当たり前の日常
夕焼け色の中、裏庭の木の下に座ったラパンは自分の手を見つめていた。
今日は昼からエトと遊んでいたのだが、ついさっき遊び疲れて寝てしまったエトを自室に寝かせてきて、夕食の時間までこうして夕風に吹かれながら休んでいた。
(……嬉しいな)
プレジールから屋敷へと帰る日の朝に、初めてケルトーと手を繋いだ事を思い出した。
あれ以来、二人は何回か手を繋ぎ、今ではお互いの手の温もりを感じる事が当たり前になった。
長い間冷たい森の中で、ずっと一人でいた自分。
そんな自分が誰かの温もりをまたこうして感じ、笑顔を浮かべる日が来るなんて夢のようで、今こうしている事も夢なのではないかと思うくらいに暖かな日々。
満たされて、満たされて、だからーー、
(ーー時々、怖くなる)
当たり前になってしまった、この幸せな日常。
これが何かの拍子に壊れた時、今の自分は果たして耐えられるのだろうか。全てを諦めて森にいた時とは違う、希望や救いを知ってしまった今の自分はどうするのだろうか。
そこまで考えて、ラパンはふるふると首を振る。
(やめよう、こんな事を考えるのは。悪い事なんて考えたって落ち込んじゃうだけだもんね)
そう思ったラパンは、自分の中で重く渦巻いていた気持ちを晴らすように、目一杯開いた掌を太陽に向けて翳してみた。
夕陽に照らされた手の輪郭に沿って、夕陽よりも赤い血潮が流れているのが見える。
「何してんだ?」
「あ、ケルトーさん」
暫くそれを眺めていると芝生を踏む音がして、ケルトーが声を掛けてきた。
ラパンは手を翳したまま其方を向き、ごく自然に隣に腰掛けてきたケルトーにその手を寄せてみせる。
「こうして見ると、血が流れているのが見えるんですよ」
「は? ……へえ、本当だ」
怪訝そうに眉を寄せたケルトーだったが、ラパンと同じように自分の片手を夕陽に翳して見てみると、感心したように声を上げた。
大きな手と小さな手が、夕陽の光を受ける。
それを二人並んで眺めていると、不意にラパンがくすっと小さく笑ったので、ケルトーは掌から視線を其方に向けて首を傾げた。
「何がおかしいんだよ?」
「あ、ごめんなさい……。何か、不思議だなって」
「……?」
「だってほら、見て下さい」
あからさまに頭上に疑問符を浮かべるケルトーに、ラパンはくすくすと笑いながら、空に翳している掌の方を見るようにと促す。
ケルトーがそれに素直に従って視線を向ければ、ラパンは自分の体ごとケルトーの方に近付けて、お互いの掌を出来るだけ寄せ合って言った。
「私とケルトーさんの手、こんなに大きさも指の長さも、色も形も違うのに、同じように血が流れてるんだなって」
そう言ったラパンの声色は、何処か嬉しそうだった。
その隣でケルトーは僅かに見開いた目でその横顔を見て、そして直ぐにふっと掌へ視線を戻すと、
「……同じ、か」
「え?」
「何でもねえよ。つーかお前の手、小さすぎねえか?」
呟かれた言葉が聞き取れずに小首を傾げたラパンに、ケルトーは軽く首を振って受け流し、夕焼け空へと並んで翳し合っていたラパンの手を取った。
「ーー……っ」
不意打ちで手を取られて、驚いたラパンは小さく息を飲む。
しかし、それに気付かないケルトーは自分の方に掴んだ小さな手を引き寄せ、子供のような表情でその掌を裏返したりしながら楽しそうに眺めている。
その横顔を見ていたいとラパンは思ったが、とくとくと少し早くなった心臓の鼓動がそれをさせてくれない。
(……ああ、もう、何なのかな)
今みたいにケルトーと過ごしている時に、ふと妙な感覚がする時があった。
それはほんの少し息苦しくて、でもそれすらも嬉しくて暖かくて、胸の奥のもっと深い部分を擽られているような、どうにも表し難い不思議な感覚。
それを感じる度にラパンは困ったような嬉しいような、今までにない複雑な気持ちになる。
どう言えば良いかすら分からないので他人には聞けず、書庫にある医学や人体の本で調べてみても分からなかった。
(……でも、いいや)
まだ落ち着かない心臓を胸に秘めつつ、横目でそっと隣を見る。
何の変哲もない自分の手を包む、自分よりも大きな手から伝わってくる温もりをこうして当たり前のように感じ続けていられるなら、今のラパンにはこの不明瞭な感覚も怖くは無かった。
「おーい、二人ともー! 夕食の時間だぞー!」
夜が近付いて少し物悲しくなった夕焼け色の世界に、屋敷の窓から顔を覗かせたパティの明るい声が響いた。
「おう、分かった」
それを聞いたケルトーは軽い返事をして、取っていたラパンの手を握ったまま腰を上げる。
それに引っ張られてラパンも自然と立ち上がった。
「今日の飯、何だろうな」
「何でしょうかね? エトとおやつを貰いに行った時、お魚をお野菜をいっぱい煮込んでましたけど……」
「ふーん……でもまあ、何か色々出してくんだろうな」
「ふふ、そうですね」
夕闇の中、二人は長い影を地面に落としながら歩いていく。
長さの違う二つの人影の間には、一つになった手の影がゆらゆらと仲睦まじげに揺れていた。
***
「ーーそれで、やっとクレさんが貸してくれた本を読み終わったんです」
「あはは、お疲れ様。でもこの間図鑑を借りに行った時、クレがラパンちゃんを褒めていたよ? 『ラパンは物覚えが良いから教え甲斐がある』ってさ」
「流石はラパンちゃんだな! ケルトーも少しは勉強した方が良いんじゃないのか?」
「俺は普通に読み書き出来りゃいいんだよ。本なんか読んでたって目が疲れるだけだろうが」
いつものように、四人で食べるには少し豪勢な夕食を終えた後、四人はそのまま食堂に残って他愛のない会話を交わしていた。
テーブルの上に大量にあった料理の食器たちは既に片付けられ、代わりにパティが煎れた紅茶と何種類かの焼き菓子が置かれている。
ラパンはその焼き菓子の中から迷わずガレットを選び、はむっと大きく一口頬張った。
今日のガレットは細かく砕かれたアーモンドと甘いチョコレートが生地に混ぜ込まれていて、頬張る度に香ばしさとほろ苦い甘さがラパンの舌を喜ばせる。
(んー……本っ当に美味しいなあ……)
パティの作った料理も菓子も、この屋敷に来てから随分と色々な種類の物を食べてきたが、その中でもラパンはやっぱりガレットが一番好きだった。
(ガレットも作れるようになりたいな。木苺を入れて甘さを控えめにしたら、ケルトーさんも食べてくれるかもしれないし)
ケルトーが以前、木苺が好きだと言っていた事を思い出しながらガレットをもぐもぐと頬張るラパン。
と、そこで向かい側に座るケルトーが何やら楽しそうな笑みを浮かべて自分を見ている事に気付き、思わず小首を傾げた。
「あの、ケルトーさん……?」
「ん?」
「私の顔に何か付いてますか?」
「ああ、いや? ただお前、相変わらず面白い顔するよなって思ってた」
「えっ!?」
いつの間にか自分はそんな顔をしていたのかと、ラパンは慌てて片手で自分の頬をぺたぺたと触る。
「ケルトー!」
「だってガレット食い始めたら、一気に顔が緩んで面白いじゃねえか」
「いや、それは可愛い、って言うんだよ……」
「うん、多分パティの表現の方が正しいと思うよ?」
不満げなパティと苦笑気味のサーヌの二人に一斉に訂正され、ケルトーは怪訝そうに眉を寄せる。そして頬杖をついてラパンをじっと見つめた。
目を逸らすのも躊躇う程に真っ直ぐに見つめられて、ラパンは掌の下で頬がじんわりと熱くなるのを感じる。
そうしてラパンが無言で向けられる視線を数十秒受けた後、ケルトーは頬杖をついたまま表情を変えずに言った。
「……そうか、可愛いのか」
「!!」
平然と言い放たれた言葉に、心臓が大きく跳ね上がったのが分かった。
深紅の瞳をこれでもかと見開いたラパンの片手から、食べかけのガレットがぽとりと間抜けな音を立ててテーブルの上に落ちる。
それを見たケルトーが「おい、落ちたぞ」と指摘してやるが、口を半開きにして硬直してしまったラパンの耳にその言葉は届かない。
「……あれが素だから、彼奴はよく分からないんだ」
「あはは……まあ、ケルトーだからね」
白雪の肌を薔薇色に染め上げて動かなくなってしまったラパンと、不思議そうにラパンを見ているケルトー。そんな二人を苦笑しながらも微笑ましげに眺めるパティとサーヌ。
穏やかで暖かい、いつもと変わらない時間。それは変わらないものだと誰もが信じて疑わなかった。いや、信じる事すら無かった。
何故ならこの時間が、四人にとっては日常で、当たり前だったからだ。
しかし、それは唐突に崩される事になる。
「……?」
真っ先に気付いたのは、ケルトーだった。
ラパンを見つめていた灰色の瞳を不意に鋭くさせ、その眼光を玄関がある方角へと向けた。
突然身に纏う雰囲気が変わったケルトーに三人は驚き、サーヌが眉を顰めて声を掛ける。
「どうしたんだい、ケルトー」
「……何かが、屋敷に来る」
その言葉を聞いたパティは「ええっ!?」と大声を上げてがたんと椅子を鳴らし、驚愕と少しの脅えを見せながら口を開いた。
「で、でも、あの霧を抜けてこの屋敷まで来れる奴なんて、そんなにいないだろう?」
「ま、迷子でしょうか……?」
「いや、森で迷ったなら適当な場所に放り出される筈だ。此処まで来れたって事はーー」
ケルトーが其処まで言った時、大きな揺れと爆音が屋敷に襲いかかった。
「きゃあっ!?」
「……っ!」
「ひゃああっ!?」
「うわっ!」
四人が咄嗟に出した驚愕の声を、続けざまに鳴った爆音がかき消していく。
屋敷全体が大きく震え、天井で輝いていたシャンデリアがぐらぐらと左右に揺れる。
真っ先に体勢を整えたケルトーは俊敏な動きでテーブルを飛び越えると、頭を抱えて身を縮こまらせているラパンの隣に移動した。
「おい、立てるか?」
「あ、は、はい……」
「とりあえず様子見に行くぞ。パティ、サーヌ、動けるか?」
微かに震えながらもきちんと自分を見て頷いたラパンに手を貸してやりながら、ケルトーは二人にも声をかける。
誰よりも早くテーブルの下に潜っていたパティは涙目で顔を出し、近くにあった椅子に捕まっていたサーヌも頷いた。
「だ、大丈夫だ……」
「僕も平気だよ」
「おし、行くぞ。何が来たか分かんねえから、離れたりすんじゃねえぞ」
全員の無事を確認したケルトーはそう言うと、貸していた手でそのままラパンの手を引き、爆音がした玄関の方へと歩き出す。その後をパティとサーヌも追った。
長い廊下を進む間にも時折爆音が響き、屋敷が揺れ、その度に四人の足は自然と速くなった。
そうして、玄関ホールに何とかたどり着いた四人が其処で見たものは、
「ーーっ、何で、こんな……」
くり貫いたように丸く大きな穴を開け、黒煙と火に包まれた玄関だった。
真っ黒に焼き焦げたドアは最早原型を留めておらず、焦げ跡の中に見える蝶番で漸く判別出来る程度になっている。
目の前の惨事に四人が言葉を失っていると、もうもうと立ちこめている黒煙の中から人影が現れた。
「……誰だ、手前は」
ラパンを庇うように一歩前に出ながらケルトーは、黒煙に包まれた人影に問いかける。
すると、その人影は被っていた漆黒のフードを脱ぎ、黒煙の中から完全に出てきてその姿を見せた。
血色の悪い肌に、腰まで伸ばされて一つに纏められた髪はくすんだ緑色。黒曜石の目には強く、しかし何処か怪しく歪んだ光が輝いている。
ケルトー達よりも幾つか年上らしきその男は、自分が歓迎されていないと明らかに分かる空気の中で、
「やあ、俺はデゼス。そこにいる魔力の源をプレジール国王の命により、化け物の手から取り戻しに来た魔術師だよ」
そう言うと、まるで舞台に立つ役者のように両手を大きく広げ、にんまりと口元を歪めてみせたのだった。
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