良薬心に甘し 前編
最初に気付いたのは、サーヌだった。
「ラパンちゃん、どうしたの?」
「え……?」
基本的に屋敷での食事は夕飯以外は各自、自由な時に取っている。以前は夕飯も別々だったらしいが、ラパンが来てからはパティが気合いを入れて作るようになったので、夕飯は何となく全員で食べるのが日課となりつつあった。
かといって夕飯以外は一緒に食べないのかというとそうでもなく、偶然誰かの食事中に居合わせることも同じ屋根の下に住んでいるので当然ある。
そして今朝はラパンの朝食中にサーヌが出くわして、折角だからと一緒にテーブルを囲んでいたのだが、ふと感じた違和感にサーヌは丸パンを千切る手を止めた。
「いや、さっきからあんまり食べてないような気がしたから」
「……あ」
サーヌに言われて初めて気付いた、というような顔をしたラパンは、木苺のジャムがたっぷり掛かったパンケーキを見下ろした。二枚重ねのそれは大分冷めてしまっているのに一枚の半分も食べられていない。
ラパンの朝食は前日の夜にパティが「ラパンちゃんは育ち盛りなんだからちゃんと食べなきゃ駄目だぞ!」といつも用意してくれている。
何か魔法をかけているのか、時間が経っても味に支障が無いそれをラパンは毎朝しっかり食べているのをサーヌも知っていた。だからこそ、今みたいに殆ど手を付けていないラパンが気にかかった。
しかし、ラパンは自分を心配そうに見つめるサーヌにふるふると首を振り、柔らかなパンケーキにナイフを差し入れた。
「大丈夫、です……」
「本当? 多かったら残したってパティは怒ったりしないよ?」
「いえ、本当にだいじょ……あっ」
からんと音を立てて、ラパンの肘に押されたフォークが床に落ちた。
恐らくはパティかケルトーが片付け忘れたのであろうそれを拾おうと、ラパンは一旦ナイフを置いて、足下に転がっているフォークへと椅子に腰掛けたまま手を伸ばす。
その時だった。
「……あ」
くるり。世界が一回転するように歪んだ。
意識だけが後ろに引っ張られて、体は前に倒れていく感覚。
「ラパンちゃん!?」
遠のく意識の中でサーヌの叫び声を聞きながら、ラパンの目は閉じていった。
***
ひんやりとした感覚がラパンの額を覆う。
それによって眠っていた意識がゆっくりと目覚めて、ラパンは長い睫毛をふるりと震わせた。
「あ! ラパンちゃん、大丈夫か!?」
ぼやけた視界に真っ先に映ったのはパティだった。眉は情けない八の字に垂れ下がり、大きな瞳は涙でたっぷりと潤んでいる。
「……ぱてぃ、さん」
彼女の名前を呼んだラパンは、その声が酷く掠れて情けない事になっている事に気付く。
それでも起きあがろうとするラパンを見たパティは「うわあ!」と慌て、しかし極力優しい力で肩を押さえつけてラパンの体を再びベッドへと戻した。
「起きたら駄目だって! 熱あるんだぞ!?」
「え……?」
「今、サーヌが薬草採ってきてくれる。そしたら薬作るからな?」
「……ねつ、です、か」
それを聞いてラパンはきょとんとした。
言われてみれば確かに体は熱いし、頭の中も何だかぼんやりとしている。体の節々も怠くて動くのが億劫だと思う。どれも典型的な風邪の症状だ。
気付かなかった自分の鈍さに少々愕然としているラパンの額に、パティはさっき起き上がろうとした拍子にずれてしまった濡れタオルを乗せ直してやる。
と、部屋のドアが開いて、手に何種類かの薬草を持ったサーヌが入ってきた。
「お待たせ。……あ、ラパンちゃん、起きたんだね? 良かった」
「おお! ありがとう、サーヌ。薬作ってくるからラパンちゃんを頼んだぞ」
「分かった。後は任せて」
薬草を受け取ったパティはすぐさま部屋を飛び出していった。
サーヌはその必死な背中を微笑んで見送り、今までパティが座っていたベッド脇の椅子に腰を下ろす。ラパンの顔を覗き込むその表情はいつもよりも優しげだった。
「大丈夫?」
「あの、ごめんなさい……」
「え、何が?」
「ごめいわく、かけて……」
「…………」
布団を口元まで引き上げて弱々しい声でそう謝るラパンに、サーヌは微笑んでいた顔を一瞬だけ驚いたものに変える。
しかし、そっと首を振った時には元の笑顔に戻っていて、大きな枕に埋もれているラパンの頭を慈しむようによしよしと撫でた。
「驚いたけど、迷惑だなんて思ってないよ」
「……でも」
「僕もパティもラパンちゃんが心配なだけ。ね?」
「……ありがとう、ございます」
「うん、だから気にせずゆっくり休んでね。ほら、薬が出来るまで寝てていいよ。こういう時は寝てるのが一番だからさ」
「はい……」
熱に潤んだ赤い瞳が時折眠そうに細められる事に気付いていたサーヌは、子守歌を聴かせるかのような穏やかな声色でラパンを眠りに誘う。
(あれ……? 何だろう……急に、眠気が、強く……)
自分を優しく見つめるサーヌの青い瞳が淡く光っている事に、熱と眠気にゆっくりと飲み込まれていくラパンは気付かない。
そうして徐々に強まる心地よさに抵抗する理由など無いラパンは、そのままあっさりと眠りに落ちていった。
「お前が催眠術使ったの、久々に見たぜ」
「あはは、僕も久しぶりに使ったよ。でも寝ている間は辛くないしね」
部屋の出入り口で、いつの間にかいたケルトーが開いたドアに寄りかかって立っていた。
しかし、サーヌはそれを特に驚きもせず、ラパンの額に乗っている濡れタオルの位置を直してやりながら笑顔を向ける。
「……で? 具合は?」
「多分疲れじゃないかな。此処に来て、色々と変わっただろうから」
「ふーん、見た目通りの軟弱さなんだな……」
頬を火照らせながら眠るラパンの寝顔をケルトーは覗き込む。その表情は心配と言うよりも物珍しそうで、それを見たサーヌは笑顔に若干の苦味を混ぜた。
「ラパンちゃんは僕らと違って人の子だよ? それにまだ小さい」
「まあな、……やっぱりこのまま死んだりもするのか」
「そこまで重症じゃないさ。きちんと薬を飲んで安静にしていれば大丈夫だよ」
「……そうか」
ラパンから目を離す事もせずにケルトーは頷く。そうして暫く黙ってラパンを見つめていたが、ふとその視線をサーヌの方に向けた。
常に率直な物言いをするケルトーの珍しく何か言いたげな様子に気付いたサーヌは、一体何だろうかと軽く首を傾げて次の言葉を待つ。
「……なあ、サーヌ」
「何だい?」
「こういう時って、何してやりゃいいんだ?」
***
あつい、くるしい。
自分の肺から出て行く呼吸の熱すら鬱陶しい。
(ああ、やだ、な……)
朧気な意識の中でも感じてしまうのは、隙間風のような不安。漠然と自分を包む寂しさを誤魔化したくて、ぎゅうと身を縮み込ませる。
(おかあさん、おとうさん)
もう会えない姿が瞼の裏に映って、鼻の奥がつんとした。
風邪を引いた時に付きっきりで傍にいてくれた母も、大丈夫だと撫でてくれた父も、もう何処にもいない。そう思った途端、真っ暗な世界に幾つかの冷たい声が反響する。
《全く、風邪なんか引きやがって》
《持ち主が死んだら魔力の髪も無くなってしまう》
《早いところ持ち直してもらわなきゃ困るぞ》
《森から出して保護している間に、他国にバレたりでもしたら大変だ》
《さっさと治って森に帰れよ》
誰も私を心配なんてしない。心配なのは私の髪だけ。分かっている、分かっているのに。
弱った心を抉る声が苦しくて辛くて、ラパンは堪らず両耳を塞ぐ。それでも声は鼓膜よりもずっと奥の方で響き続ける。どろりとした真っ黒で重たい何かが喉に詰まって、胸の底へどんどん溜まっていく。
(いや、いや、やめてやめて、やめて……っ)
ああ、飲み込まれてしまう。
ぐるぐると渦巻く得体の知れない感情に、このままじゃ。
「おい、生きてるか」
ぱちんと、真っ暗な世界が弾けた。
たった一言が重たい胸をあっさりと切り裂いて、溜まっていた物がほろほろと淡く零れ落ちていく。
「けるとー、さん……?」
「大丈夫かよ、お前。何か死にそうな兎みてえに震えてたぞ」
ベッドの脇に引き寄せた椅子に腰掛けて、いつもと変わらない調子でそう話すケルトーを、ラパンは夢幻でも見ているかのような表情で見つめながら、自分が今まで悪夢に魘されていた事を理解する。
しかし、ケルトーが何故自分の傍にいるのかが分からない上に、悪夢に驚かされた心臓がドキドキと大きく動いているので上手く言葉が出てこない。
そんなラパンの様子を見たケルトーは、体調が悪化したのかと勘違いをして眉を寄せた。
(サーヌの奴、寝てたら治るっつってたよな?)
けれど、今のラパンの様子は明らかにおかしい。大抵の怪我は直ぐに治り、風邪というものを引いたことが無いケルトーはサーヌの言葉を鵜呑みにするしかなかったので、聞いたことと食い違っている今の状況に内心で首を傾げる。
(もしかして他に何かあんのか?)
(ケ、ケルトーさん、怒ってるのかな……。でもそしたら、何で傍に……?)
ケルトーの考えている事が分からず困惑しているラパンを余所に、ケルトーはとりあえず何か無いかと辺りを見回してみる。
と、近くのテーブルに何かが置いてある事に気付いた。
それは小さな桶だった。中を覗き込めば氷が入った水がたっぷりと張ってある。
(あ、そういや……)
ふと思い出して、ラパンの額に乗るタオルに目を向ける。そして、水分を大分失っていたそのタオルをひょいと取り上げると桶の中へ浸けた。
そうすればラパンの熱を吸っていたタオルは見る見るうちに冷たさを取り戻した。ケルトーはその濡れたタオルを再びラパンの額へ乗せようとしたが、ふと気付いて手を止める。
(このままじゃ流石に濡れすぎか)
ただでさえラパンの狭い額には少し大きいくらいのタオルだ。このまま乗せたら顔面が水浸しになるだろう。それが良いか悪いかなんてことは流石に判断出来たケルトーは桶の上でタオルをぎゅっと目一杯絞る。
そう、狼男特有の怪力など気にせずにぎゅっと絞った。
「あ? 何か……まあ、いいか。ほらよ」
「わっ……」
その結果程良くを通り越して、濡れたというよりも湿った程度になってしまったタオルを、ケルトーは首を傾げながらも数回折り畳んでラパンの額に乗せてやる。
(あ、う、うあ……)
一部始終を熱に浮かされながらも見守っていたラパンは、そこで漸くケルトーが自分を看病してくれていることに気付く。
戸惑いと驚きと、それ以上の嬉しさで自分の中がいっぱいになるのを感じて、目と胸の奥がじんと熱くなるのが分かった。
(どう、しよう……)
両親がいなくなってからは風邪を引いても一人で耐えるしかなかった。「治療」はされても「看病」はされなかった。
それはまだ幼いラパンには辛くて不安だったけれど、それはどうしようも無い事なんだと諦めていた。
だから、今こうして誰かが傍にいてくれることが、嬉しくて堪らない。
「……あ? おい、どうした?」
「……え?」
ケルトーが怪訝そうな顔をしているのを見て、ラパンは目を瞬かせる。
と、そこで初めて自分の双眸から涙がぽろぽろと流れていた事を知った。
「え、あれ、なんで」
「…………」
「ごめんなさ、え……? なんで、わたし……」
訳も分からずに溢れてくる涙が熱に染まるラパンの頬を濡らしていく。
制御が利かない自分自身にラパンが泣きながらおろおろと戸惑っていると、その様子をじっと見ていたケルトーが静かに手を伸ばした。そして、大きな掌がラパンの視界をふわりと覆い隠す。
「風邪とかよく分かんねえけど……まあ、此処には俺がいるから心配いらねえだろ。だから、お前は安心して寝てろ」
それは綿毛のように柔らかくもあり、しかし、揺るぎない頼もしさも感じられる声だった。
その声を聞いたラパンは自分の中で波立っていた気持ちがすうっと落ち着いていくのを感じた。
「……けるとー、さん」
「おう」
「ありがとう、ございます……」
「おう。ま、好きなだけ寝てろ」
涙声ではあるものの、落ち着いた様子のラパンが素直に眠りに落ちていくのを見て、ケルトーはほんの少しだけ頬を緩ませる。
そうして少しして呼吸が寝息に変わったのを見届けてから、そっとラパンの目元から手を離した。
手の下から現れたあどけない寝顔は安心感に浸っていて、その無防備さにケルトーは苦笑する。
「……本当、おかしな奴だな」
狼男の自分を恐れずに近付いてきて、こうして弱っている時に傍にいても怯えるどころか安心してみせる。今までに無いおかしな存在。
けれど、何が一番おかしいかと言えば、そんな少女を思ったよりも気に入り始めている自分がいる事だった。
「ま、早く良くなれよ。……ラパン」
元気になったら、次はどんな興味深い事をしてくれるのか。
そんな事を思うケルトーは無意識に目を細めながら、すやすやと安らかに眠るラパンの柔らかな頬をそっと指先でつついたのだった。
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