冒険者-05
「どうして、あなたたちがこんなところにいるの?」
少女相応の高く澄んだ美しい声音。
踊りを止めたクリス姫はハンスの呼びかけに応えることなく、小首を傾げて冒険者たちに問いかけた。
泉の広間は地上、城に入ってすぐの広間と同等の広さがある。周囲の壁には階段同様光る硝子玉による光源があるが、その間隔は広く少ない。その為やはり薄暗く、広間の端、泉の最奥は見通せないほどだ。
その中で、六人と一人が対峙する。
「ク、クリス、私だ。ハンスだ。戻ってきたんだよ、レールエンズに……なあクリス、どうして君はまだそんな年、そんな見た目なんだ……?」
声を震わせたハンスが、一歩前に進み出る。
「ハンス? あなたハンスなの?」
「あ、ああ、そうだ。ハンスだよ。かつて君と城で遊んでいた」
姫はハンスの言葉に目を丸くし、焦点の合わない瞳を老人へと向けた。
それから少しの間を開け、突然大声で笑い始める。
「あっはっは! おかしい! あなたがあのハンスお兄ちゃんだなんて! ハンスお兄ちゃんはわたしの二個年上よ! あなたなんかしわしわのお爺ちゃんじゃない! ……それも、アンデッドの!」
アンデッドの。
冒険者たちの顔が、姫の最後の一言によって違和感に強ばった。愕然としているハンスに代わって、アーサーが口を開く。
「今、なんと言いました? この老人が、アンデッドだと言うんですか?」
「なあにその言い方、自分は違うとでも言いたいの? アンデッドって、どうして皆自分が死んでることに気づかないのかしら」
「……では、私たち六人がそうだと?」
「それ以外なんだと言うの?」
会話は途切れ、じわじわと緊張感が高まり始める。
ピエールとアロイスが静かにさりげなく隊列を入れ替え、全員に背嚢を降ろすよう促した。
二人は姫の後ろ、闇に包まれた奥の空間をじっと凝視している。
「わ、私が、アンデッドだと言うのか? じゃあ、じゃあ上にいたアンデッドたちは一体何なんだ?」
地上のアンデッドに話が及ぶと姫は露骨に機嫌を損ね、その整った眉を中央へ寄せた。
「自分たちがアンデッドだと気づかないだけじゃなく、生きてる人をアンデッド扱いするなんて、ほんとおかしいわね。もういいわ、所詮アンデッドとなんて話は通じないもの」
「生きて、いる……? 何を言ってるんだ、気づいていないのか、クリス……? 皆死んでしまったんだ、案内所の婆さんも、兵士も、国王陛下も、王妃陛下も。なあ、クリス……」
「近づかないでっ、穢れたアンデッドがっ!」
ハンスが無意識のまま更に数歩近づいた途端、姫は激昂してヒステリックに叫んだ。
かと思えば次の瞬間には虚ろな笑みを見せ、自身の頭に強く爪を立てる。
長い時間をかけて、姫の頭皮に食い込んだ爪が頭頂部からこめかみへ滑り降りた。
「死んでる? 死んでるですって? あは、あはは、そんな筈ある訳ないじゃない、皆死んでない、生きてる、ちゃんと生きて暮らしてる、そうよ、そうに決まってる……!」
ぴたり。
姫の動きが停止した。
暫く無表情でその場に立ち尽くしてから、冒険者たちの方向へ定まらぬ視線を向けて妖しく微笑む。
「あやうくアンデッドなんかに惑わされる所だったわ。大丈夫よ、わたしは大丈夫。何もおかしくなんかない。わたしは王女、国を治めるお姫様……」
姫が完全に正気を失っているのは、一目見れば明らかだ。
しかし姫の存在そのもので頭がいっぱいになっているハンスだけは、まだそれを受け入れることが出来ないでいる。
微笑む姫は泉の中で一歩後ろへ下がり、両手を大きく広げた。
自身の後ろへ、祈りの言葉に似た囁きで呼びかける。
「ああ、天にまします我らが神よ、竜神様よ。生きとし生ける全てのものをお守りください。そして、不浄なる不死のものどもをその聖なる息吹で浄化してください」
闇に包まれた広間の最奥から、姫の呼び声に応えた巨大な物体が蠢く。
冒険者たちは千切れんばかりに目を見開き、遂に現れたその存在を見上げた。
粘るような闇の底から、音も無くぬるりと現れた長く太い巨体。
その皮膚はパッチワーク。茶色の毛皮、灰の毛皮、鱗の剥がれた亜人の表皮。身動きする度、継ぎ目がこすれて粘液滲む。
短い手足の爪は肋骨、背鰭は錆びた金属片。農具、歯車、武具の破片が錆び付き汚れて表皮に埋まる。
翼は濁った鳥の羽。斑に染まった羽毛の束は、麻布張られた骨組みに。
頭部は毛の無い薄黄の生皮。骨の角牙並び生え、瞳のあるべき所には、腐肉を丸めた肉塊二つ。灰と緑に汚れた肉で、一体何を見通せよう。
神と呼ぶにはあまりにも冒涜的な、死肉とがらくたの模造品。
それこそが町を騒がせた竜神の、紛うこと無き正体であった。
「ああ……竜神様……。我がレールエンズ王国をお守りください、そして哀れなアンデッドたちに浄化の光を……」
腐肉の竜は継ぎ目から半透明の濁った粘液を滴らせ、王宮の支柱にも似たその巨体をうねらせて姫の身体を優しくかき抱くように巻き付いた。
生気を感じられぬほど白かった姫の頬に朱が差し、陶然とした微笑みで竜の肌色の頭部を撫でる。
竜はその眼球としての用を成しそうにない拳大の肉の瞳で冒険者たちを一瞥し、それからハンスをじっと見つめた。
ぐふぉう、うぉう。
竜が喉の皮を震わせ、継ぎ目から空気と飛沫を漏らしながら小さく鳴く。
しかし、完全に放心し切っているハンスは何も答えない。
竜はハンスが何も反応を示さないと見るや名残惜しくも意識を外し、ゆっくりと時間をかけて姫の身体から離れた。
竜がその全貌を現し、姫の座する泉の前に立ち塞がる。小さな後ろ足で地面を踏みしめ立ち上がったその姿は、地下広間の天井に届きそうなほど長く大きい。
既に背嚢を降ろし武器を構えた姉妹組と中年組が、竜を睨む。
摺り足で少しずつ前衛三人は前進し、アロイスは弦を張った長弓を構えながら後退した。
「ハンス、下がって、早く」
手斧を構え竜を睨みながらピエールが囁きかけると、ようやく我に返るハンス。ふらつきながらも後ずさり、後ろに下がった。
直後。
腐肉の竜が、その巨体を信じられないほどの速度でしならせて頭を下げた。
丸太のような太さの密度のある腐った頭部が、右から空気を裂く音と共に飛来する。薙ぎ払い攻撃だ。
射程内にいるのは前衛の姉妹二人。アーサーは盾を構えつつ堅実に一歩下がって射程外に逃れ、ピエールは軽く二メートル近く垂直に飛び上がってそれを避ける。
すれ違い様に二人は武器を竜に突き出して、その上顎と背中をわずかに傷つけた。背鰭のがらくたが砕け、地面に散る。
「竜神様! 浄化の息吹を!」
泉から姫が叫び、竜は薙ぎ払った勢いのまま頭を再び高く振り上げた。
竜の体内、喉の奥を中心にして光り輝く魔法陣が出現する。
同時に、竜の胴体で何かが蠕動するような、おぞましい音がごく小さく鳴り始めた。
「避けろ!」
盾を構えて防ごうとしたオットーに対し、アロイスが鋭く怒鳴る。油断無く魔法陣を睨みつけながら、散開する冒険者たち。
しかし。その中で一人だけ、距離を開けないどころか一歩進み出た者がいた。
メルヒだ。彼女は真正面から竜を見据え、使命感溢れる顔で相対している。
竜が目の前の少女に狙いを定める。
だが竜が一歩分距離を詰めた所でメルヒの呪文により足元が凍り、次いで胴体を伝い頭部まで氷に覆われた。凍結した顎はぴったり閉じたまま、わずかな隙間すら作れない。
「ハンス様、皆さん! この子はわたしが押さえます! 今の内に王女様を!」
呪文を展開したメルヒが、竜に背を向けて五人に呼びかける。
アロイスが叫びピエールが走る。が、もう間に合わない。
もしも。
もしもメルヒが恩人であるハンスに、自身の活躍を見せようと躍起にならなければ。
もしも腐竜と姫の魂に何かを見出したメルヒが、気を逸らせなければ。
もしもメルヒにもう少しだけでも冒険者としての経験があり、自身の魔術に過信しなければ。
竜の頭を封じただけで油断しなければ。背を向けなければ。喉元に皮膚の継ぎ目が無ければ。逃げ場を失うことになる半球の氷壁を展開しなければ。息吹と聞いて気体だと早合点しなければ。或いは本当に気体か液体ならば。
どれか一つだけでも「もしも」があれば。きっと運命は違っていただろう。
だが「もしも」は起こらず、それがこの年経た少女の運命を決定付けた。
腐竜の胴体からせり上がった何かが、行き場を失い喉元で暴れ狂う。
やがてパンパンに膨れた喉の皮膚の継ぎ目が破け、そこから中身が噴き出た。
背を向けていたメルヒが、咄嗟に氷壁を展開する。
しかし、腐肉の竜が放った浄化の息吹は。
どろどろに溶けた肉と、ぐずぐずに砕けた骨と、未消化の金属や石くれが混じり合った、極めて強力な酸性の腐敗した消化液。
息吹などではない。命を最悪な形で奪う死の汚泥だ。
糊のように粘りのある固形混じりの物体が喉の穴から噴き落とされ、流れ落ちることなく氷壁の上に堆積していく。
予想だにしていなかった重みという力で、氷の防壁は致命的な亀裂を走らせた。
呆然と見上げたメルヒの目の前。透明な氷壁の向こうでは、半分溶けかかったガットの顔の皮が押し潰されて引き伸ばされている。
圧を受けたことで溶けかけた歯が細かく砕け、黄ばんだ眼球が潰れ弾けて濃度のある汁を噴き出した。
引き攣ったうめき声と共に、あっけなく霧散し消えてなくなる集中力。
狭い一人分の氷壁の中でへたり込んだメルヒ。咄嗟に振り向き、ハンスを視界に収める。
「ハンス様! あ」
言いかけた最期の言葉ごと、腐敗物がメルヒを飲み込んだ。
: :
鼻を刺し抉る、物理的な刺激を錯覚させるほどの腐敗臭が五人の鼻腔を直撃した。
うず高く積み上がった腐敗物の奥からメルヒのくぐもった断末魔の絶叫が響き、唯一外に出ている彼女の足だけが狂ったように跳ね回る。
腐肉の竜は全身を激しく蠕動させ身体の凍結を砕いてから、頭を一直線に下へ打ち付けてメルヒにとどめを刺した。
あれだけ激しかった叫び声と動きが、あっさりと停止する。
自身が吐き出した腐敗物を竜は再び嚥下し、最後に残った死体を口でくわえて泉の後ろ、闇の奥まで放り投げた。
その様をハンスは顔を真っ青にして呆然と見送り、他の四人は苦々しげに竜を睨みながら下唇を噛むに留まった。
「そんなに怖がらなくてもいいのよ。浄化の息吹を受けると意識を失っちゃうけど、後でちゃんとわたしが起こしてあげるから。そうしたら一緒にこの国で暮らしましょうね。レールエンズ王国第一王女、クリスティーネ・フォン・レールエンズが、新しい国民の皆を歓迎するわ」
メルヒの死体を投げた腐竜は再び鎌首をもたげ、姫の前に立ちはだかって冒険者を見据えた。
冒険者たちの頬を、冷や汗が流れる。数日の間ながら寝食を共にした仲間の強烈な惨死に、誰もが呑まれかかっていた。
だが、その中で一人。
ピエールが、竜の肉の目を見上げながら大きく深呼吸を行っていた。
姫やメルヒの存在は既に目に入っていない。意識の内にあるのは、眼前の巨大な敵の姿のみ。
全力の、渾身の力を出さねばならぬ敵。
その存在を認識した自身の心に、荒ぶる闘志が急速に漲ってゆく。
表情が変わる。気迫が変わる。得物を握る力が変わる。
普段は心の奥にある、何かを何かと切り替える。
ピエールの、戦士としてのスイッチが入った。
「キエアアアアアアアアッ!」
およそ女性とは思えない、猛禽の甲高い鳴き声をずっと強く太くしたような咆哮。
広間を震わす突然の雄叫びと共に、ピエールが石造りの床を全力で踏みしだいて駆け出した。
次いでアーサーが、革の丸盾を前面に出しつつピエールに続く。
アロイスがハンスの肩を掴みながら、姉妹に向かって声を張り上げた。
「二人とも、少しだけ凌げ! すぐに爺さんを立ち直らせて援護する! ……オットーお前は備えだ、中間で待機! やばそうなら前に混ざれ!」
姿勢を下げ、床を這わせるように一直線に頭を突き出す竜。
アーサーはぎりぎりの位置で盾でいなしながらそれを避け、剣を斜めに浅く振り入れた。頭の肌色の皮膚が削ぎ落とされ、黄緑色の腐汁を散らしながら宙を舞う。
更に竜が頭を引いた際にピエールが手斧を真横に振り抜き、腐肉の下顎のおよそ半分を吹き飛ばした。灰と焦茶の斑に染まった牙が、砕けて床に散らばる。
飛び散った腐肉と断面を見る限り、竜に骨格は無い。
皮一枚隔てた竜の体内はみっしりと詰め込まれた不透明なゼリーのような腐りかけの固形物と、黄色や茶色の液体で満ちていた。
ごぼ、ぶひゅっ。
顎から溢れた体液を泡立たせながら、竜の喉から空気が吹き出る。
下顎を吹き飛ばされた竜は体の前部を後ろに反らし、尾による攻撃に切り替えた。
速度のある先が細まった尾が、床や壁、天井を傷つけながら荒ぶり跳ね回る。
アーサーが尾を鋭く睨む。その先端が金属の短剣で出来ていることを視認し、剣を下げて盾を構えた。
「やああああっ!」
ピエールのものと比べると幾分おとなしい、少女相応のアーサーの叫び声。
先細りの尾は頭よりも速いが、その分軽い。不規則な動きで暴れる尾の動きを正確に見極め、アーサーは盾で尾端を弾いていく。幾重にも襲い来る尾を時には避けつつ盾で弾き、硬質の金属がぶつかる高い音を断続的に響かせた。
アーサーが尾端を受け止めている一方、ピエールは側面から無防備な竜の懐へ滑り込む。
床石にヒビが入るほどの踏み込みで突貫し、片手を伸ばして斧を軽く振り下ろした。
狙いは右の後ろ足だ。
その重さからは想像もつかないほど軽やかな、薄緑の軌跡。
ぐじゅっ、という手応えの無い音と共に体液が飛び散り、振り抜いた斧が足の付け根を半分ほど抉り取った。
噴出した飛沫をわずかに浴びながらも即座に走り抜け後方へ下がったピエールが見上げると、竜が再び魔法陣を展開しているのが目に入った。
咄嗟に回避の姿勢を取る。
しかし腐敗液のブレスを吐こうとしていた竜は、頭を一メートル近い長さの太い矢で貫かれて大きく仰け反った。
更に瞬きほどの瞬間の間にもう一本短い矢が追加され、魔法陣を貫き散らして喉元に浅く刺さる。
ピエールが四足獣のように地面を蹴飛ばして後退し一瞬後ろを向けば、そこにいたのは腰に長弓を引っ掛け、手に短弓を構えたアロイスだ。
傍らには盾を構えたオットーと、立ち直って竜を見据えるハンスの姿。
ハンスが呪文を唱え、拳大の白い光弾を三つ同時に撃ち出した。竜は仰け反りながらもなんとか避けようとしたが、一発が竜の頭部に着弾し、燃え盛る緋色の炎へと変化した。
炎は頭部全体を覆い尽くし、体液を蒸発させ、表皮を猛烈な勢いで焼き焦がす。
竜は尾を引っ込め身悶えし、魔力の炎は表面を一通り焼き尽くすとすぐに鎮火した。
竜の頭は真っ黒に焼け焦げ、目玉などは先ほどまでの大きさから半分以上縮んだ黒い炭玉と化している。頭を貫通していた黒焦げの矢が崩れ、音一つ立てずに地面へ散る。
泉の縁、闇の境界に腰掛けていた姫が叫んだ。
「ああっ! おいたわしや、竜神様……!」
両手を組んで、竜の頭部を見上げる姫。その仕草はあまりにも大仰だ。
アーサーとアロイスが、姫と竜とをじっと睨む。
「クリス! 竜を下げてくれ! 話し合おう、争いたくない!」
「このまま続ければこの竜神様とやらは我々が破壊します! それでもいいのですか!」
ハンスが拳を握りしめ、悲痛な声で嘆願した。
しかし姫には、その言葉は届かない。むしろそれに続いたアーサーの投降勧告めいた発言の方が、彼女の気を引いた位だ。
「……そうね。竜神様を傷つけられるのは嫌だわ。いくら神様でも治るのには凄く時間がかかるもの。でもそんなことある訳ないじゃない、何を言ってるのかしら。竜神様がやられる筈ないわ。だって神様よ? 神様はきっとわたしたちを守ってくださる。……大人しく浄化されるべきは、あなたたちの方よ」
組んだ両手を胸元に添えて、再び自信たっぷりに微笑む姫。
再び竜が焦げた頭を持ち上げ、畳んでいた汚れた羽毛の翼を大きく広げた。
羽ばたきながら上半身だけを浮き上がらせ、アロイスが翼めがけて射った長弓の矢を尾端の刃で弾く。
巨大な翼を激しく動かし、土埃を巻き上げながら竜は滞空を始めた。
冒険者たちは飛び上がった竜の空中からの攻撃を想定していたが、その予想は竜がすぐに翼を畳んだことで裏切られた。
冒険者たちが一瞬惚けた間に竜は落下の反動を活かし、腹で地面を強く打ち据えて跳ね上がる。
弧を描くような軌道で飛び上がり、ピエールとアーサーの上を飛び越えて後衛を奇襲する竜。
標的は、弓を構えたアロイスだ。
焦げた腐竜の頭部が、中年の弓使いに迫る。
しかしその頭は、横合いから盾を構えて飛び出たオットーによって真正面から受け止められた。
広間を震わす強烈な衝撃音が、盾と腐肉の間から木霊する。
鬼の如き形相に顔を歪め、野牛の唸り声と共に盛り上がる筋肉と盾で突進を受ける巨体。
オットーは自身の重みを余すことなく活用し、大きく後ろへ押されながらも真正面から竜の動きを止めて見せた。
停止した竜の胴体。そこに姉妹とハンスの発した呪文の光弾が躍り掛かる。
アーサーが剣の先端を五センチほど引っ掛けて左翼の付け根を半分ほど切り裂き、ピエールが右翼の根元を切り払おうと構えた所で竜は頭を振り乱して右翼への斬撃と魔法弾を回避した。
至近距離でのたうつ竜の、全身が凶器となって冒険者たちを襲う。
顔面に迫り来る尾端を辛うじて盾で受け、弾かれるように距離を取って逃れるアーサー。
近い距離から動くことなく、身軽かつ機敏な動きで飛び跳ね地に伏せ竜の猛攻を避けるピエール。
地面を削る尻尾の下薙ぎ。
寸前まで胸があった位置を掠めていく骨の突き出た翼。
地下広間を大きく揺さぶる叩き付け。
それら全ての攻撃を、ピエールは幾らかのかすり傷を負いながらも紙一重で回避した。
素早く動く度に、ふわりと揺れる茶色いポニーテール。
汁を撒き散らし暴れ狂う竜の猛攻。飛来する尾端の刃を避け損なったハンスが腕を浅く裂かれたが、姿勢を崩した所への追撃はオットーが低く構えた体当たりで強引に逸らした。
再びオットーの防御により動きを鈍らせた竜。今回は反撃を警戒し、すぐに頭を引いてその場から滑るように下がった。
一瞬の差で、竜の首があった場所を斧と剣が風を切って通過する。
竜が後退し、陣形は元に戻った。
後衛にアロイスとハンス、後衛の盾がオットー。そして先頭がピエールとアーサー。
頭を引き裂き焼き尽くされ、左翼の根本を半分抉られながらも腐肉の竜の動きは一切の支障を見せない。
今も焼け縮んだ肉の瞳で、冒険者たちを静かに見据えている。
再び飛び上がる姿勢を取った竜の喉元に、後衛の矢と光弾が交互に乱れ飛ぶ。一本の矢を弾き二発の魔法弾を避けた所で、避け損なった矢が喉を貫通し反対側から突き抜けた。
腐汁を滴らせて仰け反ったその直後、三つの光弾が竜めがけて迫る。
一発は回避され、一発は矢の刺さった喉、一発は左翼の根元に。
喉が燃え、翼の付け根が白い閃光で爆ぜる。炸裂した光によって肉が弾け、千切れた左翼が地面へと落下した。
竜が悶える隙に、再び地を這い懐へ突き進まんとする前衛姉妹。
喉を燃やしながらもそれを認識した竜が尾による迎撃を試みたが、二人を追い越し地面を走った大量の魔力の光が炸裂し、勢いを根元から殺された。
姉妹は左右入れ替わり、アーサーが左から距離を詰め盾を持つ左手と合わせて両手で剣を高く掲げた。
縦一文字に剣を振り下ろし、既に抉れていた右の後ろ足を斬り飛ばす。
「キェアアアアッ!」
一方のピエールは咆哮と共に小さく飛び跳ね、勢いをつけて斜めに手斧を一閃した。
翠色の光線を思わせる刃が、竜の左後ろ足を根元から深々と斬り抉る。
足は皮一枚ならぬ肉一欠片で繋がったが、もう使い物にはならないだろう。
一撃与えて即時離脱した二人と入れ替わりに、更に飛び行く四つの呪文の光。
二発避けられ、地を走る一発と空を飛ぶ一発がそれぞれ胴と尾の付け根を掠めた。
胴と尾が激しく燃え盛る。
「ハンス飛ばし過ぎだ! ペースを、っ!」
前を向いたまま、アーサーが余裕の無いきつい口調で怒鳴る。
しかし言葉半ばで竜頭の横薙ぎが飛んできて、すぐに中断し回避姿勢を取った。足を掠って体勢を崩しながらも竜の頭を飛び越える。
空振りながらも再び頭を上げた腐竜。
しかし、そこにまるで「置いてあった」かのようなタイミングで放たれていた魔法弾が、上顎の先端に直撃した。
発生しかけていた魔法陣は、アロイスの放った短弓の矢によって即座に散らされた。
竜の頭を再び業火が焦がす。既に黒く焦げていた頭が更に焼き尽くされ、乾き切った炭と灰の塊となって自壊し始めた。
前身を丸め、崩壊しかかった頭部を守るように抱え込もうとする竜。
だが、盾のように前面にせり出そうとした右翼は矢によって動きを根本から遮られ、がら空きの頭部に更に大量の魔法弾が撃ち込まれていく。緋色の火炎と真っ白な閃光が、竜の頭部で激しく弾け合う。
頭部への攻撃を必死でいなそうとしそちらに夢中になっていた竜は、姉妹の動きに気づかない。
地面に垂れ下がり動きの止まっていた尾を挟んで向かい合うピエールとアーサー。
二人揃って武器を高く掲げ、両手で一直線に振り下ろした。
「オットー、一緒に尾を押さえろ!」
尾が千切れ飛び、ピエールの返しの一撃で背鰭が胴体ごと削ぎ散らされると同時に、アーサーが高く叫んだ。
オットーが盾を構えながら駆け、武器を持ったままのアーサーと共に先の千切れた尾を抱え込むように掴む。
「りゃああああッ!」
「どおおおおおお!」
巨漢と少女。二人が吼え、床を踏み締め全力で尾を引っ張った。
目を見開き歯を食い縛り、抱えた尾を後ろへ引く。
ずるっ。
竜の巨体が滑り、体勢を大きく崩した。
未だ燃え盛る頭を尾へ向けたが、頭が芯まで燃え始め、尾も押さえられて動かない。
その隙に距離を詰めたピエールが竜の胴を踏み台にして、軽やかに跳躍した。
手斧を両手で振り下ろし、右翼の付け根を正確に斬り飛ばしすり抜ける。ピエールが通過した後を追いかけようとした竜の頭は、やはり長弓の矢と大量の光弾の追撃で動きを妨げられた。
地面へ着地したピエールは即座に床を踏んでターンし、今度は地面から斧を素早く振り回して胴を浅く何度も斬り始めた。
まるで子供が棒切れを振り回すような調子で、高速で振るわれる斧が竜の胴体を抉り掘る。
上は矢と光弾で縫い止められ、下は二人に掴まれ動かない。
その中で、胴の真ん中が激しく肉と汁と骨片を散らしながら抉り取られていく。
ある程度斬り進めた所でピエールは斧を振り回す手を止め、片手から両手に持ち直して真横にフルスイングした。
どぼんっ!
女性らしからぬ雄叫びと同時に振るわれた会心の一撃が、水っぽい音を立て抉れた胴体を吹き飛ばした。
腐竜の胴体、最も太い部分が完全に抉り取られている。
断面から、胃の内容物と思しき泥状の腐敗物が勢いよく漏れ始めた。
胴体を抉った後、ピエールは姿勢を低くしてすぐさまその場から離脱する。
顔に飛び散った腐敗液を左腕の袖で拭うと、雫の付いていた場所が腐食しておりぽつぽつと赤い斑点を滲ませた。
さながら血のそばかすだ。
やがてその内のいくつかから、赤い血の筋が垂れる。
支えを失った竜の上半身が重い水音と共に地に落下し、下半身もその動きを止めた。
尾を掴んでいた二人は即座に散開し、オットーは元の位置、アーサーはピエールの横へと移動する。
翼を失い、頭が崩れ、前足一対だけが残った焦げ付く腐竜の上半身。
弱々しく頭だった部分を持ち上げ、喉だった部分から液体をわずかに噴き出した。
「竜神、さま……」
「クリス。それは竜神様なんかじゃない。違う、違うんだ」
愁いと同情の混じったハンスの呼びかけに応えず、姫は静かに泉の縁に座って俯いている。
その中で、息を荒くしたアーサーが一歩姫へと近づいた。
その顔はピエールと同様飛び散った腐敗液で赤い斑点を作っている。とはいえピエールほどではない、ごく少数だ。
姫に近づき始めたアーサーを、ハンスが怪訝な顔で呼び止めた。
「アーサー、どうするつもりだ」
「王女を拘束します。とりあえずは危害を加えるつもりはありません。が、何かしでかさないとも限らない。拘束して地上に上がり、それから事情を聞くべきです」
「……し、しかし」
アーサーの言い分を尤もだと理解したが、感情では姫を拘束などしたくないハンス。
彼が言葉を濁し、言い淀んだその時。
姫が顔を勢いよく振り上げ、高く笑い始めた。
「あはっ、あははははは!」
目を見開き、頭だけを上げ、灰色に濁った瞳を冒険者たちに向けて姫は笑う。
完全に正気を失ったと思われるその姿に、誰もが同情、或いは軽蔑の視線を向けるが。
「……ねえ、わたしの言ったことをそのまま信じちゃっていいの?」
突如正気を取り戻したかのように、表情を正して姫は優雅に微笑んだ。
いきなりの変化に冒険者たちは暫し唖然とし、その中で言葉の真意に真っ先に気付いたアーサーが即座に剣を構え闇の縁に座る姫へ駆けた。
「アーサー! 何のつもりだ!」
ハンスが怒鳴るのも聞かず、アーサーは泉を踏み越え姫の頭上から剣を振り下ろす。
縦に一閃される鈍く輝く鋼鉄の刃。
しかしその斬撃は姫に当たる直前で、闇の奥から現れた二枚の盾によって阻まれた。
竜が出てきた時のように、出現した盾を追いかけて暗がりから現れる二体の鎧。
地上の広間に飾られていたものと同じ、全身鎧に鉄仮面の錆び付いた赤茶色の鎧騎士だ。
始めからその場所で待機していたのだろう。鎧騎士は姫を守るように左右に控え、その場で動きを止める。
少女の繰り出した刃は、盾に食い込む直前でぴたりと停止していた。
攻撃が届かないと見るや舌打ちし、すぐに諦めてピエールの横まで前を向いたまま後退するアーサー。
一連の行動をハンスが問い詰めようとするより先に、姫と泉に変化が訪れた。
泉の水が、真っ白に光り輝く。
強い魔力の光だ。水面を白く染め、姫を、鎧を、散った死肉を照らす光。
その魔力の光が、まるで吸い上げられるように姫の足元、水に浸かった足先から身体へと集中していく。
凝縮した魔力の光は泉から姫へ。そして、姫から竜へ。
閃光に包まれた竜の肉が集まり、見る見る内に再生し始めた。
一瞬の内に失った部分も、焦げた肉体も、全て再生し終えた腐肉の竜。継ぎ目や皮膚の組成が所々異なっているが、翼や尾端の短剣なども全て修復されていた。
竜が再び静かに泉の前に立ちはだかり、後ろで姫が得意げにしてやったりという顔で笑う。
「ざーんねん。本当は竜神様はすぐに自分の傷を治すことが出来るのでした。……治るのに時間がかかるっていうわたしの嘘を聞いて、皆すっごく安心してたもんね。ねえねえびっくりした? 魔力も矢もいっぱい無駄にしちゃった?」
きゃっきゃと笑う姫の顔は、齢一桁の悪戯少女そのものだ。だが今は、それが逆におぞましい。
「ハンス」
意識を切り替えたアーサーがさりげなく後衛の元へと下がり、ハンスに小声で呼びかけた。
「覚悟を決めて貰います。竜が即時再生出来るのなら、姫を殺すのが一番確実です」
「ま、待て、それなら」
「逃げる訳にはいかねえぞ。ここでも十分きついが、もっと広い場所で縦横無尽に暴れられたらどうなるか分からん。それに町まで追いかけて来るのも証明されてる。万が一外で倒せても、遠隔で再生出来るとしたら一巻の終わりだ。腹括れ、俺たちまでメルヒの嬢ちゃんみたいにはなりたくねえ」
アロイスに諭され、ハンスは皺の奥の目を更にくしゃくしゃにして強く瞑った。
目を閉じて判断に悩むハンス。そんな彼をまるで気にすることなく、姫はふと一つ思い出したかのように手を叩いた。
「そうだわ! あなたたちも浄化されるのは不安なのよね。だから何も怖くないってことを証明してあげるわ! ……さ、起きて」
再び泉が輝き、魔力の光が満ちた。光は姫に集められ、姫から泉の中へと再び帰っていく。
光が、三つの人型を形成した。
泉の底に横たわっていた物体が、飛沫の音を立てて起き上がる。
一人は茶と金のまだらの髪をしていた青年。胴体の肉がごっそりと失われ、手足と頭のみ肉が残った意思の無い、虚ろな顔の半骸骨。右手には細いサーベルが握られている。
もう一人は更に半端な崩壊具合だ。右手、右足、左の膝から先。この三カ所だけ肉の残った、言わば八割骸骨。残った部分の肉の具合を見るに、女性だろう。
そして最後の一人。焦げ茶の髪に、目元に浮いたそばかす。若草色の地味なロングドレスに、桃色の鮮やかな外套を羽織っている。服の胸元は血で赤黒く染まっているが、それ以外は一切の損傷がない綺麗なものだ。
死体の少女は瞳を濁らせて、虚ろな魂の篭もった目で冒険者たちを睨みつけている。
「……ハンナちゃん」
その顔を見たピエールが、静かに呟いた。




