産声
手を伸ばして掴めば、粉々になる。
爪を軽く立てれば、散り散りになる。
牙を僅かに覗かせれば、誰もが遠ざかる。
《また彼奴、森で暴れていたらしいぞ》
《おいよせよ! 下手に気に障ったら殺される!》
恐怖と嫌悪に満ちた視線が、網膜に焼き付いて消えない。
《ああ……私はどうしてあんな子を産んでしまったの……!?》
《お前の所為じゃない。あの子は俺達の子では無いさ》
絶望に満ちた悲痛な声が、鼓膜に張り付いて離れない。
だけど、それが自分に向けられるものとしては当然のものだと思っていた。他のものを望んだ事なんてなかった。そう思う事しか自分の中に選択肢がなかった。
それだけが、自分に向けられるものだったから。
***
赤い夕陽に染められた大樹の下で、二つの視線が絡んでから一体どのくらいの時間が経っただろうか。数分、数十分とも分からない。もしかしたら数秒かもしれない。
そんな事も分からなくなる程に今のラパンは、動揺と困惑と驚愕と悲痛とーー心が押し潰されそうな様々な感情に苛まれていた。
「……どういう、こと、ですか?」
僅かに引きつった喉から漸く絞り出せた言葉は、ばくばくと喧しく跳ね回る自分の心音に邪魔されてよく聞こえない。
しかし、目の前で座り込んだまま小さく笑うケルトーにはきちんと届いたようだった。赤く染まった口元が動いて鋭い牙を覗かせる。
「そのままの意味だ。俺は生まれてきた事を恐れられて後悔されて生きてきたんだよ」
「な……何でそんな、っ」
「最初は、初めて立った時だった」
遮った言葉の裏に秘められた強さは、動揺しているラパンの弱々しい言葉を飲み込むには充分だった。
発言する事を止められ、其処に立ち尽くすしかないラパンを置いてケルトーは言葉を続ける。
「俺は、俺を抱き上げた母親の耳を噛み千切って、割って入った父親の指を捻り潰したんだ」
「……っ!?」
ラパンの目が零れ落ちそうな程に見開かれた。
信じられないと思ったが、嘘を吐くわけもない。混乱の渦だけがラパンの頭にぐるぐると広がっていく。
ケルトーは記憶を辿っているのか灰色の目を軽く伏せて、感情の見えない声色で淡々と言葉を紡いでいった。
「それで、物心ついた頃には両親からは勿論、周りからも避けられてた。……でも、それはいつからか当たり前だと思うようになってた。そうだろ? だって傍にいりゃ、うっかり殺されかねないんだからよ。誰だって避けるに決まってる」
そう話しながらケルトーは傍らに落ちていた掌大の石をおもむろに拾って軽く握り締める。
そしてその手をゆっくりと開くと、粗い大粒の砂と化した石だった物がぱらぱらと地面に落ちていった。
「まあ……デカくなるにつれて力の制御は覚えたから、今はマシだけどよ。でもそれまでは出せるままに力を出すもんだから、色んな物を壊した。家も木も岩も……ああ、あとは俺の力を怖がって追い払おうとしてきた奴らに抵抗して、何度か殺しかけた事もあったな」
普通の会話を交わす調子で話しながら、ケルトーは掌に付いた砂を簡単に払う。が、その顔には自嘲めいた笑みが浮かんでいる。
「そんである日、俺はやっちまったんだよ」
「……何を、ですか?」
気の毒なほどに震えている細い声が尋ねてきた。
それを当たり前だと受け止めて、ケルトーは答える。
「俺はまだガキだったのに、森の主を自分の力だけで殺しちまったんだ」
「……!?」
集落にいたところで、その頃にはもう両親からは『自分達の子供』ではなく『産み落としてしまった災厄』として腫れ物を扱うようにされていたし、周囲からは関わるまいと避けられる。
だから森の奥に行っては、知性の低さから見境無く襲ってくる魔物に抑えきれない力を奮っていた。ーーそれがいけなかった。
薙ぎ倒される木、砕かれる岩と地面、逃げまどう動物達。まだ加減を知らなかった幼いケルトーが魔物相手に容赦無く力を奮えば、その代償として周囲が壊れていった。
そうして遂に森を荒らす脅威だと判断されたケルトーは、当時森の主と崇められていた雄鹿に襲われた。
大岩を踏み抜く蹄と巨木をへし折る角で、魔物から森の平穏を守り続けてきた実力を持つ、そんな相手に真っ向から命を狙われた。
だから、向けてしまった。
誰も適わず、誰もが恐れて忌み嫌う、圧倒的な力を。
「それを知った一族の長は俺を追放した。行き場が無くなった俺は襲ってくる魔物や旅人を狙ってくる盗賊とかを返り討ちにしては生き延びてた。そうしたら、いつの間にか名前が知れ渡って……」
そこまで言って、ケルトーは先程から何も言わなくなったラパンをちらりと視線だけで見上げる。
完全に俯いてしまっていたので表情こそ見えないが、小さな体は頭から爪先までかたかたと震えていて、両手を添えた口元からは微かに嗚咽が聞こえた。
記憶に嫌と言うほど焼き付いている、恐怖に怯える者と重なる小さなその姿。それでもケルトーは呆れる事も失望する事もなく、止めとなるであろう言葉を吐いた。
「『全てを圧倒的な力で壊し、全てに恐怖と絶望を与える《狼王》ケルトー』……気が付いたらそう呼ばれてて、どいつもこいつも俺から逃げていくようになってたんだ」
そう言い切った途端に、ふっと胸が軽くなった。
但しそれは爽快感などでは無く、ただひたすらな空虚感だと直ぐに分かった。
どうして、こんな話を自分からしてしまったのか。
隠し通そうと思えば出来る話だった。正直に話したところで拒絶しか待っていないのは明白だったのに何故、目の前の少女に全てを話してしまったのだろうか。
それは、ケルトー本人にも分からなかった。
(……まあ、もう、どうでもいいか)
それでも、話してしまったのだから仕方ない。
ラパンが恐怖に塗れた悲鳴を上げ、この場から逃げ去っていくその時を、ケルトーはまるで懺悔を終えたかのように目を閉じて静かに待った。
「ーー……え?」
ふわりと、花に似た甘く優しい匂いが漂う。
少し熱いくらいの温もりに包み込まれたと思えば、そのまま後ろにある大樹の立派な幹へと、体をとんっと軽く押し付けられた。
ケルトーが閉じていた目を思わず開いて見てみれば、自分の顔の直ぐ横で、此処からいなくなる筈の銀色が煌めいていた。
「え……お前、何で……?」
ケルトーは混乱のあまり、咄嗟に出てくる言葉の欠片を零すことしか出来なかった。
自分は、自分が如何に異常であるかを話した筈だ。今の話の内容を聞けば、傍に居続けるような存在では無いと分かるだろう。
ならば何故、恐怖で逃げ去っていく筈の少女がどうして自分に抱き着いているのか。
何もかもが分からないケルトーは動けない。
そんな彼の首筋に埋まっていた銀色が不意に小さく身動いで顔を上げたので、硬直していたケルトーは自然と其方を見て、
「ーー……っ」
そっと呼吸を詰まらせ、そして夢幻を見ているかのように言った。
「っ、何でお前が、そんな顔で泣いてんだよ……?」
潤んだ深紅の瞳から止めどなく溢れる大粒の涙。
銀の睫毛は鵐に濡れそぼって、瞬きをする度に目尻からぼろぼろと零れる涙は赤らんだ頬を伝っていく。
これ以上は無いくらいに動揺するケルトーを前に、小さな顔はこれでもかとくしゃくしゃに歪み、震える唇から嗚咽混じりの拙い言葉が紡がれる。
「だっ……て、だって、けるとーさん、なんで。どうして……っ、けるとーさんは、すきでそんな、っ」
込み上げる感情に言葉が追い付かない。
それでもラパンは泣きながら必死に言葉を絞り出して、再びケルトーの首元にぎゅうと抱き着いた。
泣いている所為か熱さを増した温もりを感じ、はたと我に返ったケルトーは、それでも抜けきらない衝撃に何度も目を瞬かせながら何とか口を開いた。
「だからって……何でお前がそんなに泣くんだよ? こんな俺を、何でお前は……っ」
激しい動揺がケルトーの言葉を詰まらせる。
遠ざけられて嫌われて、怖がられる。
それが自分にとっての当たり前だったケルトーに、今のラパンはどうしたって理解し難い存在だった。
この少女が自分の事を思い、悲しみ、泣いてくれている事は流石に分かる。しかし、自分などにどうして其処までの気持ちを向けてくれるのかが分からない。
そんなケルトーの考えを察したかは定かでは無いが、ラパンは密着していた体を少し離すと、お互いの視線が絡むように顔を向けた。
「……だって、今の私があるのは、ケルトーさんがいてくれたからなんですよ?」
いつだって思い出せる、自分と彼が出会った月夜。
ずっと自分の世界に生きていたケルトーにとっては、偶然と気紛れが重なった、ほんの小さな出会いだったかもしれない。
しかしラパンにとっては、自分でも気付かないうちに朽ち果てそうになっていた自分の世界を変えてくれた、かけがえの無い出会いだった。
そんな幸せを与えてくれた彼の、自身が望んでもいなかった辛い過去をどうして悲しまずにいられようか。
止まる気配の無い涙を拭う事も忘れて零し続けながら、ラパンは目の前にあるケルトーの頬を両手で包み込む。
小さな手が頬に触れた一瞬にケルトーの肩がぴくっと跳ねたが振り払われる事は無く、ラパンは受け入れられた手でそっと頬を撫でて潤む目を細めた。
「ケルトーさんがいてくれなかったら、今の私はいません。世界中の誰もがケルトーさんを否定したって、怖がったって、私はケルトーさんがいてくれて良かったって、思ってます。だから、だから……っ」
こつんと、額を突き合わせる。
鼻先が触れそうな距離まで近付いた互いの瞳に、互いの瞳の色が混ざり込んだ。
《ーーラパンに逢いたかったのよ》
遠い記憶の中の優しい母の声。
その声の主はいつだって自分の事を想い、その想いを紡いでは自分の心を暖めて、ささやかながらも確かな幸せを感じさせてくれた。
《だからね、ラパン》
その幸せを自分も届けたい。
素晴らしいと思える世界を生んでくれた、目の前にいる彼に。
「だから、ケルトーさん」
どうか少しでも伝わるようにと心から願いながら、ラパンは震える喉に必死に力を込め、欠片たりとも言葉が何処かに散らばってしまわないようにして、言った。
「《生まれてきてくれて、ありがとう》」
記憶の中で微笑む母と、自分の声が重なった気がした。
込めた想いはきっと少し違うけれど、それでも今、自分が伝えたい言葉は同じだった。だから伝えようと思った。
「……えっ?」
途端、ラパンの色付いた目尻から、また新たな涙がぶわりと溢れ出した。
「わ、わっ、どうして……?」
溢れ出る気持ちを伝えきった所為か、先程よりもぽろぽろと多く流れ落ちる涙をラパンは急いで拭うも、それは次々に頬を伝っては暫く止まりそうに無い。
そうしてラパンが一人で慌てていると、その背中に逞しい両腕がふわりと回された。
「ケルトーさん……?」
少し驚きながらもラパンが呟くように名前を呼べば、まるで縋るようにぐっと抱き寄せられた。
「……少し、このままでいさせろ」
そう言うと、ケルトーはラパンの丸い肩に顔を埋めた。
しっかりと抱き締められてしまったので表情は窺えないが、今の声色が悲しいものでは無かった事だけは確かだった。
だからラパンは自分よりもずっと大きなその体を、返事の代わりに両腕を目一杯広げて包み込み、存在を確かめさせるようにぎゅうっと抱き締めた。
大樹の下で重なる、二つの人影。
空の向こうには冷たい夜の気配が緩やかに見え始めていたが、静かに抱き合う二人の心は、夕陽の温もりが染み込んだように暖かかった。
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