そして、狼は眠る
噴水のある広場の周囲は、もう夜も大分更けてきたというのに騒がしかった。
其処に集まった人間は最初はその顔に不安や好奇心などの様々な表情を浮かべていたが、目の前で繰り広げられる光景を見ていくうちに誰もが恐怖と畏怖を張り付け、そしてただ圧倒されていった。
立ち尽くす群衆の中で一人の男が呟く。
「お……おい、誰か加勢しなくていいのか……?」
その隣に立つ男が、目を見開いて言う。
「バカ野郎! そんなこと出来るかよ!」
斜め後ろにいた女は、目前の恐ろしい光景から視線を逸らせずに口を開く。
「そ、そうよ……彼処に混ざってご覧なさい……!」
そう言葉を零す唇は、震えている。
「きっと、殺されるわ……!」
***
勢い良く噴き出した生温い赤色が顔に掛かる。
しかしケルトーはそんな事を微塵も気にせず、引き抜いた爪をもう一度同じ場所に強く突き刺して、ぐちゃりと容赦なくその傷口を捻るように抉った。
「グギャアァアアァッッ!!」
「うわ、うるっせえなあ……っと」
苦痛に叫ぶキメラの横腹から爪を引き抜いたケルトーは、鼓膜をつん裂くその不気味な悲鳴に顔をしかめる。
それでも攻撃を休むことはせず、キメラが振り下ろした獅子の大爪をあっさりと避けると、無防備な顎をすかさず爪先で鋭く蹴り上げた。牛よりも重いキメラの体は軽々と上へ飛び、それを追いかけてケルトーも宙へと跳んだ。
「よっ、と」
「ギャアッ!!」
掛け声こそ軽かったが、見事な弧を描いて放たれた踵落としはキメラの額を割って鮮血を噴かせた。そのまま下へと叩き落とされたキメラはその衝撃で地震のように地面を揺らし、もうもうと土埃を舞い上げる。
しかし流石はその巨体を持つだけあって、直ぐに立ち上がると未だ空中に留まっているケルトーに向かって大口を開け、巨大な火の玉をごうっと吐き出した。
「ああっ……!?」
その光景を見ていたラパンは思わず悲鳴を漏らす。
下手に動いたら戦闘の邪魔になりかねないのと、恐怖に竦んだアンジュを連れては動けないので、二人はケルトーが来てからも噴水の傍から離れられずにいた。
ケルトーが上手く二人から離れた位置にキメラを誘導して戦ってくれているので被害は無いものの、状況がよく見える分、ラパンにとってはいつケルトーが大きな怪我を負うか不安で仕方がなかった。
そして今、目の前でケルトーが火の玉に飲み込まれてしまった。ごうごうと激しい炎に包まれたケルトーが地面に落ちる。
絶望的なその光景にラパンの目尻に浮かんでいた涙が零れそうになった時、ぶわりと炎の塊が動いて辺りに火の粉をまき散らした。
「あー……あっちい……、キメラが火を吐くって忘れてた……」
燃え盛るマントを脱ぎ捨てて姿を現したケルトーには、火傷一つ見当たらない。実はそのマントには普段からパティが守護の呪いを掛けていたのだが、それを知る由もないラパンは潤んだ目をぱちくりとさせた。
肩に付いた僅かな煤を払い退けながら、ケルトーは目の前で獰猛な呻り声を漏らし続けるキメラと向かい合う。
「やっぱ、思ってたより強いな」
「グガアァッ!!」
「……でも、俺よりは弱い」
にやりと笑む口元には、狼の牙。
ケルトーは目にも留まらぬ早さで駆け出すと、キメラの後方に素早く回り込んで尻尾の大蛇の首を掴んだ。
「おらよっ!」
「グギャア、アアァァッッ!?」
まるで畑から根菜を収穫するかのように、あっさりと尻尾の大蛇を引き抜いて周囲へ適当に放り投げるケルトー。
壮絶な痛みに暴れるキメラは、固い蹄を持つ山羊の後ろ足でケルトーを蹴り飛ばそうとしたが、ケルトーはそれをひょいと軽く後ろに跳んで避けた。
その反動で勢いをつけて地面を蹴り、キメラの背中に飛びかかると蝙蝠の左羽の付け根に手を掛けて、根本から折らんばかりの力でぐっと押した。
すると傷だらけで弱っているキメラの体は体勢を崩し、呆気なく地面へと横に倒れていく。どさりと大きな音と共に再び土埃が舞い上がって、ケルトーとキメラの姿を周囲から隠した。
茶色く煙る視界の中、ケルトーは唸るキメラの首元に跨がってゆっくりと首筋に爪を立てる。
そして冷たく光る灰色の瞳を細めると、血に濡れてすっかり見窄らしくなった獅子の鬣を一瞥して、言った。
「じゃあな、百獣の王様。ーー狼王に喰われてくれ」
***
(ケルトーさん、大丈夫かな……?)
ラパンは顔を不安に曇らせながら、土埃がもうもうと立ちこめる一帯を見つめる。どんなに目を凝らしても土埃と闇夜の所為で状況がよく分からない。
「……あっ!」
すると、徐々に落ち着き始めた土埃の中で人影がゆらりと動いたのが見えた。それに思わず声を上げたラパンの視界にゆっくりと現れたのは、
「はー……疲れた」
激しい戦闘を終えたばかりとは到底思えない雰囲気で、疲れたように首をこきこきと鳴らしながら此方に歩いてくるケルトーの姿だった。
髪や顔、至る所が赤黒く汚れているが、ケルトーの様子からして本人は怪我はしていないと分かり、ラパンは安堵からの溜め息をつくと、アンジュを抱き締める腕に自然と力を込めた。
「ふぃーゆおねえちゃん、もう、こわいのいない?」
「うん、もう怖いのはいないよ。あのお兄さんがやっつけてくれたから……」
ずびずびと鼻を鳴らしながら涙目で見上げてくるアンジュに、ラパンが優しく微笑みかけてケルトーの方を振り返れば、アンジュも首を軽く伸ばして一緒に其方を見ようとした。
「アンジュ!」
「……! おかあさん!」
不意に女の声が飛んできたと思えば、広場を囲んでいた人混みの中から若い女性が泣きながらラパン達の元へと駆け寄ってきた。
その女性を見るなりアンジュはぱっと笑顔を浮かべ、ラパンの腕の中から飛び出すと其方に走っていく。そして屈み込んで両手を広げた女性の胸にぴょんと飛び込んだ。
「アンジュ! 良かった、無事だったのね!」
「おかあさん、おかあさん! ごめんなさい!」
「ううん、お母さんの方こそ手を離してごめんね? ああ、本当に良かった。良かった……」
「おかあさん……っ!」
涙で濡れた頬を寄せ合って抱き合う二人の姿に、ラパンは自然と柔らかな笑顔を浮かべる。
(良かったね、アンジュちゃん)
これで全て片付いた。そう思ってラパンが安堵に浸りかけた、その時だった。
「……っ!?」
闇夜に紛れて地面で蠢く、黒い影。
それが何なのかまでは直ぐには分からなかった、が、ラパンの勘はそれは危険なものだと告げる。だからラパンは咄嗟に大声を出した。
「アンジュちゃん、危ない!!」
「えっ……?」
突然叫ぶように呼ばれて、アンジュと母親は抱き合ったまま驚きと戸惑いの表情でラパンの方を向く。
そんな二人の直ぐ傍まで黒い影はするすると這い寄って来て、そして力を溜めるように軽く身を縮こまらせると、押されたバネが解放されたように高く飛び上がった。
「シャアアァアァッッ!!」
「っ、きゃあああっ!?」
刃物同士が擦れ合ったような鳴き声を上げて、体の三分の一ほどを失った大蛇が二人に襲いかかる。
不気味な鳴き声に母親が気付いて悲鳴を上げるも、突然過ぎる事態にその場から動くことは出来ず、母親がせめてもの抵抗でアンジュをぎゅっと抱き締めた時、不意に視界を人の影がすっと遮った。
「はー……存外しぶといな、おい」
「……えっ?」
母親は潤んだ目をぱちくりとさせながら、いつの間にか目の前に立っていた黒髪の青年を見上げる。
体の殆どを血で染めた彼のその手首には、自分達を襲ってきた大蛇ががぶりと噛み付いてぶら下がっている。
牙が食い込む部分からは青年の真っ赤な血と、濁った紫色の毒液が混ざった滴が地面に向かってぽたぽたと滴り落ちていた。
「しつこいのは嫌いなんだよな、っと……」
そう吐き捨てながら青年は空いている方の手を大蛇の上顎に引っかけて、まるで紙でも引きちぎるかのような軽さで大蛇の体を横半分に割り裂いた。
そして今度こそ息絶えた大蛇の体を無造作にぽいっと投げ捨てると、自分の手首に出来た傷口を見て忌々しげに顔をしかめる。
「……毒入ったか。面倒だな……」
「ケル……っ、ガルーさん! 大丈夫ですか!?」
ケルトーが大蛇に毒牙を向けられる一部始終を見ていたラパンは、まるで自分が怪我を負ったかのような涙声を上げながら駆け寄ってきた。
大きな深紅の瞳いっぱいに涙を溜め、自分の事を心から心配そうに見上げるラパン。そんなラパンにケルトーはふっと口角を上げると、怪我をしていない方の手をその小さな頭に乗せようとして、
「っ、やべ……」
ぐらりと歪む世界と、遠のく意識。
どうにか踏み止まろうとしたが、一度ふらついた足からは力が抜けていく。
そうしてケルトーの意識は、深い深い闇の底へと沈んでいった。
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