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姉妹冒険者物語  作者: 並野
王国の竜
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冒険者-01

 風の勢いは夜と比べれば多少弱まったものの未だ強く、窓はかたかたと小刻みに震えている。雲が無く雨の心配をせずに済みそうなことだけが、唯一の幸運だ。


「おっちゃん、ごちそうさま。……ニナはどう?」


空になった食器を寄せ、二人は立ち上がった。傍らの床には、大きな背嚢が置かれている。


「まだ寝てる。昨日の晩に飯も水も食ってたから気にすんな」


アーノルはいつものようにカウンターの向こうで頬杖を突き、ぶっきらぼうに返事を返した。


「そっか。じゃ、行ってくるから」


いつものような軽い笑顔ではない、真剣味を帯びたピエールの微笑み。

 短い一言の挨拶を終え、背嚢を背負って宿を出ようとする二人。

 それを、アーノルが呼び止めた。


「ちょっと待て」


アーノルはカウンターの奥へ引っ込み、布の包みを持ってきてピエールへ手渡した。


「弁当だ。パンやチーズは日持ちするから後回しでもいいが、肉と野菜だけは今日中に食ってくれ。結構量があるから、他の奴らと分けて食えばいい。……頼むぞ。大げさな話かもしれんが、この町の行く末はお前らにかかってる」


彼女たちの目の前にいる男の顔は、普段の気怠げなものではない。

 真剣に町と、娘のことを案じる一人の父親の顔だ。


「ありがと。……任せて」


弁当の包みを受け取り、ピエールは力強く頷いた。

 そして二人は、宿を後にする。


   :   :


 強風に煽られ、アーサーは外套の裾を押さえた。

 ばたばたと大きな音を立てて荒ぶる布を、何とか押さえ込む。


 北門を出ると、視界の中央に長く続く一本道と脇を挟む紅麦の花畑が地平線まで続いている。

 遮蔽物の無い広々とした空間は町中よりも更に風が強く、そして冷たい。

 太陽は出ているものの、空気は冷え込んでいた。

 待ち合わせ場所には既に、四人のメンバーと町長である老人五人が揃っている。


「遅かったな」


にやにや笑いではないが、それでも自信に満ちた不敵な笑みを崩さないアロイス。

 横ではオットーが、苛立たしげに剃りたてで青くなった顎を撫でている。

 アロイスの腰、背中側には短い小剣が一本。それと、大きさの異なる弓が二本に矢筒が吊られている。

 オットーは背中、背嚢の上に長さ七十センチ近い大きな凧型の盾を背負っていた。背嚢と併せてかなりの重量がありそうだが、平然とした様子だ。腰には、武具屋で見かけた鉈のような短く太い直剣。

 二人とも外套は着ておらず、膝まで丈のある分厚いコートを着込んでいる。


「ゆっくりご飯食べてたら遅くなっちゃった、ごめんね。その代わりと言っちゃ何だけど、宿のおっちゃんからお弁当貰ってきたから。後で食べよう」


ピエールは包みを掲げ、四人へ視線を回した。

 メルヒへ目を向けると、彼女は無表情のまま、視線をそらさず半歩後ずさりした。

 隣に立つハンスの手を強く握っている様は、まるで祖父の背に隠れる人見知りの孫だ。

 ハンスとメルヒは武具を持たず、ゆとりのある鼠色のフード付きローブの上に背嚢を背負っている。魔法使い組の荷物の量は、他の四人よりもいくらか少ない。


「よし。では出発するぞ」


ハンスが堅い声で宣言し、老人五人に会釈をした。

 それぞれ対応は違うものの皆真剣で、且つ不安に満ちた表情だ。

 老人たちに静かに見送られながら、町を出発する六人。

 レールエンズへの冒険の、始まりである。


   :   :


 歩き始めてから三十分。

 足取りは緩やかだが、それでも視界には未だに真っ直ぐ伸びる道と、広大な畑しか存在しない。

 先頭はハンスとメルヒ。未だにメルヒはハンスの手を握っている。

 中央にアロイスとオットー、最後尾にピエールとアーサー。オットーの体が縦にも横にも大きく、前方の視界は悪い。


「この辺は平和だな」

「まるでピクニックだで」


平野地帯、森に入るまでは大型生物の影も無く安全そのものだ。その為、メンバーの雰囲気は軽い。


「森にはいつ着くだ? 変わり映えせんからつまらんど」


オットーの問いかけは、前を歩くアロイスに向けてのものだったのだろう。

 しかしそれに答えたのはアーサーだ。


「このペースなら昼頃という所でしょう」


思いも寄らない所からの返事にオットーは一瞬面食らい、それから不快感で眉を寄せた。


「おめえにゃ聞いてねえど」


その呟きは、敵意を露わにした一言だが、アーサーは何も言わずただ沈黙を返すのみ。気を損ねた素振りも無い平然としたものだ。


「……何か私らオットーのおっちゃんからの受け悪いね。何で?」

「こいつ拗ねてんだよ、女の細腕の癖にあんなに腕力あってむかつくって」

「旦那、余計なこと言わんでくれ」

「なるほどなー」


痛い所を突かれたオットーが声を荒げるも、アロイスにはまるで気にする様子がない。むしろ、動揺している様を楽しんでるとすら感じられた。


「確かに私の腕細いけど、でも何にもしてないって訳じゃないんだよ? それなりに努力した結果がこれだし、認めて欲しいな」

「フン」


一度鼻を鳴らし、オットーは押し黙った。上着のポケットに無造作に手を突っ込み、取り出した小さなナッツを音を立ててかみ砕く。

 黙ったオットーの代わりとでも言うように、アロイスが口を開いた。


「そういや俺も気になってるんだが」

「ん? 何が?」

「一昨日別れた後俺も色々お前らのこと調べてみたんだが、話を聞く限りじゃそっちの妹は何でもすぐに手と口が出る気の短い嬢ちゃんらしい。それにしては大人しくねえ?」

「ああそのこと」


アロイスの疑問は何気ないものだったが、ピエールはそれを聞いて悪戯っぽくにやにやと笑った。

 一方のアーサーは、嫌そうな顔をしながらも止める様子は無い。


「アーサーはこれでも嫌な子だからね。強い人はちゃんと見分けて喧嘩売らないんだよ。オットーのおっちゃんが結構冷たくしてるけど怒らないのもそういうこと」

「冒険者の処世術ですよ」

「それにしては普通の人にはがんがん喧嘩売っていくよね? そんなこと言うくらいなら普通の人にも喧嘩売らない方がよくない?」


アーサーの言い分はあっさりと切り捨てられ、無言でそっぽを向いた。


「くく、なるほど嫌な奴だなお前」


言葉とは裏腹にアロイスの言葉は好意的で、非難や軽蔑の感情は殆ど感じられない。

 会話はそこで途切れたが、パーティ内の雰囲気はどこか柔らかくなったようだ。

 先頭では無言で歩くハンスがほんのわずかに微笑み、横のメルヒがその顔を意外そうな目で見ていた。


   :   :


 他愛ない雑談を散発的に交わしながら数時間歩いた所で、地平線の先に森の先端が現れた。

 更に少し歩き、森の手前で六人は立ち止まる。


「……休憩にするか」


ハンスの一言と共に、全員が道のど真ん中に腰を降ろした。

 他の五人は平然としているが、メルヒの息が少し荒い。肩で息をしながら、膝を曲げて俯いている。


「メルヒちゃん、大丈夫?」


ピエールの言葉にも、メルヒは俯いたままだ。手だけを上げてピエールに応えた。


「こっちの嬢ちゃんの体力は見た目相応だったか」

「普通はそうだべ」


メルヒが背嚢を降ろすと、ハンスがその口を開けて中から木彫りの小さなマグカップを取り出した。空のカップを受け取ったメルヒは、荒い呼吸の合間にそれを目の前に掲げる。


 ぽん。

 低い小さな破裂音と共に、カップのすぐ上に拳大の水の固まりが出現した。

 カップの中に落下した水を、喉を鳴らして嚥下するメルヒ。隆起の無い小さな喉仏が、こくこくと可愛らしく上下していた。


「……少し、落ち着きました。ありがとう、ハンス様」


弱々しくも笑顔でハンスに笑いかけるメルヒ。

 その姿を、外套や背嚢を外した他の四人は遠巻きに眺めている。


「呪文って便利だね……」

「呪文の才能が一切無いおっさん二人には眩しい光景だ」


ピエールとアロイスの二人が、しみじみと実感の籠もった口調で呟く。

 メルヒの様子が一段落着いてから、ピエールは立ち上がって手に提げていた弁当の包みを掲げた。


「いい感じの時間だしお昼ご飯でも食べようよ」


手頃な空間を探してから、弁当の包みを解き六人で囲む。


「おお……」


結び目が解かれて中身が露わになり、ハンスが小さく感嘆の声を上げた。

 中身は紅麦とライ麦、二色のパンによる簡易サンドイッチだ。

 平たい二口分程度の大きさのパンと、それに乗せて食べる為の薄切りにされたチーズやローストポークなどの具が別々にぎっしりと詰まっている。

 アーノルの言葉通り、分けて食べるのに十分な量だ。


「柔らかい肉は暫く食えないと思ってたから、これはありがてえな」

「全くだ。ピエールとアーサーが泊まっているのは、確か妖精の止まり木亭だったな。戻ったら、あそこの主人に礼の一つも言いたい所だ」


一度口を開けば、ハンスは思いの外饒舌だ。

 横に座るメルヒが、ハンスの服の袖を引っ張る。


「ん? おおそうだったな。……皆、水が必要ならメルヒに言うといい。この子なら水を出すだけならばさしたる消耗も無く行えるからな」


丁度背嚢から水筒を取り出そうとしていたオットーが、真っ先にカップを取り出してメルヒに突きつけた。

 メルヒが無言で指先を向けると、小さな水球が現れ金属のカップを満たす。


「おお、凄いもんだべな、魔法使いってのは。ありがとよ」


オットーが蛙顔をにまりと歪ませて笑い、メルヒの鮮やかな緑の頭を巨大な手でぐしぐしと乱暴に撫でた。

 メルヒは俯き無言だが、どこか自慢げで鼻息が荒い。

 次にカップを差し出したのはアロイスだ。カップが水で満たされると、俯いているメルヒに笑いかけた。


「魔法使いってのはこれがあるからいいよなあ。サンキュー、嬢ちゃん」


次いでピエールが、目をきらきらと光らせて二つのカップを両手に持ち、メルヒの前に屈み込む。

 ぽん、ぽんと小気味よい音を立てて、水が満ちた。


「ありがと、メルヒちゃん。凄いよね、こんな簡単に飲み水出せちゃうんだもん。お礼って訳じゃないけど、お弁当、自由に摘んでね」


ピエールは持っていたカップの片方をアーサーに渡し、定位置に座った。

 最後にハンスのカップに水が注がれ、六人の水の準備が整う。


「串まで丁寧に六人分付いてるや。おっちゃんに六人って言っておいてよかった」


ピエールは紅麦のパンを一枚手に取ると、長さ五センチほどの小さな串を使って器用にチーズと豚肉、それに紫キャベツの葉を引っかけ、パンに乗せた。

 風で具が飛ばないよう、串を中央に刺して留めるとその見た目は一丁前のポークサンドだ。

 他の皆も、思い思いにパンに具を乗せて口へと運んでいく。

 半分齧って咀嚼しながら、目を閉じて笑うピエール。


「んぐんぐ……んはあ! やっぱり外で食べる食事もいいね。テーブルマナーも何も気にする必要無いし」

「へっ、おめえみてえな小娘が。マナーなんて大層なこと言ってんじゃねーど」

「いやいや、私これでも食事のマナーは結構気にしてるからね。食器の音とか一切立てないように、こうして、こう……あっ、全然見てない」


空いている右手でスープを飲む時の手捌きを実演していたピエール。他の四人がその仕草を見ていた中で、オットーだけが露骨に視線を逸らしてパンに肉を積んでいた。

 身体も頭も大きいオットーは口も相当に大きく、他の全員が二口かかるパンを一口で悠々と口内に放り込んでいる。


「オットーのおっちゃんは中々に意地悪だ。メルヒちゃんには笑顔で頭なんか撫でてたりしたのに」

「魔法使いは、すげえ。でもおめえらは、胡散臭え」

「……アロイスのおっちゃん、何か言ってやってよ」

「流石にこいつも大事な場面で変な意地張るような馬鹿じゃねえから、多少は見逃してやってくれ」

「ちぇー。まあしょうがないか」


一瞬不満げに唇を尖らせたかと思えば、すぐに屈託の無い笑顔に変わるピエール。

 左手に持っていた食べかけのパンを、口に放り込んだ。


   :   :


 談笑しながら三十分ほどかけて食事を済ませ、各々の小用も済んだ頃。

 六人は立ち上がって向かい合い、改めて今後の相談を行っている。


「……じゃ、隊列は先頭俺、殿をピエール。間にハンスとメルヒを挟んで、左右にアーサーとオットー。これでいいな」


アロイスは全員の顔を見渡し、反対意見が無いことを確かめた。


「普通なら明日中にはレールエンズに着く所だが、城には何があるか分からん。メルヒの嬢ちゃんのこともあるしペースを落として、体力を温存しながら進む。森の間は油断するなよ」


全員が頷き、アロイスを先頭にしてパーティは森へと進み始めた。

 森の樹木は広葉樹が多く、今でも沢山の葉を茂らせている。樹高はやや低いが、概ね一般的な高さだ。

 葉が多いものの木ごとに間隔が空いているおかげで、視界は明るい。

 昼間という時間帯相応の、木漏れ日たゆたう森の景色。

 森の中は風も殆ど無く、平野より過ごしやすいとすら言えそうなほどだ。

 姉妹二人も、有事の際に邪魔なこともあり外套は脱いでいた。丸められた外套が、背嚢の側面に括り付けられている。代わりに、ベルトに吊っていた厚手の革手袋を身につけていた。


 森の中を今も残る道の跡を辿り、六人は進む。

 かつて道だったものは今では下草に覆われてしまっているが、それでも低木が乱雑に生え並ぶ道の外と比べるとその違いは瞭然だ。獣や採集に来た町民たちが、今でも使っているのだろう。ちょっとした獣道という風情を醸し出している。


「どこにでもあるような普通の森という印象ですね」

「儂の記憶通りなら、最初から最後までこの調子だ」


アーサーの小さな呟きを横のハンスが拾い、すぐに会話は途切れる。

 森に入ってからは、流石にメルヒはハンスの手は繋いでいない。

 森を進む速度は平野の時よりもずっと遅く、一歩一歩踏みしめるような歩き方だ。

 下草を靴でかき分けながら進むのは、普通に歩くよりも体力を消耗する。それに加えメルヒの体力を考慮した、遅々とした歩みの速度。

 相当なペースの遅さだが、その甲斐もありメルヒは今のところは平然としている。


 さく、さく、さく。下草をかき分け歩く音が絶え間なく森に響き、時折ナッツや焼き菓子などを咀嚼する音が聞こえる。

 無言のまま、およそ一時間近く歩いた頃。殿のピエールと先頭のアロイスが、同時に立ち止まった。

 他のメンバーも、やや遅れて立ち止まる。


「おっちゃん」


ピエールが後ろから一言呼びかけると、アロイスは前を向いたまま頷いた。

 いつもの飄々とした態度ではない、鋭い狩人の目だ。


「お早い歓迎だ」


森の中に、低い獣の遠吠えが轟く。


   :   :


 姉妹と巨漢、前衛三人が武具を抜き無言で構えた。

 鞘と金属の擦れるしゃるりという乾いた音が、三つ重なる。

 どこからともなく響いた遠吠えは数度呼応するように繰り返され、茂みをかき分ける音が四方から聞こえてくる。


「狼ですね。四、六……十という所でしょうか」

「囲み始めた。数頭仕留めて追っ払うぞ」


アロイスが一歩下がって魔法使い組の中に混じり、それを前衛三人が背を向けて囲む。

 じりじりと緊張が高まっていく中、メルヒが小さく呼びかけた。


「壁を作ります。前衛の方は少し離れてください」


後ろを見ぬまま前衛が一歩距離を取った所で、一言呪文を呟くメルヒ。詠唱の短さとは裏腹に、迸る魔力の光は意外なほど大きい。

 詠唱の直後。彼女を中心に、周囲の地面から透明な氷の壁が伸び始めた。

 分厚い氷壁はあっという間に成長し、一瞬で後衛は透明な半球型の氷壁に包まれる。ご丁寧に、目線あたりの高さには矢弾や剣を突き出せる大きさの覗き窓が横一列に空いていた。

 オットーが振り返ってその氷の防壁を目に留め、小さく口笛を吹く。


「これで多少は耐えられる筈です」

「……よし。じゃあ二人とも、防御はお願い」


オットーと同じように氷壁を確認したピエールは、仲間から外れ単独で道のど真ん中に進み出た。

 片手用サイズの薄緑の手斧を右手で握り、左の手のひらの上に刃の腹を乗せている。


「馬鹿なことするでねえ! 死にてえのか!」


茂みの揺れる音に被さるように轟いたオットーの怒声。

 その轟音に紛れこむように、茂みから五頭の狼が飛び出した。

 二頭はオットーとアーサーの、盾の無い右手側から足下を狙って。

 もう一頭は氷壁に馬鹿正直に飛びかかり、最後の二頭は棒立ちになっているピエールの前後から。


 するすると滑るように茂みを駆け、アーサーの右の足首へ向けて牙を剥く狼。

 少女の右側、すぐ横の茂みから大口を開けた顎が飛び出した。

 唾液でてらてらと光る巨大な犬歯が、ブーツの上の細い足首に迫る。


 だが、アーサーの反応はあくまで落ち着き払った冷静なものだ。

 手にする剣の切っ先を、飛び出してくる顎に合わせる。

 ただそれだけで狼は自らの勢いで口の端を裂き、身体を反らして刃を回避したことで当初の勢いを失ってしまった。


 無防備な状態で、道の上で停止した狼。

 それは時間にすれば一秒もない些細な隙だったが、アーサーはすかさず足を後ろに振り上げつま先を狼の腹へ突き立てた。

 力を込めて足を振り、自身の身体と同じくらい大きな獣を蹴り飛ばす。

 蹴飛ばされて地面を転がる狼。直後に自身のすぐ後ろからハンスの呪文を詠唱する声が聞こえ、アーサーは追撃を中止して現在の位置取りのまま周囲の警戒に努めた。


 アーサーの反対側にいる蛙顔の巨漢に対しても、狼は同様の手口で足首を狙い引き倒しにかかっていた。

 二足歩行は、まず足を狙って姿勢を崩す。彼らの血に流れる、定番の戦術だ。

 自身の怒声に紛れ込まれたオットーは反応が遅れ、鋭い牙を伴う顎が避けようのない位置まで迫っていた。


 狼のやや黄ばんだ大きな牙が、革靴に突き立てられるその寸前。

 オットーは逆に、右足を狼めがけ勢いよく突き出した。

 足首が犬歯をすり抜け奥歯の奥、歯茎に近い所まで突き込まれる。つま先が喉奥をえぐり通常と異なるずれた位置に物が挟まった狼の顎は、その鋭い犬歯と顎の力を活かせない。


 奥歯で靴を貫かれながらも、オットーは狼ごと強引に右足を振り上げた。

 四股を踏むかのような動作で大地を踏みしめ、地響きすら起きそうなほどの勢いで狼を地面へと叩きつける。

 狼が衝撃で一瞬身動きが取れない間に、右手の鉈剣を振り下ろし喉へ食い込ませた。

 赤黒い飛沫が下草を汚し、じきに狼は動きを止める。


 ピエールに向かって飛びかかった二頭の狼。

 前面から顔に向けて一頭が飛びかかり、もう一頭が後ろから足に食いついて相手を引き倒しにかかる。

 しかし、前面の狼が地を蹴った時。

 ピエールの頭は、既にそこにはなかった。飛びかかった狼の牙は虚しく空を掻く。


 一方の後ろから迫った狼の眼前には、姿勢を下げ身体を捻って後方へ斧を振るうピエールの姿が大写しになっていた。

 強い遠心力の乗った竜巻の如き回転で、薄緑の金属塊がとてつもない力で振るわれる。

 竜鱗石の手斧による翠緑の一閃は、直撃した狼の下顎を丸ごと吹き飛ばした。

 緑刃はそこで勢いを損なうことなく、返しの一撃で狼の上顎、その奥にある脳まで打ち砕いて通過する。

 斬撃と呼ぶには程遠い破壊の力で頭部を丸ごと失った狼は、向かうべき進行方向から反れピエールのすぐ脇で崩れ落ちた。

 即死であることは疑いようもないが、それでも死体は激しい痙攣を繰り返していた。


 最後の一頭。

 氷壁に向かった愚かな狼は、覗き窓に腹を見せる形で飛びかかっていた。

 わずかなヒビが入るが壁が砕けよう筈も無く、アロイスが抜いた小剣であっさりと腹部を貫かれ地に伏せる。


 一瞬の間を開け、冒険者たちが狼を撃退した直後。威圧感のある声色でハンスが素早く呪文を囁いた。

 囁きによって発された魔力の光が氷壁を潜って地を走り、アーサーが蹴飛ばした狼の足下へと疾走する。


 ばちちっ。

 狼の真下に滑り込んだ魔力の光は、乾いた破裂音と共に真っ白い閃光となって炸裂した。

 スパークした光は狼を焦がし、腹部を白く爛れさせて起き上がりかけていた狼は再び倒れる。


 一瞬の内に出来上がる、四つの狼の死体。

 未だに痙攣しているものもあれば、完全に事切れているものもある。

 四頭の仲間が死んだことで、茂みをかき分ける音は遠ざかっていく。

 後には鼻をつく鮮血の臭いと、損壊具合のまばらな四つの死体だけが残った。


「逃げたな……」


呟きながらアロイスが透明な氷壁越しに周囲を見渡し、ある一点で動きを止めた。

 ぎょっとした表情でそれを凝視する。


 そこにいたのは鮮血と、砕けた歯や肉の破片と、それ以外のおぞましい様々な物体を頭から浴びたピエールの姿。

 一言も発さず、表情すら変えずに死んだような目で呆然としている。


「ひっ」


メルヒがピエールの姿を見て、嫌悪で裏返った声で悲鳴を上げた。

 その途端集中力が途切れ、安定を欠いた氷壁がぱらぱらと割れて消滅した。

 次いで気づいたアーサーが、これ見よがしに盛大なため息をつく。


「これだから……ああもう本当これだから……」

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