな大猫が草地の中からにゅ、と頭を出して姉妹を見つめていた。
かと思うと草地の中に頭が引っ込み、草の揺れる音も、草の揺れる動きも一切せぬまま草地を抜け出し姉妹との距離を十メートルほどに縮める。
ピエールはベルトポーチから石を取り出し、猫の足下へと投擲した。
存在の主張と威嚇の為だ。
しかし大猫はピエールの投石を一切気にかけることなく、堂々と夜の道を歩み寄ってくる。
再度ピエールによる投石。今度は威嚇ではなく鼻頭を狙ったもの。
大猫はそれを機敏に避け、再び草地の中へと潜り込んだ。
それきり大猫の存在を示すものは音、動き共に完全に途絶える。
小さく息を吐くピエール。
吐き終えた瞬間すぐ側の草地から大猫が飛び出してきた。
そして死んだ。
「ごびょっ、びょごぼぼぼぼぼっ」
少女が握り締めている短剣で喉元を抉り刺された大猫は溢れる血で声にならぬ断末魔と鮮血を星空へとまき散らし、横倒しになってもがきながらその生を終えた。
その標的はピエールではなく、側で横たわるアーサーへと一直線に向かうものであった。
もしもピエールが討ち損じていたら、抵抗する術のない妹はこの大猫に浚われ生きながら貪られていただろう。
愛する妹をそのような残酷な結末から守ることに成功し、ピエールは今度こそ安堵で小さく息を吐いた。
「おっかないネコちゃんだよ」
そう小声で呟きつつ、痙攣も弱々しくなった大猫の後ろ足を掴むピエール。
妹の元から少しだけ離れ、全身に力を込めて猫の死骸を草地の彼方へ放り投げた。
重量百キロを越えるであろう猫の死骸が宙を舞い、二、三十メートルほど離れた草地に落ちる。
願わくば次の捕食者は、あの死体を食べて満足して帰ってくれますように。
そう祈りを込め、ピエールは背嚢の背もたれに再び背を預けた。
左手でアーサーの額を撫でると、震える両手がゆるゆると手を握ってくる。
「ごめんね、起こしちゃった?」
ピエールが穏やかな笑みで問うが、アーサーは何も喋らず、ただ縋るような目で見返してくるばかりであった。
妹の震える手をぎゅっと握り返し、笑いかける。
「心配しないで。……なーに、たった数日だよ。ちょっとくらい寝なくたって大丈夫大丈夫」
そう言って、ピエールは手を繋いだまま背嚢に身体を預け脱力した。
しかし眠ることは出来ない。
自分一人で朝まで不寝番をしなければならないのだ。
もし一時でも油断しようものなら、次の瞬間には妹が浚われていてもおかしくはない。
身体は脱力しながらも、感覚は周囲へ鋭く向け続けている。
「……」
そうして夜闇の中一、二時間も過ごしていれば、また何かの気配が訪れる。
ピエールは立ち上がり、迎え撃ち、死体を草地の向こうへ投げ捨てる。
草地に散らかる大猫の死体が、また一つ増える。
夜はまだ長い。
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自分の息が少しだけ荒くなっているのを感じながら、ピエールは再び大猫の死体を草地へと投げ捨てた。
振るい続けた右手は肘までどっぷりと血に染まり、一部は乾き始めている。
再び腰を下ろして背嚢に背を預け、少しだけ明るみ始めた空を見上げる。
夜闇の紺一色だった空は赤みを帯びており、地平線の果てはうっすら白い。
夜明けだ。
「……」
音を立てぬよう、大きく息を吐く。
虚ろな眼差しで周囲の気配に意識を向けてから、隣で微睡む妹に視線を向けた。
相変わらず目を固く閉じ脂汗を浮かべているが、容態はやや安定しているようだ。表情に険が少ない。
夜が開けても、このまま暫く寝かせてあげてもいいかもしれない。
妹の様子を眺めながら、束の間の小休止に身を任せていたピエール。
しかし夜明け間近のこの時に、今晩最後の来襲者の気配を捉えた。
地面に転がしていた短剣を握りしめ静かに立ち上がる。
短剣は握った右手同様真っ赤に汚れている。唯一返り血のかからない持ち手だけが赤以外の色を残していた。
乱れ無く近づいてくる一つの気配。
やがてはっきりとしたガサガサという音を伴い、大猫を投げ捨てていた投棄場所へと一直線に向かっていく。
大猫の屍の辺りで停止する気配。
しかし肉を食む音は聞こえてこない。
肉食動物であれば大猫の屍で満足してくれれば。
草食動物であればこのまま立ち去ってくれれば。
ピエールはそう祈っていたが、草を揺らす音が更に近づいてきたことで一縷の望みは儚く消えた。
やがて草地を抜けて現れたその姿。
それは酷く傷ついた一頭の鹿であった。




