第三話 比翼の鳥
雲海の中、白と音を引き裂いて飛翔する物体――――騎鳥とも呼べる剣のように鋭利で、鎧の重厚さを併せ持つ戦闘機だ。
分かりやすく一言にいえば、鳥の羽をもつ戦闘機。
その異形の戦闘機のコックピットに専用のパイロットスーツを身に着けたまま体を高分子素材で作られたクッションを装着した身体固定アームによって座席に押し付けられている守晃がいた。
「快適には程遠いな……!」
激しく振動する機体―――目の前の白一色の濁流は機体を激しく揺さぶり、快適とは正反対の乗り心地をサービスたっぷりに提供してくれる。
それに万感の感動を込めた言葉を吐き出しながら守晃は操縦桿を操作し、その不安定な機体をコンピュータの補助を受けて制御する。
機体後方の左右に伸びたまるで鳥の羽そのものかと見まごう翼の羽と羽の隙間からプラズマ化した水素ガスが噴射され、その反動を受けて機体は雲の濁流を突き進む。
羽の一つ一つが三次元推力変更パドルとして機能するその翼によって機体は乱気流による振動こそ激しいものの、機体に張り巡らされた光ファイバーという神経によってコンピュータに不安定な姿勢を制御され超音速巡航を可能としていた。
日本がF-3戦闘機で実用化させたフライ・バイ・オプイティカルシステムと人工衛星の軌道修正に使われる電磁推進システムのハイブリットだ。
如何に超音速巡航とはいえ、沖ノ鳥島からフィリピンを迂回し南シナ海の諸島の海域に到着するにはそれなりの時間が掛かる。
それに何処に敵対勢力の艦が隠れているかも分からない。
―――本来なら、近代の進化したレーダーシステムでは電波をかく乱させる公害物質を多量に含んだ雲の中であろうと察知は可能だ。
けれども、超電導コイルの特性の一つであるマイスナー効果を活用した外からの電磁波を無効とするステルスシステムを搭載しているため、あらゆるレーダーシステムに反応しないこの機体を発見するには目視しかない。
其れならば、雲に紛れて目的地に向かうのが安全だ。もっとも、このステルスシステムにも欠点はある。
――――ステルスをオンにしている間は電磁波の受信が出来ないため、通信やデータリンクシステムを活用できないのだ。物体に反射した電磁波を拾い敵を補足する自身のレーダーも当然の事使用できない。
しかし、単独行動である今回に於いてはデメリットよりメリットのほうが圧倒的に多い。
「それにしても気が滅入る。」
目の前のコックピットからの視界を埋め尽くす白の濁流に愚痴をこぼす。…………白い色は嫌いだ。
けれども同時に少しだけ好きだという気持ちもある。
三年前のあの少女はどうしているのだろう。不意にそんな事が脳裏に浮かぶ。
あの時まで白はただ嫌いだった。
白装束と骨ひろい、そして病室を連想させるから。
俺の視界には色はあってないようなものだった。そんな現実から逃げ出すように病室を抜け出し、空を眺めるのが入院生活の日課になっていた頃を思い出していた。
窓越しの空は味気ない、病棟のリクレーション施設でもある中庭のベンチに腰を落ち着け、木漏れ日が視界の隅で揺らぐ空を眺める。
それは未練だったかもしれない、憧景だったかもしれない。
もう手が届かないと知っていても、手を伸ばさずにはいられない。
其れだけを目標に生きてきた―――だが、ある日唐突に告げられた要人の心臓移植ドナーと成れという命令はFAパイロットとしての生命を失うという事だった。
未だ、何も果たしてはいない。それどころかスタート地点にすら立てなかったのだ。
口惜しさの苦汁ばかりが胸を占める。
この胸に収まる人工の心臓が忌まわしくて堪らない――――人間の高々数千年の技術は未だ生命の数十億年の恣意的研鑽を超えることはできないでいた。
「―――空が好きなんですか」
「――――」
不意に横から声を掛けられる。
ガラガラの老婆のような声だった。その声の主を視線を巡らせて視野に収める。
見た目、第二次性徴の真っ最中くらいの車いすに乗った少女が其処にいた。大手術後の病人特有のむくみのある顔だ―――パッと見、半魚人と人間の間みたいだ。
しかし、顔のパーツは悪くなく、健康を取り戻せば相当な美人となるのが分かる。
きっと、丸っこい可愛らしい女性となるだろう。
「どうだろうな……」
「自分で自分のことが分からないのですか?」
「なら、君は自分で自分の事をどれ程に分かっているんだ?」
「ん~~~……何にもわかりません♪」
朗らかに、あっけらかんと車いすの彼女は俺の横に車いすを付けると言い放った。枯れた声が鈴の音のように耳に心地よく聞こえたのは幻聴だろうか。
其処に何があったのか、どんな思いが込められていたのか。闘病の名残が刻まれた顔だったが生の気配に満ちたその顔は美しいと感じた。
「――――なるほど、悪くはないものだ。」
「?何がですか」
小首を傾げる彼女に一人、得心を噛みしめる。
俺の心にあったのは、誰かを見殺しにしなくて済んだという安堵だった。
自分の夢は潰えたが、誰かを守るという目的をたった一人であっても果たせたのなら意味はあったのだろう。
夢を果たせず、何も行えなかった自分だが――――夢の向こうに在った筈の【誰かの命を守る】という本懐を果たしていたのだ。
其れなら、こういうのも悪くない。
「ねぇ!だから何ですってば!?」
「……秘密だ。」
「むぅ……釈然としません!」
我らながら意地悪な笑みを浮かべていると思う、いい年こいて頬を膨らませる彼女に肩をすくめる。
これから何をしたいのかは未だ見つからないのだが、やれる事はあるはずだ。
自棄になるには少々、もったいない。
「ま、俺も頑張るから君も頑張れ――――じゃあな。」
「―――はい、がんばってください。」
身を翻す、背にかかる鈴の音のように心地よく鳴るように聞こえる声にあと押しされて新たな門出に足を踏み出したのだった。
『ピー!ピー!』
目標予測地点が近くなったことを告げる電子音が鳴り響く。それによって意識が現実に引き戻される。
紀伊はステルス性も考慮された防空母艦でありこの機体と同タイプのステルスシステムも搭載されている。確実な発見は難しいだろう。
目視で捜索するしかない。
左右のグリップを操作する、機体の機首が下方へと向きを変える。
肉体に襲い掛かる浮遊感―――――さほど間を置かずに機体は雲海の底を突き抜けた。
雲海の水分が圧力で氷結した氷の薄幕をまとった鋼鉄の騎鳥。
その氷が剥離し、砕けキラキラとダイヤモンドダストの煌めきのベールで機体を彩っている。
白い闇のトンネルを抜け、視界一面に広がる大海原まばらに点在する大小さまざまな諸島。
そのスケールたるや、圧倒される。自身の矮小さと世界の雄大さに魅せられる。
この広い世界を今や、自分は自由に飛べるのだ。
まるで自分の庭のように。
「空はいい……空はいいな。」
雲海を突き破った漆黒の騎鳥は音を裂き、一陣の風となり空を舞う。戦士の意思のまま片割れたる比翼の鳥を探して。