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ある春の空

作者: 霧島 燈子

 私の名前はシン。幼い頃からsinと呼ばれてきた。sinは、英語では道徳・宗教上の罪という意味を持つ。


 私は何年ぶりかにこの地へ足を踏み入れた。何年も昔にこの街を出て、今まで一度ももどらなかった。老い先短い身である。死ぬならば生まれた場所で死にたいと思ったのだ。たとえそこが、いい思い出の無い地だとしても。

 学校への通学路は、昔とずいぶん変わっていた。昔は無かったビルや店が立ち並んでいる。静かだった並木道さえ今は消え失せたようだ。人々が忙しそうに行き交い、車が過ぎ去る大通り。昔は車が通ることの方が珍しかった。この大通りは我々がよく遊んだ場所でもある。

 通学路となっていた道を歩きながら、学校のあった場所へ向かう。私が通っていた学校は少々特殊で、夕方から授業が始まっていた。今は昼間のため今はすでに明るく、空の色に変わりはあるが、変わっているのは空以前に街そのものだったようだ。

 校舎はまだ残っていた。けれど、さすがにもう廃校になったのか人気は感じられない。老化が進んで、至るところにボロが出て来ている木造の小さな校舎だ。昔とあまり変わらぬ風貌を携えて、依然としてそこにある。

 軋む廊下に足を踏み入れ、私は自分が数年間学んだ教室へ向かう。いじめられっ子だった私は、いつも教室の扉を開くのが怖かった。上から何かが降って来るのをいつも恐れていた。もちろん廃校になった校舎にそんなことはありえないのだが、それでも扉を開く手には力が入った。暗闇がより一層の恐怖を駆り立てる。

 大きな軋みの音を立てて開く扉。あの頃の記憶は、思い出すだけで今でも苦しくなる。

『お前の名前、罪だろ、罪』

 シンという名前。そしてこの黒い色のせいで、言われ無きいじめを何度も受けてきた。罪人だと、クラスメイトは私を罵った。教科書は購入後数日で使えなくなった。

 昔使っていた机は、今もボロボロなままだった。度重なる刃物での落書きの傷跡は、今も確かに残っている。大きく『呪』と書かれたり『死』と書かれたり、あの頃はそれが日常茶飯事であった。我慢しかできなかった。私はこの名を何度も恨んだ。せめてシンで無ければ、私はいじめられることはなかったのだ。なぜ母がこのような、罪の意を私につけたのかは老い先短い身となってもわからない。母は、とうの昔に亡くなっている。

 気分が悪くなり、私は教室を出た。

 外へ出ると、日が傾き始めていた。この頃に学校は始まっていた。

私が次に歩いたのは、通学路とは違う道である。学校へ通ってた頃、帰りは通学路とは違う道を通って、寄り道をしていた。下校時に通っていた路地裏は今も変わらぬ風貌を佇ませていて、懐かしくなった。大通りのようにビルや店が立ち並ぶわけでもない。民家の裏手と裏手のこの道は、真夏であろうと日が差すことのない、年中日陰の場所だ。私はこの一本道をのんびりと歩きながら、いつも夜の街を楽しんでいた。黒に交えた私の姿を見つけられるものも少なかった。

『元気が無いな、大丈夫かい?』

 だがある雪の日、夜であるにもかかわらず一人だけ私を見つけ、且つ声をかけてくれた青年がいた。昔の記憶である。この、路地裏を出たあたりだ。もう生きることそのものにうんざりしていた頃、初めて大丈夫かと問われた。だが、私は何かを恐れて、逃げ去ってしまったのだ。今となっては何を恐れていたのか定かではないが、その頃間違いなく私は恐れていた。その青年、今も生きていれば私と同じ老いぼれとなっていることだろう。

 私は路地裏を抜け、帰り慣れた道を通りながら、公園へ辿り着いた。すでに日は沈んでいて、今も昔も変わらない、人のいない公園。私はいつもここにある一本の桜の木の下で眠っていた。当時、家に帰る気にはなれなかったのである。春になると満開になる桜が、公園の傍にある街灯に照らされているのを見ながら眠るのがなんとも言えず好きだった。

 中に踏み込んだ私は、桜の木の下にあるベンチに人がいるのを見て咄嗟に植え込みへ隠れる。ベンチの上の人物は、のんびりを体を起こして伸び一つ。そのとき、私ははっと目を覚ましたような気分になった。

 今も生きていれば私と同じ老い惚れとなっていることだろう。彼は、あのときの青年である。たとえどれだけ老いぼれていようとも、それだけは間違わない自信があった。

 男は身を起こして頭をかき、眠たそうにあくびをした。

 私は恐れることなく、寝起きの男に近付いた。男は私を見て驚いた顔をしたが、すぐに嬉しそうに笑ってくれた。どうやらあの一回しか会っていない私のことを覚えていてくれたらしい。

「お前、あのときの? なんだ、嫌われているんだと思ってた」

 違うんだと言いたかった。だが長年語ることをしなかったこの喉は、声の一つさえ出せなくなっていた。

 悔しくてうつむくと、男は自分の横を示すように叩く。どうやら隣りに来いということらしい。私は喜んで、彼の横に落ち着いた。

 あのとき大丈夫かと問われたのは、本当に嬉しかった。初めて心配をされたのだ。幼くして親を亡くした私は、その後親戚を盥回しにされながら学校生活を終えた。学校でこれでもかというほど罵られ、要らぬ存在だと何度も言われてきた。我慢も限界に達していたそんなとき、大丈夫かと声をかけられたのである。

『お前、元気が無いな。大丈夫かい? なんだか満身創痍って感じだ』

 怪我をしていたわけでもない私に、苦笑しながらそう言ってくれた。そのときは逃げ出したが、すぐ思い返して同じ場所へ戻った。だけどもういなかった。後悔したが、二度と会えないのだろうと諦めた。だがまさかこんな老いぼれ同士になって、再会するとは。

「お互い老いぼれになって再会とは、なかなかに粋なものだねぇ」

 空を見上げながら、男は言う。少し肌寒い気温に身震いしながらも、隣にある温かさについうとうとと眠りそうになった。

「大丈夫か? 寒そうだ」

 男はそう言って、私の背を撫でる。昔を思い出す。どうしてか、涙が出てきた。

「あれ? 泣いてる」

 不思議そうに、男が言う。その時鼻に、ひんやりとつめたいものを感じた。見上げると、灰色の空から真っ白な雪が不規則に舞い降りている。

 ぼんやりと私が空を見上げていると、男は私を抱き上げて膝に乗せた。驚いて、私は男の顔を見た。すると男は私の顔へ手を伸ばし、鼻に触れた。

「雪がついてる。冷たいだろ」

 言いながら鼻についた雪をはらってくれた。私は男の膝上で丸くなり、再び空を見た。空からは絶え間なく雪が舞い降りていた。まるで桜のようだ。春なのに雪が降るとは、なんとも不思議な話である。

「雪ってさ、冷たいよな。でも雪が溶けたら春が来るんだ。私は素敵だと思う。お前もそう思うだろう?」

 膝の上で丸くなっている私に、男はそう問うた。もちろん返すことは出来なかったが、何度も心の中で頷いた。見えたわけが無いのに、男は満足そうに深く頷いき、口を開けて空を向いた。舌を出して、まるで雪を食べてるみたいだ。

「お前もしてみろ。きっと、おもしろいぞ」

 老いぼれのくせにまだまだ元気だなぁ、なんて思いながら、私も空を見て口を開いた。舌についた雪は冷たくて、すぐに舌を引っ込めてしまう。人間はクックッと笑いながら、私を撫で続けた。私の黒い毛並みはボロボロで、手触りがいいとは思えない。だが男はずっとそうして撫でてくれていた。

「黒猫よ。お前は今、幸せか?」

 今までは幸せなんかじゃなかった。学校を卒業して一人立ちして、別の街へ行っても『黒猫は不吉の象徴だ』と嘲笑われた。そう罵られる人生を、もう十年以上過ごしてきた。

 私は今までの人生を素晴らしいものであったとか、価値あるものであったとは思えない。そんな私には、幸せが何であるかわからなかった。

 男は私を撫でながら空を見上げる。しばらくそうしながら、私のほうを再び向いた。

「私は幸せだ。お前と再び出会うことが出来て、幸せであると断言しよう」

 男が言う。私はどうやら、自分の存在で誰かを幸せにすることが出来たらしい。不吉の象徴でも、たとえずっとそう罵られていた私でも、彼を幸せにすることはできたのだ。

 私は再び目を閉じ、人間の体温を感じる。私の背を撫で続ける人間の手に居心地のよさを感じる。

「そして私に出会えたお前は幸せだ。お前、二度と自分を不幸だなんて思うんじゃないぞ」

 自信満々に言う声に、私は安堵を覚える。今まで何一つ信用せず一人で生きてきた。時には盗みも働いた。

 今までずっと、なぜ母が私を罪にしたのかわからなかった。けどそれも、ようやくわかった。私の名前は罪などではない。罪のシンではなかったのだ。

 上手く回らぬ頭は、桜の木が満開のように視界を混乱させた。雪が花びらのように降り注ぎ、木々に降り積もる。蕾が凍るのではないかと不安になっていると、男が呟いた。

「桜が、咲きそうだな」

とあるコンテストに出品予定です!

甘口〜辛口批評とっても待ってます!

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