03
「この馬、どれくらい持ちますか?」
「僕の馬も、ウォルトさんの馬も持久力に優れたホタン馬です。ケアリーさんが呪文で疲労の治癒もしてくれるそうなので、丸一日走り続けても潰れはしないはず」
「分かりました。ではこのままのペースで、生命線なので酷使し過ぎないようくれぐれも気をつけてください。……姉さん、暫く警戒をお願いします」
「分かった」
御者席にピエールと一組の若い男女を残し、アーサーは幌馬車の窓から頭を引っ込めた。
中にはウォルトの護衛組五人、ウォルト親子二人、アーサーと計八人もの人間が窮屈そうに、そして不安そうに座り込んでいる。
「……ボス、その……」
「すみません、あの黒い奴が動くのを見た途端、身体が言うことを聞かなくなって……」
「次からは気をつけろ」
「ごめんなさい……わん」
ジョッシュの返答は実に簡潔だが、それだけでチュチュとネイトの二人はいくらか落ち着きを見せた。
短い言葉でも、意図や感情が十分に伝わるほど付き合いが長いのだろう。
「おいジョッシュ、それから妹よ。結局どういうこっちゃ。あれが殺せない、とは」
「さっきピエールちゃんが派手にやったじゃない」
「あの小娘がしたことは俺も知っている。だがそれでも奴の……何と言うべきか、存在感、のようなものは微塵も翳りを見せなかった。それに……」
「単刀直入に説明しますが、あの魔物は極めて格の高い不死の魔物です。我々の力ではいくら物理的に損壊したところでじきに元通り再生するでしょう。実際私が見ていた限りでは、最後まで切断された断片が動いていました。もう再生を開始していてもおかしくはない。……完全に消滅させるには、相当な労力や強度の呪文が必要。入り口も塞がれましたし、奴が諦めるか見失うまで逃げるしかありません」
アーサーの説明によって、場の空気がずん、と重くなったのを全員が感じた。
当人たちの表情が優れないとはいえ、斃したことは斃していたのだ。
故に空気もいくらか軽かったのだが、その名残は急速に霧散しつつある。
「不死の魔物って、そんなの本当にあるのかわん。わんにはとても信じがたいわん」
「勿論、再襲撃など起こらず全て杞憂に終わる可能性はあります。しかしもしも我々の想像通りの事態に陥る恐れがあるのなら、備えて損は無い、と強く、主張します」
強く、の部分を非常に強調するアーサー。
護衛三人、ケアリー、チュチュ、ネイトと、プリシラ、ウォルト親子。五人が視線でアントンとジョッシュを窺った。
アントンは腕を組み、ジョッシュは膝に手を置き一様に深刻な顔で目を閉じていた。
ややあって、アントンがちらりと横目でリーダーであるジョッシュに目を向ける。
「こんな小娘の意見を聞くのも癪だが、概ね同意見だ。……直接剣をぶつけた時に感じた。あれは相当な代物だ。あれで終わったとはとても思えない。備えるに越したことはない」
結論を出し、ジョッシュが視線を雇い主であるウォルトに返す。
ウォルト本人としては戦闘のことはジョッシュに一任している為、異論は無い。
無事に話が纏まり、アーサーは内心で大きく大きく安堵のため息を吐いた。ここで危険性を正しく認識して貰えなければ非常に面倒な事態になるところだったが、直接武器を交えたジョッシュが黒衣の魔物の危険性に気づいたのが僥倖だ。
ひとまずは安心、にも関わらず、アーサーの身体内に滲む冷や汗は未だに引いてはいなかった。
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淡々と馬車は踏み固められた洞窟の道を走る。
一行は皆幌馬車の中で、思い思いに心と身体を休めていた。
かちかちに堅く乾いた干し肉を、がじがじ噛みしゃぶって味わっているチュチュ。
そんな彼女の緑色の髪と耳を櫛で梳くネイト。
プリシラは不安なのかケアリーにしなだれかかり、ケアリーはそんな彼女の背中を優しく撫でる。
アントン、ジョッシュ、ウォルトの中年三人組は揃って目を閉じ険しい顔だ。
そんな彼らに混ざり馬車の床にぼんやり視線を投げつつ、アーサーが徐に話を切り出した。
「……一応お尋ねしておきますが、あの黒い魔物の存在に心当たりのある方は? あれだけ強大な魔物が存在するのなら、少しくらいは情報が残っていてもおかしくない筈ですが」
七人が視線だけを上げてアーサーを見返し、その後お互いに視線を巡らせる。
しかし誰からも返答は無い。七人の中に知る者はいないらしい。
「……誰も知らんようじゃの。私も五十年ほどこの地にいるが、クルムトゥ近辺であんな化け物、それどころか人型の魔物の存在すら聞いたことがない」
七人を代表して答えるアントン。
彼の言葉にアーサーが内心ため息を吐こうとすると、
「アーサー」
御者席から声がかかった。
窓を開けると、覗き込むピエールの顔が映る。
「どうしました、姉さん」
「いやね、こっちの女の人があの化け物のこと聞いたことあるって」
「本当ですか!」
アーサーが声を張り上げ、女に中へ入るよう強く急かした。
女は馬を駆る男を窺い、確認を取ってから中へ入る。
「……」
一見した雰囲気は、非常に根暗そうな女だ。
焦げ茶の髪を肩口で揃えた、垂れがちの細い目をした二十歳ほどの女性。
見目は決して悪くなく、整っている部類に入るのだが口をむすっと閉じ細い目で睨むように相手を見つめる様は今の状況と空気を加味しても尚暗く陰気な性格を現しているようであった。
アーサーから自信を全て抜き去って、溢れるほどの卑屈さを加えればこうなるかもしれない。
彼女の名はアイヴィー。
現在御者席で馬を操る青年はディーン。
二人は夫婦であり、先ほどまでウォルトの馬車と並んで馬車を駆けていた若い商人の夫婦であった。
しかし先の黒衣の襲撃により、護衛は皆雇い主である夫婦を見捨てて他の商人の馬車で逃げてしまったのだという。
このままでは黒衣が再生しようがしまいが生きて帰ることが困難なので、荷物を最大限切り詰めて自らの馬車を放棄し、ウォルトの馬車を頼ったのだ。
現在馬車を引く馬は、元々の馬に加えて夫婦の馬車を引いていた馬も伴っている。
アイヴィーは無言のまま一度目礼をした。
八人の視線が一度に集中したことで困った、というよりも嫌そうな顔をしていたが、時間を空けてからぽつりぽつりと語り始める。
「……私の九代前の先祖が、ニアエルフでした。十年前に、亡くなりました」
「その方があの黒い魔物について知っていたのですか?」
アーサーが尋ねるが、アイヴィーは無言で首を振る。
やはり時間を空けつつ、再度口を開く。
「彼女が一度、ぼやいていたのを思い出しました。クルムトゥの町があった頃、町では五年に一度祭りを催す風習があったらしい、です。ただでさえ財政的に厳しい当時のクルムトゥで、高価な魔法石を使って。そんなことをしていたから、町が破綻して消滅したんだろう、当時のクルムトゥ町民は馬鹿だったのね、と」
「……」
「その祭りの趣旨が、クルムトゥに眠る怪物を、鎮める為、だった。だけど、彼女も、彼女が言伝に聞いた、当時の元クルムトゥ町民たちも、誰もが皆怪物の存在なんて信じていなかった……と」
語り終えたアイヴィーが、陰気な顔に見合わぬ豊かな胸の前で指を絡めつつ周囲の反応を窺う。
各々険しい顔をしているが、中でもアーサーの反応は劇的だ。顔を青ざめた、と言ってもいいほど。
「つまり、そのクルムトゥに眠っていた怪物を鎮める為の祭り、というのが実は本当のことで、クルムトゥが滅んだことで祭りが行われなくなって、その結果怪物が目を覚ました……?」
「……そういうことに、なるんでしょうね」
「クルムトゥ住民何してんだわん! 祭りの理由くらいちゃんとはっきり覚えとけわん!」
「いや、逆にさ……逆に、怪物が封じられてる、祭りはそれを鎮める為、なんて普通忘れようがない、とんでもない事実が風化して、信じられなくなるほどってことはさ」
その怪物、一体何年前から封じられてたの?
ネイトの呟きに、答えられる者は誰もいなかった。
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「流石にもう限界だろう、馬を休ませて俺たちも休むぞ」
「そうですね」
アーサーが控えめに頷き、御者席にいるピエールとディーン、アイヴィー夫妻へ呼びかけた。
昼過ぎ、洞窟へ入ってからほぼ不休で走っていた馬車が緩やかに速度を落とし、やがて停止する。
「こんな所で停まるのは初めて」
「そうだね……」
馬車から降りたプリシラが、父親に少し身体を預けつつ呟く。
一行が停止したのは、未だ終わりの見えないクルムトゥ南の洞窟、およそ中央部分だ。
本来ならば南から入って暫く進むと空の開けた月の明かり輝く中間地点が存在し、クルムトゥを通る者は大抵その中間地点で一晩を明かしている。
しかし今は非常事態。夕暮れの緋色の空が覗くその場所を足早に通過し、洞窟の内部という中途半端な場所で足を止めることになっていた。
護衛たち五人が何を言うでもなく野営仕事を始めた。
ケアリーが疲労困憊の馬の世話と呪文による治癒を施し、ネイトとアントンが火の準備を行い、チュチュとジョッシュが食事の準備を行う。
姉妹二人、プリシラ、ウォルト親子、ディーン、アイヴィー夫妻の三組はそれぞれぴったりと寄り添い、三組とも示し合わせたように後方へと視線を向けていた。
「出来ましたか?」
薪に火が移り火勢が安定し始めた頃。
アーサーが左手に革張りの丸い小盾を握り締めたまま、焚き火の元へやって来た。
「うん」
「少々頼りないが、薪と燃料はあまり多く持ってきていないからな。あまり盛大に焚く訳にはいくまい」
「そうですか」
答えを聞くやいなや、アーサーは早足で馬車内部へと引っ込んでいく。
ややあって戻った彼女の手には小さな矢と着替えの衣類が少量。いずれも馬車に積んであった自身の背嚢から出した物だ。
「アーサーさん、それ、どこから?」
「背嚢に。あまり大層な物にはなりませんが、気休めにはなるでしょう」
「考える物じゃの」
「ネイトっ、くそじじ、火は出来たのかわん? ……おい、それ何だわん?」
持って来た物を見ただけで意図を察したネイトとアントンが、感心しつつ頷いた。
同じタイミングでチュチュがしゅっ、とネイトとアーサーの間に身体を滑り込ませに来たが、彼女は一目では分からなかったようだ。
「光源の足しにします」
アーサーは衣類を裂き、腰のベルトポーチから小さな針金を取り出すと矢の先端に衣類の切れ端をきつく巻き付けた。
ネイトから火付け用の燃料を少量借り、巻き付けた衣類片に少しだけ塗りつけ火を付ける。
即席の松明の完成だ。
「……おお」
慣れた手つきで即席を松明を拵え、後方、焚き火の光が届かなさそうな位置へ松明を刺して戻るアーサー。
後方の視界がいくらか広がった。
とはいえ洞窟は広い為、端から端まで完全に照らすには至らない。彼女の言う通り、気休め程度だろう。
「中々賢いことするわん。ネイトも見習うわん」
「よくも自分のことを棚に上げて偉そうなこと言えたもんだねこの馬鹿犬は」
「わんは馬鹿でもしょうがないわん。でもネイトはせっかく賢いんだからもっと賢くなるわん」
「なんだその理屈」
「いいから早くご飯にするわん。食べられる内に早く食べておくわん。……へいケアリー! 馬の面倒見終わったなら早く鍋に水を入れるわん!」
「あらあら、このお馬鹿わんこちゃんはいつから私に命令出来るほど偉くなったのかしら。もう少し躾が」
「はい! 鍋にお水をどうかお願いしますですわん! お手伝いもしますわん!」
しゅたた、とケアリーの元へ駆けていくチュチュ。
そんな彼女の後ろ姿を、ネイトとアントンの二人は微笑ましい物を見る目で眺め。
アーサーはただじっと、後方の闇を見つめていた。
: :
「すみません、ありがとうございます。……ほら、アイヴィー」
「……」
昼と代わり映えのしない食事の椀を受け取った青年、ディーンがアイヴィーへと椀を手渡した。
無言のまま受け取ったアイヴィーを満足げに見つめてから、自身の分の椀を受け取る。
十一人全員に食事が行き渡り、徐に食事が始まった。
誰が言うでも無く全員後方を向き、横一列になっている。
加えて全員が、時折ちらりと視線を上げて矢の松明の更に先へ視線を走らせていた。
「なんだか少し新鮮です。ここを通る時、いつもは空の下で月を眺めながらの野営だから」
「あの通り過ぎたところ、意外と過ごしやすそうだったもんね。空が見えて、小さな湧き水の川があって、植物も生えてて、小さな隠れ家って感じ」
「そうなんですよ。私、あの場所がお気に入りなんです。冬が終わった春の始め頃に通ると、小さな桃色の花がいっぱい咲いてて。毎年あれを見るのが楽しみでした」
笑顔で語ってから、果たして来年の春同じようにここを通れるのか、という疑問が頭を過ぎり、プリシラの笑顔に少し翳りが見えた。
そんな空気の変化を感じ取ったのか、ピエールが慌てて話を変える。
「そ、そういやさ、私疑問に思ってたことがあるんだけど」
「疑問? なんですか?」
プリシラの意識が逸れたことに安堵しつつ、ピエールが話を続ける。
「その、チュチュちゃんって何で"わん"って言うの? そんな言い方する耳の人って私見たこと……」
「止めろわん! 余計なこと聞くんじゃないわん!」
言い掛けたピエールを制する鋭い叫び声。
ぎょっとした彼女が視線を向けた先では、俯いたチュチュが険しい顔で俯いていた。
何かまずいことを聞いてしまったのかとピエールが後悔する。
が。
「んふふ、聞かれちゃったからには答えない訳にはいかないわよね?」
険しい顔のチュチュとは正反対の、厭らしい笑顔を浮かべたケアリーが話を繋ぐ。
チュチュが無言で止めるよう哀願するも、捨てられた犬の願いが彼女に届くことはない。
「あれは一昨年のことだったかしらね。今まで見習いだったこの子が正式にウォルトおじさまの護衛として雇われることになって、初めてお給金が出たのよ。初めて纏まったお金を手にしたチュチュちゃんは……」
「チュチュちゃんは……?」
「き、聞くんじゃないわん小さいの……!」
一旦間を空け、盛大に勿体ぶってから。
「初めて賭け事に手を出して給金全部すったどころか三万ゴールド近い借金までしちゃったのよ」
「あらー……」
「全部このくそじじが、くそじじが悪いわん。純粋無垢なわんを賭場に拉致するから……」
「これ、人聞きの悪いことを言うなチュチュよ。私が誘ったのは確かだが同伴を決めたのも有り金すって借金こさえたのも全部自業自得じゃろ」
「自分で誘った以上少しくらい面倒見ても罰は当たらなかったと思いますけどね……チュチュが周りの口車に乗って大金借金してるのに一切気づかず遊んでた、ってのは酷いですよ。しかも自分は少額で要領良く」
「そうだそうだネイトの言う通りわん! このくそじじ!」
「……それで一転して債務者になったチュチュちゃんの借金を私が肩代わりして、借金完済するまでチュチュちゃんには罰として"わん言葉"を喋って貰ってるの」
「なるほどなー……それでアントンのおっちゃんは"くそじじ"なのね」
「嬢ちゃんまで私をくそじじい扱いするのか。私は悲しいぞ」
「誰が見てもお前は社会不適合者だ。もう少し賭博と娼館巡りを控えろ」
「アントンおじさまは呪文の腕が無かったらとんでもない駄目人間になってましたね」
「これは手厳しい……」
最終的にジョッシュとプリシラにまで駄目出しされ、アントンは苦笑いしながらつるつるの頭部を叩いた。
しかし彼のおかげで、一行の空気はわずかながら軽くなったのであった。
: :
夜の洞窟の果て。
光と闇の間に、猪のような大きさの蟹がぬっと姿を現した。
胴体は白くかさかさしており、足や触肢だけが黒く光沢を帯びている。だがそれ以外はさしたる特徴も見当たらない。
「うわ」
武器を軽く構えていたピエールがその姿に驚いたのも束の間、大蟹は光を嫌がったのか元いた暗がりへ逆戻りしていく。
「見たこと無い蟹だったね。軍隊蟹じゃないみたいだし」
「黒蟹や闇蟹という名で呼ばれる、クルムトゥ地域固有の種らしいです。強い負の走光性で光の元へ近寄ることは無く、雑食性で屍肉を食べるものの生きている人や馬を襲うことも無い。基本的に害の無い種らしいですが、光源になる発光性の植物を食べてしまう為、唯一その点では嫌がられているとか」
「ふうん」
闇蟹が暗闇の奥に消えるのを見届けてから、二人はまたぼんやりと周囲全体を警戒する状態に戻る。
他の皆は眠りについており、のろのろとした歩みの闇蟹の足音と、焚き火の爆ぜる音だけが閉じられた洞窟の内部で反響していた。
「……今夜は来るでしょうか」
二人ぴったりと寄り添い合った状態のまま、アーサーがぽつりと呟いた。
その声音は非常に小さく、そして平坦だ。
だがその中に恐怖と怯えが混じっていることを姉は確かに感じ取っている。
「……」
ピエールはすぐには応えない。
闇の奥を眺めたまま、妹すらも不審に思うほどの間押し黙り。
「……姉さん?」
「これは私の勘だけど」
「……」
勘、と呼ぶには少々重た過ぎるほどに、再び間を空けて。
「今日は来ないと思う。来るのはきっと明日から」
「理由を聞いても?」
「分かんない、勘だよ。……ただ」
鞘に収まる手斧の柄頭にかけた手の力を、より一層強めながら。
「さっきのあいつはきっと、本調子じゃない。もし次があったら、多分最初みたいにはいかない」
確信を持って、そう呟いた。




