16
シスター二人が嘔吐した。
目を剥き吐瀉物で修道服を汚しながら、視線を逸らすことも出来ず震えて身じろぎした。
シスターの護衛二人の身体が完全に硬直した。
かの怪物の姿を至近距離で直視しながら、身体が鉄に変わってしまったかのように動かない。
チュチュの膝が震えた。
やがて震えは膝から全身に伝播し、震えのあまり歯をかちかちかちかち鳴らし続けた。
アーサーの腰が抜けた。
へたり込みそうになるのを辛うじてピエールが支えたが、彼女の全身も冷や汗でぐしょ濡れであった。
全く光を反射しない、全身真っ黒の人型のシルエット。
立体感も遠近感も無いそれは、ただ地面に棒立ちとなっている。
不気味な漆黒の姿でも、右腕が長く伸びているのが分かった。
長い右腕の正体は、手に握った鋭い剣であることも分かった。
一体誰が思ったのだろうか?
遙か太古の時代に封じるしか手が無かった怪物を、魔法技術が衰退した現代の人間が浄化出来るなどと。
遙か太古の時代に封じるしか手が無かった怪物を、現代の人間が相手に出来るなどと。
一体誰が思ったのだろうか?
勇者でもないただの人間が、本物の怪物に敵うなどと。
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最初に動いたのはピエールであった。
戦う、などという選択肢を一瞬たりとも考慮すること無く、腰が抜けたアーサーを抱えて一直線に逃げ出した。
遅れて二番目に動いたのは、至近距離にいたシスターの護衛二人。
先ほどまでの黒衣とは段違いの存在感と重圧を前に、苦し紛れに剣を振り抜こうとした耳人、ササケ。
両手持ちの剣を全力で振り上げて。
「あ」
ぱらぱらぱら。
彼の剣は細かく裁断されて、細切れになって地面に散らばっていた。
目の前には影の剣。
果たして振り抜かれた後なのか、これから振り抜かれるのかも分からない。
続けて影の騎士が、黒一色の左手でとん、とササケを押した。
ぱらぱらぱら。
ササケが散らばった。
赤毛の耳人が赤い細切れになって地面に散らばった。
散らばる直前の彼の表情は、最後まで呆然としていた。
隣にいる中年男も、ササケと同時に剣を振り下ろしている。
影の騎士の真っ黒の身体めがけて、一直線に振り下ろした。
筈であった。
しかし一切の感触は無く、剣はまるで空を掻いたかのように影の騎士の身体を素通りした。
避けられたのか? 届いていないのか? 斬れないのか? それとも斬れたのか?
それすらも分からない。視界を人型に塗り潰したかのような黒一色の身体は、距離感が全く掴めない。
縦一文字に両断され赤い染みと化す最期の瞬間まで、中年男の頭は疑問に埋め尽くされていた。
「あ、ああ、ああああ……」
口元を黄土色に汚したまま、レイラが引きつり上擦った声で呻いた。
目を見開いたまま、後ずさろうにも身動ぎすることしか出来ない。
護衛二人を血染みに変えた影の騎士が、俯くような体勢だったのを直立姿勢に変える。
今斬った死体から次の標的へ、視線を変えるかのように。
「逃げなさい! レイラ!」
レイラを叱咤し前に出たのはカイラ。
彼女も口元を汚しながらも、心身を奮い立たせてレイラの前へ立ちはだかった。
その顔には強い覚悟と、隠しきれぬ恐怖が滲んでいる。
「カ、カイラ姉様」
「あなたは逃げなさい! 逃げてこのことを町に伝えなさい!」
「で、でも」
「早く!」
カイラの鋭い叫び声によって、レイラは弾かれたように駆け出した。
妹分が逃げ始めたのを音で確認しつつ、カイラは真正面にいる影の騎士に目を向けた。
再び嘔吐しそうになるのを信仰心と使命感で抑え込み、両手を胸元で組む。
「神よ……どうかわたくしに力を……」
祈り、唱え、呪文を放った。
撃ち出された光弾が迫り来る影の騎士へ一直線に飛ぶ。
そして素通りした。
彼女の呪文もやはり中年男と同じように、一体何が原因だったのかも分からないまま外れている。
影の騎士がカイラの目の前に立った。
まるで目を閉じている時のように、カイラの視界が黒に染まる。
「か……神よ……今、あなたの御許へ」
カイラの背中から黒が生えた。
生えた黒の先端は五股に分かれ、まだ動いている心臓が握られている。
引き抜かれると同時にカイラの身体が崩れ落ち、影の騎士は左手に掴み取ったカイラの心臓を暫し頭に近づけ、まるで近くでじっと眺めるような仕草を見せた。
そして捨てた。
もう何の興味も無いとばかりに投げ捨てられた、まだ暖かく艶めかしく湯気を立てる心臓。無惨にも土埃にまみれ、その鼓動を停止する。
一方、影の騎士から背を向けて逃げ出したレイラ。
恐怖に心を埋め尽くし、吐瀉物と涙と鼻水で顔を盛大に汚しながら一直線に走り続ける。
突然転んだ。
顔面から地面に突っ込み、しかし顔の怪我など何一つ気にかけず再び走り出そうとして、何故か立ち上がれないことに気づく。
下を見れば足が無かった。
右足首から下が無い。
「……あ」
自分の右足を探した彼女は、後ろに右足が落ちているのが目に入った。
右足のすぐ横に転がる、口元を真っ赤に染めた黒衣の頭も。
変貌前に呪文で吹き飛ばした頭が、まだ動きを止めておらずレイラの足を噛み千切ったのだ。
「ああ……あああ……!」
一拍遅れて自分の右足はもう取り戻せないという事実を認識したレイラが、呻きながら地面を這いずり逃げ始めた。
しかし当然、這って逃げ切れる筈もなく。
土を踏む音がすぐ真後ろから聞こえた。
「い……嫌……嫌です……助けてください……お願いします……」
心折れたレイラが、うずくまり身体を丸めて呟いた。
強烈な存在感が彼女の背中に密着しそうなほどに迫り、止まることなく通り過ぎる。
通過した後、残されたレイラは胴体から切断され真っ二つになっていた。
暫くの間泣きながら呻いていたが、やがて動かなくなった。
歯牙にもかからず惨殺されたシスター組四人。
しかし彼女たちが犠牲になったその一瞬のおかげで、ウォルト一行が逃走を図れていた。
ピエールがアーサーを抱え、ウォルトがプリシラの、ディーンがアイヴィーの手を引いて一直線に北へと走る。
後ろにはネイト。遅れて駆けてくるチュチュを待ってから、二人並んで最後尾で逃げ始めた。
「なによ! なんなのよ! 一体なんなのよあれ! 怖い、怖い怖い怖い……ああああっ!」
走りながら緑色の髪と耳を振り乱し、半狂乱で叫ぶチュチュ。
ネイトも横で走りながら、身体を冷や汗、心を後悔でいっぱいにしていた。
最後の黒衣の襲撃に際し、非戦闘員四人を逃がさず近くで待機させていたのはネイトの判断であった。
もしも黒衣や不死者たちが戦闘員たちをすり抜けて非戦闘員を襲いに走ったり、横から不死者の伏兵が現れた場合、あまり遠くにいると戦闘員たちが守りにくくなってしまう。
ある程度つかず離れずの距離にいた方が、いざという時に対応しやすいだろう、と。
それに何よりも、ネイトにとってウォルトたちと同じくらい大切な存在、チュチュが戦っていたから。
彼女を置いて逃げ出すなどネイトにはとても出来ることではない。
もしもあの時、殴りつけてでもチュチュを制止していれば。
せめて他の不死者が全滅した時点で、非戦闘員たちを逃がしていれば。
ネイトの後悔は尽きない。
「全滅した……追ってくる!」
「走れ、走れ、走れえええっ! 速く逃げてええっ!」
ちらりとネイトが後ろを見れば、ちょうどレイラが胴斬りにされシスター組が全滅し、影の騎士が走り始めるところであった。
全速力で走りながら、チュチュが前を行く非戦闘員四人に絶叫する。
手振り足振り全力で逃げ続けるチュチュとネイト。
後ろから怖気立つ存在感が近づいてくる。
ざ、ざ、ざ、と土を拉く音が少しずつ近づいてくる。
後ろを向くのが怖い。
もう近くまで来ているかもしれない。
至近距離であの不気味極まりない黒一色の姿を見てしまうかもしれない。
遠目ならともかく、至近距離であの姿を直視して平常心を保てる自信が無い。
だけど。
ああ、だけど。
もう駄目なのだ。
この調子で走り続けても、じきに追いつかれるだろう。
二人は北の町どころか、この先にある草原地帯にすら、その前の橋にすら届かないだろう。
もう逃げ切ることは出来ないだろう。
どちらかが、あの怪物の相手をしなければならない。
「……チュチュ」
「はっ、はっ、はっ、はっ……!」
並んで走りながら、ネイトが隣の耳人の名を小さく呼んだ。
チュチュは息荒いまま返事も返せず、ネイトの姿を横目で見る。
「僕、実はお前のことが好きだったんだ。ずっと」
チュチュが言葉の意味を飲み込むより早く反転するネイト。
武具を構えて後ろを向いて。
剣同士を伸ばせば接触しそうなほどの距離に影の騎士がいた。
ネイトの身体が恐怖で強張る。
しかし怯まない。
意志と、使命と、愛と、諦念を胸に。
突き出した剣は手首ごと落とされた。
構えた盾は両断されて肘まで落ちた。
袈裟に斬られて胴と足が泣き別れした。
だけど駆け出した勢いは止まらない。
「あ……」
ネイトだったものが勢いを維持したまま影の騎士に真正面からぶつかり、いくつかの破片は素通りしたものの残りいくつかの破片が影の騎士の身体に直撃した。
塗り潰された黒の人型が、わずかな間だけ仰け反って動きを止める。
ネイトだったものたちも、地面に散らばり永遠に動きを止める。
「……あああっ、ネイト、ネイト、ネイトおおおおっ!」
チュチュが絶叫した。
依然全速力で走りつつ、空を見上げて泣きながら天高く叫んだ。
溢れる涙が宙を舞い、クルムトゥの乾いた大地に落ちて砂へと消える。
「うわああああん! あああああん!」
赤子のように泣き叫びながらチュチュが走る。
生まれたばかりの赤子のように。
これから始まる苦難の生に泣くかのように。
苦しみ死にゆく悲劇の生に泣くかのように。
「ああああああ! わあああああん!」
チュチュが転んだ。
勢い余って地面を転がり、二回転ほどしたところで動きを止める。
後ろを向けば漆黒の影の騎士。
右手の剣を弄びながら、本体から切り落とされて転がったチュチュの両足を蹴り転がす。
「うう……ううあ……」
溢れる涙も垂れ流される鼻水もそのままに、チュチュが呻く。
足を喪い逃げることも叶わない無力な小娘と化した彼女に、影の騎士がとどめを刺そうと大仰に剣を振り上げて。
「アアアアアアアアアアー!」
突然チュチュが金切り声を上げて絶叫した。
至近距離での甲高い雄叫びに影の騎士が一瞬驚いた隙に、チュチュが上半身を跳ね上げて黒一色の胴体へと飛びかかる。
「お前が! お前が皆をおおおおっ!」
影の騎士に掴みかかりながら、死の間際の断末魔のようにチュチュが叫ぶ。
その光景は、何やら不自然な状態であった。
チュチュは確かに力を込めて掴みかかっているのだが、一部全く何もない空間を掴んでいるようにも見える。
まるで見えない何かを掴んでいるかのように。
目に見える黒一色の影とは違う何かを。
しかしその事実に気づいた者は誰もいない。
「お前が、お前がっ! 返してよ! 皆を返してよおおおっ!」
影の剣が滑った。
チュチュの頭が、胴が、脚が舞い、乾いた大地に散らばる。
チュチュを葬った影の騎士は再び駆け出そうと一歩踏み出したが、彼女の腕が死して尚力強く影の身体を掴んでいたのに気づいて、腕を引き剥がし投げ捨ててから追撃を再開する。
「……」
宙を舞ったチュチュの頭が、ごとっ、と音を立てて地面に落ちる。
そこは奇しくも殺されたネイトの亡骸の近くであった。
「……ィト……し……も……」
チュチュの唇が、ぴくぴくとかすかに蠢きか細く言葉を紡ぐ。
それを最後に、緑髪の耳人、チュチュは死んだ。




