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狼王と兎少女  作者: 亀吉
本編
29/58

子兎騒動 後編


 大きな浴槽にたっぷりと張られた清潔な湯からは、其処に浮かぶ香草の良い香りが混ざった湯気がゆらゆらと立ち上って浴室内を白く曇らせている。

 そして今、そんな浴室の中でケルトーは、


「あ、おい、動くなっての!」


 子兎一匹を相手に、奮闘していた。

 湯を張った浅い桶に入れられた子兎は、慣れない環境と自然にはあまり無い温度に戸惑っているのか、先程からじたばたと暴れては桶から出ようとする。

 そんな子兎にケルトーは何度目かも分からない溜め息をついて、桶の湯を指先で掬い、子兎の体にぱしゃぱしゃと軽く掛けてやった。


「怖くねえって。ほら、ただの湯だろ?」


 その言葉が子兎に届いたのかどうかは分からないが、漸く子兎は桶の中で大人しくなった。

 それに安堵したケルトーは疲れたように肩を落とし、鏡の前に並ぶ硝子瓶から青色の物を手に取ると、中身の液体を掌にほんの少量だけ出して指先でかき混ぜた。

 すると透明だった液体は細かな泡に変わっていき、ケルトーはその泡を掬うと子兎の汚れた体に擽るように塗りつけていく。


「これ使うと、汚れがよく落ちるんだよな。作るの大変だからあんまり使うなってパティは言ってるけどよ」


 呟きながらケルトーが指先をわしゃわしゃと動かしていけば、子兎の体に付いていた土色は見る見るうちに桶の中の湯へと溶けていった。

 そうしてある程度汚れが落ちたら濁った湯を取り替えるという作業を数回繰り返していくと、子兎の毛並みは無事に元の綺麗な白に戻った。


「よし、こんなもんだろ」


 先程よりも何処となく気持ち良さそうに鼻をひくつかせる小兎。 

 その様子にケルトーは満足げに笑うと小兎の頭を指先で撫でてやり、溜まってきた疲れを癒すために自分も浴槽へと体を沈めたのだった。


 ***


 夕焼け色に染まったラパンの部屋のドアが、そっと静かに開けられた。


「……此処でいいか」


 白い体を緩やかに上下させながらすぴすぴと呑気な寝息を立てている子兎を、ケルトーは起こさないように気を付けながらベッドに下ろしてやる。

 そして極力音を鳴らさずに椅子に座ると目一杯に背中を反らして、ふーっと今日一番の長く深い溜め息をついた。


「何か、すげえ疲れた……」


 獣や魔物と戦った後とはまた別の今まで感じたことの無い疲労感に、天井を仰いだままの体勢でケルトーは目を閉じて額に手を当てる。

 しかし不思議と嫌な気分では無く、寧ろ満たされている気がした。


(そういや、パティ達の方はどうなったか……。収穫はどうあれ、とりあえず夜には一回帰ってくるとは思うが……)


 ふと、今頃街中を駆け回っているであろう二人を思ったケルトーは、知らず知らずのうちに緩んでいた顔を難しいものに変えた。

 肉弾戦には狼男である自分の方が向いているように、こういった魔法や呪いの類には魔法使いであるパティや吸血鬼のサーヌの方が適材適所なのは分かっている。


「ーー……あ?」


 それでも感じてしまう歯痒さに顔をしかめていたケルトーの視界に、ふっとある物が入った。

 それが何となく気になったケルトーは気晴らし程度に思って手を伸ばす。


「……クレから借りてんのか」


 ケルトーが手に取ったのは数冊の本だった。


(そういや彼奴、最近よく本読んでたっけか)


 文字の読み書きを習い始めてから、庭園や裏庭で本を読んでいるラパンの姿をよく見かけるようになった事を思い出したケルトーの手は、持っていた一冊の本をぱらぱらと捲り始める。

 どうやら中身は子供向けの童話小説らしく、文字に関しては一般的な知識のあるケルトーには難無く読めた。


(彼奴、いつもこんなの読んでるのか)


 そんな事を思いながら、内容を次々と流し読みしていくケルトー。

 そうして何冊目かの本を手に取って同じように読み進めていったが、ふと目に入ってきた数行の文章にページを捲る手を一旦止めた。


「ーーこれは……」


 ケルトーは本に視線を落としたまま呟く。

 暫く何か考えるような表情のままでその場から動かなかったが、不意にその本を閉じてテーブルに置くと、子兎が寝ているベッドにつかつかと歩み寄った。

 そしてベッドの脇に屈み込み、耳を垂らして安らかに眠っている子兎の寝顔をじっと見つめる。


「…………」


 部屋に訪れる完全な静寂。

 そして少しの間を置いてから、微かな衣擦れの音がした。 


 ***


「うっ……ぐすっ……」


 溢れる涙で顔をぐしゃぐしゃに濡らしたパティは足を引き擦るように歩を進める。

 すっかり丸くなってしまったその背中を、隣を歩くサーヌは時折撫でてやりながら、ずっと俯きっぱなしのパティの顔を優しい表情で覗き込んだ。


「パティ、まだ諦めるには早いよ。クレにもう一度何か手段は無いか聞いてみて、あとケルトーには遠い街にも探しに行ってもらおう?」

「ひっく、うう……」


 次々に零れ落ちる涙を拭いながら何度も頷いてみせるパティ。

 まだ諦めていない事が分かるその反応に、実は内心で少しの不安を抱いていたサーヌもほっと一安心する。

 そんなやり取りを交わしているうちに二人は屋敷の前まで帰ってきていた。

 普段よりも重い気がする門を開けて、拭いきれない沈んだ空気を纏ったままで玄関のドアをゆっくりと開ける。


「ーーお帰りなさい。パティさん、サーヌさん」


 落ち込む二人を出迎えたのは、愛らしい鈴の声。


「……!!」

「え……!?」


 今にも零れ落ちそうな程に見開かれた二人の目に映ったのは、申し訳なさそうに眉を下げて微笑む銀髪の少女だった。


「っ、ラパン、ちゃん……?」

「はい、……二人ともご心配かけて本当にごめんなさ、きゃっ!?」


 頭を下げようとしたラパンだったが、それは勢い良く抱き着いてきたパティによって阻止されてしまった。

 込み上げる喜びや安堵で頬を上気させたパティは、驚いて目を瞬かせているラパンの体を絶対に離さないと言わんばかりにぎゅうっと抱き締める。


「良かった、本当に良かった……っ! ラパンちゃん、元に戻って、良かったよお・……!!」


 パティはえぐえぐと泣きじゃくりながら、自分の腕に収まっているラパンの頬に自分の頬を押し付けるように擦り寄せる。

 涙で濡れたその頬はラパンには少し冷たかったが、それでも嬉しそうに微笑んだラパンはパティの体をむぎゅっと抱き締め返した。

 そんな二人をサーヌが優しい眼差しで眺めていれば、いつの間にか隣にケルトーが立っていた。


「お疲れさん。あとで一杯やろうぜ」

「うん、ケルトーもお疲れ様。……でも、よく解けたね。どんな方法だったんだい?」


 興味深そうに小首を傾げるサーヌを、ケルトーは横目で暫く見つめ返す。

 そして鼻を鳴らして小さく笑ったと思えば、きょとんと自分を見るサーヌに背中を向ける。


「……さあな」


 たったそれだけを言い残して、ケルトーは自室の方へと歩いて行ってしまった。

 

「……?」


 答えになっていない答えを返されたサーヌはその場に一人立ち尽くし、ぱちぱちと目を瞬かせてその後ろ姿を見送る。


「サーヌ、どうしたんだ? 折角ラパンちゃんが無事に戻ったんだ! お祝いするから準備手伝ってくれ!」

「あ……うん、そうだね。本当に良かったよ」

「あ、有り難うございます……」


 そうして立ち尽くしている間にケルトーの姿は見えなくなってしまい、サーヌはラパン達に呼ばれると、真相を気にしつつも其方へ意識を向けたのだった。


 ***


「ふう……」


 夜も大分更けた頃、ラパンは満足げな溜め息をつきながらベッドの端にぽすんと腰を下ろした。

 あれからパティが全力で用意した料理はいつにも増して豪華で美味しく、気が付いたら普段以上の量が胃に収まっていた。

 心地よい満腹感に浸りつつ、ラパンは夕食中に三人から聞いた今日一日で自分の身に起きていた出来事を思う。


(兎になってたなんて、信じられないなあ……)


 ブローチが光った事までは記憶にあるのだが、それ以降の記憶はラパンには全く残っていなかった。

 気が付くと自分はこのベッドに寝ていて、ケルトーが普段通りの様子で自分を見下ろしながら「……戻ったか」と言ったのが、ラパンにとってはブローチの記憶の続きである。


(何だか変な感じ……。でも心配かけちゃったのは事実だし、また何かお礼したいな……)


 そんな事を考えながらラパンはテーブルの方に目を向ける。

 そしてベッドからぴょんと下りると、其処に置いてあった本の山から一番上にあった本を手に取って微笑んだ。


(……でも、人間に戻れて本当に良かった。兎じゃ本も読めないもんね)


 そうしてラパンは本のページをぱらぱらと捲りながら傍の椅子に腰掛けて、いつものように楽しそうに読み始める。

 

 その本の表紙には、花に埋もれて眠る姫とそれを囲む七人の小人、そして姫を愛おしげに見つめる王子の絵が描かれていた。



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