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姉妹冒険者物語  作者: 並野
クルムトゥの黒き怪物
153/181

17

 影の騎士の封印が完全に解かれてから、時間にしてまだ二分も経過していない。

 そのわずかな時間の間に、六人もの人間が殺されていた。


 残ったのも六人。

 ウォルト、プリシラ親子と、ディーン、アイヴィー夫妻が並んで走っている。

 ウォルトとディーンが先を走り、それぞれプリシラとアイヴィーの手を引いていた。

 妹を抱えたピエールは四人より遙か前方だ。

 彼女の判断は何よりも迅速である。

 最早他人を気遣うどころではない、他の何を捨ててでも自分たちの命を最優先するべきだと、影の騎士を直視した瞬間悟っていた。

 アーサーは自分を抱える姉の首に手を回してしがみつき、固く目を瞑って震えている。

 その様はさながら暴行された生娘のようだ。普段の冷然とした態度の名残などどこにも存在しない。


「はっ、はっ、はっ……」


非戦闘員四人は、息荒く闇雲に走り続けている。

 後ろから強烈に滲んでくる、言いようの無い不気味でおぞましい存在感に襲われながら。


「……ああ……駄目……もう……駄目よ……」


夫に手を引かれ走りながら、アイヴィーがぼそぼそと泣き言を洩らした。

 ディーンはそれを無視して、無我夢中で走り続ける。


「大丈夫だプリシラ、僕たちはきっと帰れる。皆が頑張ったからここまで来れたんだ。神様はきっと見てる。皆の頑張りを、決して無駄にはしない」

「……」


夫妻の隣では、ウォルトが懸命に娘の手を引き、言葉を語りかけている。

 しかしプリシラは虚ろな目のまま、ただ引かれるがまま走り続けるばかり。言葉に対する目立った反応は見られない。


――おおおおお……っ――


 後方から、チュチュの最後の絶叫が響いた。

 断末魔からややあって、一般人である四人にすら背中越しに分かるほどの強烈な気配が、再び移動を開始する。


「きっとあいつはどこまででも追いかけてくるのよ……」

「……アイヴィー」

「こうやって逃げたって無駄なだけ……もう私、疲れた……」

「アイヴィー」

「ねえ……あなた……」

「アイヴィーッ!」


ディーンが声を荒げ、泣き言を続けるアイヴィーを叱ろうと、後ろを向いた瞬間。


 遙か後方から影の騎士が骨を投げたのが見えた。


「避けてッ!」


咄嗟にディーンは嫁の手を引くが、何の効力も無い。

 四人を影の騎士が低く投げた不死者の残骸が襲い、後ろにいた女性陣二人の足を傷つけた。

 膝を骨が掠めたプリシラとふくらはぎに骨が刺さったアイヴィーが転倒し、手を引いていた二人も釣られて姿勢を崩す。


「あ……」

「プリシラ、早く立つんだ! 片足でもいいから、僕が引っ張るから、だから!」


足を怪我した二人が呆然とし、ウォルトがプリシラに立ち上がるよう懸命に呼びかける。

 一方のディーンも同じようにアイヴィーに呼びかけたが、アイヴィーは立ち上がろうとしない。

 心折れかけ、人生を諦めた微笑を浮かべて、夫を優しく見つめるアイヴィー。


「あなた、良かったら、最期は私と一緒に――」


ディーンが目を剥いてアイヴィーの手を引き上げ強引に走り出した。

 アイヴィーは引っ張られて立ち上がり、足に負荷がかかって痛みにあえぐ。

 しかしディーンは無視して走り続ける。


「痛い、痛い、痛いっ! あなた、もういいの、痛いのっ、だからっ!」

「馬鹿なこと言うな!」

「だってもう無理よ! あいつはきっとどこまでも追いかけてくる! 少し逃げたところで、もうっ」

「さっきの根性はどこへ行ったんだ、アイヴィー! 僕を支えた君の底力をっ!」

「だってっ」

「そんな無様に諦めて死ぬ君は嫌いだ! あの世で嫌いになってやる! 君みたいな弱虫見捨てて、あの世で別の女を好きになってやる!」

「……!」

「だから……」


最後まで走れ!


 ディーン夫妻が並んで走る。

 遅れてウォルト親子も、ウォルトがプリシラを抱えて走り始める。

 影の騎士が追う。

 黒一色の手足をどこか不気味に、どこか楽しそうに振りながら。


 目の前には大河と橋。

 その先に広がる広大な草原地帯。

 どこまで逃げられるか分からない。

 きっと死ぬのが数十秒早いか遅いかの違いでしかない。

 だけど最期まで懸命に、全力で――


 痛みで足が縺れアイヴィーが転んだ。

 釣られてディーンも転んだ。

 いよいよ訪れる死の予感に、二人寄り添いながら後ろを振り向いた。


 しかし。

 影の騎士が近づいてくることはなかった。

 離れた位置でぴたりと立ち止まったまま、まるでこちらを見ているかのような体勢のまま動かない。


 夫妻の脳裏を、死の恐怖を上回る疑問が埋め尽くす。

 何故殺しに来ない。

 何故近づいて来ない。

 何故動かない。

 考えられる理由など――


「……橋」


アイヴィーが気づいた。

 影の騎士が立っているのは、大河を挟んだクルムトゥ側ぎりぎり。

 石造りの頑強な橋の上には、つま先すら踏み込んでいない。

 そして夫妻が転んだのは、橋の丁度真ん中付近。


 影の騎士の縄張りの境は、クルムトゥ山脈ではない。

 橋だ。


 この怪物の領域は、川と橋によって隔てられている。

 もしかすると南側も、洞窟の手前にあった川を境にしているのではないか。

 寄り添う夫妻は目の前の光景を呆然と眺めながら、一つの確かな答えを導き出していた。


 正に紙一重の差だったのだ。

 アイヴィーが本当に諦めていたら、ディーンが彼女を叱咤しなかったら、二人は橋まで逃げ切ることは出来なかった。

 橋の前で影の騎士に追いつかれていた。

 そう――


 追いつかれて、(あばら)から腰まで袈裟斬りにされたウォルトのように。


「……」


まだ意識と命の残っているウォルトの上半身が、うつ伏せのまま顔を上げてそれを見た。

 橋の上で呆然としているディーン夫妻。

 橋を踏むことなく立ち止まった影の騎士。


 影の騎士に首根っこを掴まれた、(プリシラ)


「リ……ラ……」


プリシラの心が完全に折れていたのは、他でもないウォルトが一番理解していた。

 一行の中で最も若く、荒事の経験の無い娘の心が度重なる襲撃、虐殺、知人の惨死に耐えられる筈がない、と。

 それでも何とか、生きて帰してやりたかった。帰りを待つ母親の元へ、心休まる生まれた町へ、帰してやりたかった。

 しかし願いは叶わなかった。自分の体力では、娘を抱えて走ってもろくな速度は出せなかった。

 最後の最後で、精神力による紙一重の差で、愛娘の生還は叶わなかった。

 護衛の皆の頑張りも、全て、無駄に、終わってしまった。


「……すま…な…い……」


ウォルトが死んだ。

 影の騎士は左手で掴んだプリシラを掲げ、橋に辿り着いた者たちへと見せつける。

 この小娘を人質にしたら、逃げた者たちが戻ってくる可能性はあるだろうか、と。

 勿論、誰も戻りはしない。


「……きっとこれは……夢……」


首を掴んで持ち上げられたまま、虚ろな目のプリシラが譫言(うわごと)のように呟く。

 しかしその声はあまりにか細く、至近距離の影の騎士以外誰にも聞こえることはなかった。


「これは悪い夢……熱を出して見ている悪い夢……」


青黒い隅の刻まれた目から、ぼろぼろと涙をこぼしながら譫言は続く。


「目を覚ましたら……きっと皆無事なの……チュチュちゃんが笑って……ケアリーお姉ちゃんがチュチュちゃんをからかって……ネイトお兄さんがそれを諫めて……アントンおじさまとジョッシュおじさまが皆を見守って……お父さんがわたしの頭を撫でて……わたしの自慢の髪を……ああ……髪を梳かさなくちゃ……」


今の彼女の赤い長髪は、土埃にまみれ、絡まり、癖が付き、まるで髪を手入れすることを知らない浮浪児の様相を呈している。

 一体誰が今の彼女の髪を見て、数日前までは神経質なほど整えられた絹のような美髪だったと分かるだろう。


 譫言を続けながら、プリシラは懐から愛用の櫛を取り出そうとした。

 出そうとして、影の騎士に腕を斬り落とされた。


「あ……あ……」


櫛と腕が地面に落ちる。

 ぶしゅ、どぼどぼどぼ、と吹き出た赤い血が赤い髪を汚す。


「痛い……痛いよ……お父さん……お母さん……ああ……あ……」


影の騎士は腕を切断してから、娘が取り出そうとしたのがただの櫛であったことに気づいたようだった。

 万が一何かの道具を使って攻撃され逃げられたら少し残念だ。

 そう思ったが故の攻撃だったが、その必要はなかった。


「……ああああああっ! やだあああああっ! もう嫌あああああっ! 誰か助けて! 助けてよおおおっ! ああああ」


ごきっ。

 首をへし折られプリシラは死んだ。

 握り折った娘の首を掴んだまま、影の騎士が左手を降ろした。

 だらり、と力無く垂れ下がる娘の身体。


 夫妻が身体を寄せて見つめる中、黒一色の身体はその場から動かない。

 しかし不意に。


「イ゛、ノ゛……」


喋った。

 漆黒の姿では口元の動きが分からないが、放たれたのは事実のようだ。

 影の騎士はガ……だのア゛……だのざらざらの声音で何度か発声練習じみたことを繰り返してから、


「イノチビロイシタナ」


と人ならざるざらついた声質で流暢に呟き、影の身体を翻し去っていった。

 去り際に斬り殺した躯たちを掴めるだけ掴み集めつつ、とす、とす、とゆっくり南へと歩いていく影の騎士。


 取り逃した獲物を賞賛する余裕の態度。

 一行を狙ったのも、彼にとってはただの目覚めの遊びに過ぎないのだ。

 昼寝から目覚めた猫が、寝起きの運動として小動物を気まぐれにいたぶり、食べもしないのに酷たらしく嬲り殺すかのように。

 ディーン夫妻は、その中で偶然逃げ延びることに成功した運のいいおもちゃでしかない。

 逃がしても特に後悔などなく、わざわざ投擲で追撃して橋の上に死体を転がす必要もない。

 どうせ殺したところで、拾いには行けないのだから。


 影の騎士の黒いシルエットが完全に視界から消え去り、それから更に時間が経ち、本当に立ち去ったことを時間をかけて実感してから。

 ディーンはアイヴィーを背負って、よろ、よろ、と北へ歩き始めた。

 橋を渡り切って少し歩いた辺りで、道の端に座っていたピエールと、未だしがみついているアーサーの姿が目に入る。


「……ピエールさん、アーサーさん……」

「……橋、だったんだね。あいつの縄張りの区切りは」

「そうみたい……ですね……」

「……」


ピエールの視線が、夫に背負われたアイヴィーの、ふくらはぎから染み出す赤い雫へと向いた。

 懐から暗褐色の薬瓶を取り出しディーンへと差し出す。

 弱々しく袖を引いて止めようとするアーサーをそのままに。


「それは……?」

「治癒の薬。アイヴィーちゃんのその足の怪我に、良かったら。多分痛いと思うけど……」


ディーンは少し逡巡するも、背負われたアイヴィーが手を伸ばして瓶を掴んだ。

 夫の背から降りて座り、服をめくり、自力で骨を引き抜き穴の中へ瓶の中身を注ぐ。

 アイヴィーは治癒の痛みで脂汗をかいたが、一度も声をあげずに薬による手当を終えた。


 手当を終えたアイヴィーが、脱力して隣に座るディーンへ身体を預けた。

 夫の胸元に身体を滑り込ませ丸める。


 その途中、視線をちらりと上げてピエールを見つめた。

 ピエールが疲れ切った微笑で眉を上げて見返すも、陰気な顔で何も言わず暫く見つめ続けて。


「……一番強くて判断力もあったあなたたちが生き残ったのは当然のなりゆきでしょう? そんなに泣きそうなほど罪の意識を覚える必要はないと思うわ」


ピエールの表情が凍り付いた。

 一瞬だけ、少女の顔に外見相応の幼い娘のような、か弱い悲嘆の色が滲み出る。


「アイヴィー……?」


疑問に思ったディーンが尋ねたが、アイヴィーは夫の胸に顔を埋めそれ以上口を開くことはなかった。

 ピエールもすぐに表情を元通りに戻したが、妹を胸に抱く力を強め俯き加減になっている。

 抱かれる妹が顔を上げ、手を伸ばして姉の後頭部を優しく撫で続けた。

 姉の心へ無造作に踏み込んだアイヴィーの後頭部へ、一度だけ様々な不満の混じった視線をぶつけてから。



   :   :



 生存者である四人は少しの間その場で心と身体を休めてから、やがて連れ立って出発し北の町へと生還しました。

 四人は自分たちの身に起きた全てをありのまま報告し、事態を重く見た町の上層部によって大規模な討伐隊が組まれます。

 しかし町を出て橋を渡った討伐隊はただの一人も戻ってくることはなく、橋向こうからはただの一人も人がやって来ることはありません。

 こうしてクルムトゥ盆地は何の前触れも無く突然人の通れない魔境と化し、東大陸に住む人たちに大きな影響を及ぼしました。

 影の騎士の討伐には南北両側から莫大な懸賞金がかけられたものの、討伐に向かったきり戻らない者や、影の騎士を討ったと言い張り懸賞金を騙し取ろうとする不届き者を生み出す結果にしか繋がりません。

 じきに懸賞金の話も無くなり、クルムトゥ盆地は人々の手から完全に放棄されました。


 人の往来が途絶え、クルムトゥ、という名前すら忘れ去られた名も無き盆地にて。

 影の騎士は無数の不死者たちを従え、盆地のどこかに潜んでいます。


 今日も、明日も、明後日後も。

 千年経った後も、まだ潜んでいます。

https://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/419438/blogkey/2371952/

活動報告にてクルムトゥの黒き怪物のあとがきを投稿しています

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[良い点] ホラーっぽく感じて新鮮でした!
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