守るべきもの
全てを塗り潰すような真っ白な濃霧の中、それに逆らう禍々しい漆黒が道を歩いていく。
その足取りは余裕に満ちていて、明らかに追っ手の心配などしていなかった。
そんな足取りで先を行く背中をラパンが釣り籠の中から睨んでいると、その視線を感じ取ったのか、デゼスは歩く足を止めないまま振り向いた。
「何だい? あの魔物達から助けてあげたのに」
「誰も頼んでません。私を彼処に返して下さい」
「それは出来ないなあ。そもそも君にそんな権利無いよ? 君はこれから俺の為に魔力を供給し続けてもらうんだからね」
「……え?」
上機嫌な笑みと共に返された言葉を聞いたラパンは疑問を抱き、生まれた違和感にぱちくりと目を瞬かせる。
自分は国に捕らえられていて、この魔術師も国の命令で自分を捕まえに来たと言っていた。
しかし今、確かにこの魔術師は「俺の為に」と言ったではないか。
どういう事だと考えて怪訝そうに自分を見るラパンに、デゼスは足を止めて体ごと振り返り、そして芝居掛かった態度で両手を左右に広げた。
「俺はプレジール国で一番の魔術師なんて言われているけどねえ、そんな名声じゃ物足りない! 俺はもっともっと上に行ける筈なんだ! その為には膨大な魔力が必要なんだよ!」
「……っ、貴方、自分の為に!?」
「ああそうさ! 膨大な魔力の源であるお前を俺が真っ先に手に入れてしまえば、きっと国王だって俺に従わざるを得ないだろう?」
そう高らかに言ったデゼスは、まるで世界を支配したかのような笑い声を濃霧の世界に響かせる。
傲慢で自分勝手なその考えを聞いていたラパンの表情は、嫌悪感によって険しいものへと変わっていた。
しかし、デゼスはそれを気にする様子も見せず、気が済んだのか笑うのを止めて再び歩き始めた。それに引き寄せられるように釣り籠も動き出す。
(どうしよう……)
このまま、自分がデゼスの手に落ちれば一国どころか、下手をすれば世界中がこの悪しき魔術師の欲望の渦に巻き込まれかねない。
予想外の事態にラパンは怯えながらも、両手を胸元でぎゅっと握り締め、目を閉じるとその手に唇を寄せた。
「ケルトーさん……」
《絶対に迎えに行くから待ってろ、ラパン》
揺るぎない力強さを秘めた声と眼差しを思い出せば、恐怖に震えていたラパンの心は、ゆっくりと落ち着きを取り戻していく。
そうして目を開けば、いつの間にか辺りの濃霧は晴れていて、代わりに暗く冷たい森が二人を囲んでいた。
「ふう……漸く霧を抜けたか……」
そう言いながらも、デゼスに大した疲労の色は見えなかった。
そして、やれやれといった様子で周囲をぐるりと見渡し、口元に笑みを浮かべて言った。
「随分と大勢でお出迎えだね。待たせてしまって申し訳なかったかな?」
「え……?」
一瞬、デゼスが言った言葉の意味が分からずにラパンはきょとんとする。が、それは周囲の茂みから現れた姿によって直ぐに驚愕の表情へと変えられた。
「……!?」
茂みの奥から一斉に現れてラパン達を取り囲んだのは、身の丈ほどの槍を持って、金の甲冑に身を包んだ兵士達だった。胸元に刻まれた国章が彼らをプレジールの者だと語っている。
デゼス一人を迎えるには多すぎる数の兵士達にラパンが戸惑っていると、一際立派な装飾が施された金甲冑を着た兵士が二人の前に出てきた。
「魔術師デゼス。国王の命により、貴方には此処で大人しく拘束されて貰おうか」
「ふーん……一応、理由を聞かせてもらってもいいかな?」
「貴様は反乱を起こす可能性が高いと、国王が判断されたからだ」
淡々と言われた非情なその言葉にも、デゼスは口元に浮かべた笑みを崩さない。寧ろ予想していたと言いたげに目を細めて、わざとらしく肩を竦めてみせた。
「あーあ、やっぱりか。利用してたのはお互い様ってわけだ。……でも残念でした。そっちには一つ大きな大きな、大きすぎる誤算があるんだよねえ」
「……何だと?」
挑発するかのような口振りで語るデゼスを警戒し、兵士長は片手を軽く振って部下の兵士達に合図を送る。
それを受けた兵士達は、一斉に槍先をデゼスに向けた。
しかし、デゼスは全く動じなかった。
それどころか笑みを深め、深めて、これでもかと恐ろしく歪んだ笑顔を湛えながらバッと両手を大きく広げた。
「この俺を! 最強の魔術師となるこの俺を見くびって、利用しようとした事だよ!!」
デゼスが大声でそう叫んだ途端、周囲には大量の魔法陣が召還された。
それらは宙に現れると強く怪しい光を放ち、灼熱の炎を兵士達に向かって勢い良く吐き出した。
「う、うわあああっ!?」
「熱い! やめてくれっ! やめ……っ!」
そうして数秒で生まれた光景は、正に地獄だった。
魔術の力なのか周囲の木々に燃え広がる事は無く、しかし燃え盛る邪悪な火炎の中で兵士達は苦痛にのたうち回り、泣き叫び、その身を焦がして次々と息絶えていく。
「あ、ああ……っ!?」
現実とは思えない程に残酷な光景を目の前にしたラパンは堪らずに涙を浮かべ、あまりの恐ろしさに目も逸らせないまま震える手で口元を覆った。
「俺の邪魔をするな! 俺はこの魔力の源を独占して、誰よりも優れた魔術師になるんだからなあ! あはははっ!!」
デゼスは炎の中から足下に転がってきた、焦げて真っ黒になった何かを、邪魔だと言わんばかりに思いっきり蹴り飛ばして、高らかな笑い声を上げる。
狂気としか言い表せない姿を見せるデゼスに、底知れぬ恐怖を感じたラパンは全身をぶるぶると震わせ、嫌々と首を振りながら釣り籠の中で後退っていく。
「貴方は……貴方は、人間じゃない……!」
その言葉を聞いたデゼスは、ふっと笑うのを止めた。
そして、糸が切れた操り人形のような不気味な動きでぐるりとラパンの方を見ると、その濁りきった瞳を細めて、
「ふは、あは、あははははっ!!」
より一層、狂っている笑い声を上げた。
それから早足でラパンの目前まで迫り、釣り籠の隙間から片手を伸ばすと、その煌めく銀髪をぐいっと力任せに自分の方へと引っ張った。
「きゃあっ!?」
「俺が人間じゃない? 馬鹿言うな! 化け物ってのはなあ! お前や、あのケルトーとかって言う奴のことを言うんだよ!!」
「ーー……っ!」
間近で吐き捨てられた罵倒にラパンは言葉を失いかける。
それでも、怯える心を必死に奮い立たせて言い返そうと口を開きかけた時、
「じゃあ手前は化け物じゃなくて、ただの外道だな」
氷柱のような声が、炎に照らされる闇を裂いた。
「……え?」
不意にぐらりと重心が傾く。
自分の体が体勢を崩した事に気付いたデゼスは、前のめりになる体を支えようと咄嗟に足を踏ん張らせて、何が起きたのかと目を瞬かせる。
(あれ、何で、だ?)
足下で、どさっと何かが落ちる音がした。
視線を其方に向ければ、其処には今の今まで自分の体に繋がっていて銀髪を掴んでいた筈のーー、
「ひいっ、う、うわあああっっ!?」
地面に落ちた物の正体を認識した途端、手首があった部分から、焼けるような激痛が一気にデゼスを襲いかかった。
そのあまりの痛みと混乱に、デゼスは喉が引きつる程の悲鳴を上げて、残っている方の手で傷口を押さえる。
「汚ねえ手で其奴に触ってんじゃねえよ。其奴は俺が拾ったんだからな」
いつの間にか傍らに立ち、手に付いた血を振り飛ばしながら平然とそう言ったケルトーに対し、混乱の最中にいるデゼスは恐怖と驚愕に見開いた目を向ける。
「お、お前、どうして……っ!?」
目の前にいる相手は、自分が屋敷を出る前に魔術で生成した鋼鉄の鎖で、その四肢を確かに封じてきた筈だった。
それなのに今、どうしてこの場に立っているのか。
続けざまに訪れた予想外の展開に、デゼスは上手く言葉を紡げず口を開閉させる。
それを見たケルトーは口元をにやりと歪ませた。
「あんなのは俺が少し気合い入れりゃ壊せるっての」
「う、嘘だろ……!?」
デゼスは信じられない、というよりも、信じたくないという気持ちで悲鳴に似た声を上げる。
あの魔法の鎖が力自慢のサイクロプスや、強力な魔力を持つハーピーを封じ込めた事があるほどの強度を持つ事は、生み出した本人であるデゼスが一番分かっている。
それを純粋な力だけで破壊するなんて、デゼスには有り得ない事だった。
しかし今、現に目の前に、鎖を破壊して此処に立つ姿がある。
「あ……ああ……っ!!」
それを理解した途端、デゼスは痛みも忘れて畏怖に飲み込まれた。
そして、咄嗟に片手を突き出して魔力を込め、詠唱も思いつくまま適当に、何匹もの使い魔を呼び出してはケルトーへの攻撃を命じる。
「あ? ……邪魔だ、退け」
しかし、ケルトーはまるで石鹸玉でも割るかのような身軽さで、自分に襲いかかってくる使い魔たちに爪を振り下ろしては次々と消していく。
そうして、ものの十数秒で使い魔たちを全て消し去られてしまい、為す術を失ったデゼスは正気を失いかけているその瞳に涙を浮かべた。
「あ、うわああ……っ!」
そう呻くや否や腰が抜けたらしいデゼスは、へたりと地面に尻を付け、みっともなく後退りながら悲鳴じみた情けない声を上げる。
その姿をケルトーは深い灰色の瞳で一瞬も逸らす事無く見下ろし続け、ゆっくりと追い詰めるように歩いては互いの距離を縮めていく。
やがて、デゼスの背中は木の幹にどんとぶつかり、逃げ場を失ったと悟ったデゼスは絶望に満ちた表情を浮かべ、自分に近付いてくるケルトーを見上げた。
「そ、そうだ! お前にもあの魔力の源を分けてやる! だから命だけは……!」
「だから、魔力だとかは要らねえって言ってんだろ」
この期に及んでも見当違いな事を言って浅ましく足掻くデゼスを、ケルトーは心底下らなさそうに鼻で笑ってやる。
それを見たデゼスは、自分を待っている未来が一つだけだということを察し、その顔から血の気を失わせると、牙を覗かせながら静かに迫り来る狼に向かって叫んだ。
「ば、化け物……っ!!」
その言葉に、ケルトーは直ぐに言葉を返す。
「この俺を化け物なんて、安い呼び方すんじゃねえよ」
そうして、デゼスの前に辿り着いてゆっくりと腰を屈めれば、恐怖と絶望に濡れた瞳と視線が合った。
しかし、ケルトーはそれを哀れに思うことも馬鹿にすることも無く、刃の如く鋭い灰色の眼光で真っ直ぐに貫いた。
(そうだ、俺は化け物なんて可愛いモンじゃねえ)
恐怖と否定に満ちた視線、声、感情。
そういったものだけを与えられて生き続けるのだと思っていた自分の世界に、あの純粋な少女はまっさらで儚くて、だけど何よりも大切で暖かいと感じられるものを惜しみなく与えてくれた。
そんな少女を自分が、自分の力で守りたいと思うようになっていたのは、今となっては何時からだったかなんて分からない。
《ケルトーさん》
けれど、そんなことは構わない。
あの少女の笑顔を守れる力を、自分は持っているのだから。
「いいか、よく覚えておけよ。俺はーー」
畏怖と破壊の象徴でしかない、望まなかった名声。
しかし、守るものを得て、守る事を知れた今ならば、誇りにすら思えた。
「ーー《狼王》のケルトーだ」
何者にも抗う気すら起こさせない、静かな咆哮。
そして、狼王の牙は赤く染まった。
禍々しい漆黒の檻が、音も無く消えていく。
自分を閉じ込める物から解放された少女は、そっと地面に降り立つと、茂みの向こう側へ迷う事なくゆっくりと歩き出す。
先程まで様々な感情が乱れていた少女の胸の内は、今はこの森を吹き抜ける夜風のように静かで、とても落ち着いていた。
その理由は、少女自身も分かっている。
だから少女は真っ直ぐに前を向き、自分の気持ちに素直に従って、一切の迷いも躊躇いも持たずに歩いていく。
「……!」
其処には、一人の男が立っていた。
茂みの向こう側に見えたその姿に少女は軽く目を見開き、そして、直ぐに細める。
暖かな何かで心がいっぱいに膨らみ、それに押されて今すぐにでも駆け出して抱きつきたいくらいだったが、少女は頬を綻ばせたまま静かに近付いていく。
もう、急ぐ必要も焦る理由も無い。少女はそれを確信していたから、泣きも慌てもしなかった。
そうして少女は、男の下にたどり着いた。
男は屈めていた腰を伸ばし、赤色に濡れた口元を手の甲で拭う。
しかし、その手も同じ色に濡れてしまっている事に気付いた男は拭うのを止めると、最初から決めていたかのように静かに自分の後ろを振り返った。
其処には、一人の少女が立っていた。
その少女は、泡沫のような儚い雰囲気を漂わせて、今にも闇夜に溶けてしまいそうだった。
少女の銀色の髪は夜風に靡き、しんしんと淡く降り注ぐ月明かりを織り込んで、それは美しく煌めいている。
そんな少女に、男は問いかける。
「……お前は、俺が怖くないのか」
答えなんて分かり切っていた。だけど聞かずにはいられなかった。
そんな男の思いを見透かしたように、少女は優しく微笑んだ。
「怖くありません」
案の定、何も迷うこと無く返ってきたその答えに、男も笑う。
赤く染まった牙を隠す事もせず、嬉しそうに笑った。
「そうか」
そして、男は自分の服で手を拭いて、その手を少女に向かって差し出す。
其処にはまだ少し赤色が残っていたが、少女は微笑んだまま何の躊躇いも無く受け取って、何があっても離さないというくらいにしっかりと握った。
その思いを感じ取ったように目を細めた男が、繋いだ手の指をそっと絡めてみれば、少女も擽ったそうに笑いながら細い指を絡め合わせていく。
「一緒に帰るぞ、ラパン」
「はい、ケルトーさん」
そうして、二人は森の奥へと歩き出す。
繋いだ互いの手から、互いの温もりを伝え合いながら。
それは、月が綺麗な夜の事だった。
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