そして、狼は笑う
夕焼けと夜が混ざり合っていた空は、今は完全に藍色に染まって星達を瞬かせている。しかしプレジールは街灯や建物の中から漏れる明かりによって、どんなに深い夜が来ても真っ暗になる事は無い。
(くそ……っ! )
そんな中、ケルトーは人混みを駆け抜けていた。
腕の良い洋裁師が布に針を通していくかのようにすいすいと人を避けて行くが、いつも飄々としている彼にしてはとても珍しい事に、その顔には焦りが色濃く浮かんでいる。
(完全に、油断してた……!)
ほんの一瞬の隙に目の前で人混みに流されていった少女を思い、ケルトーは眉を寄せて無意識に舌を鳴らす。
(……畜生、思ってたよりも分かりづれえぞ……)
はぐれた時からずっと嗅覚を働かせてはいるのだが、あまりの人の多さや屋台の残り香が混ざっていて、どうにも確実な匂いが未だに掴めていない。その事実がケルトーを更に焦らせ、苛立たせていく。
どちらかと言えばラパンはしっかりとしている方なので、直ぐに何らかの事態に陥るとは考えづらいが、それでも万が一という事もある。
(……くそっ!)
ずっと、自分のマントを掴んでいた小さな手。
それが今ではいない事が、どうにも落ち着かない。
(何処にいるんだよ、ラパン!?)
人目も気にせずにそう叫びたくなった時、ケルトーの鼻先を嗅ぎ覚えのある匂いがふっと掠めていった。
「……!!」
ケルトーは咄嗟に足を止め、その匂いを逃さないように嗅覚にのみ意識を集中させる。
そしてその匂いが探していた物だと判断したと同時に、同じ方向から流れてきた別の臭いに気付くと、さっと顔色を変えて目を大きく見開いた。
「おい、冗談だろ……!?」
少女の甘い匂いと共に流れてきた物。
それは狂気と悪意で濁った、魔物の臭いだった。
***
その頃より、時間は少し遡る。
路地から出たラパンとアンジュは姉妹のように手を繋いで、街の通りを宛もなく歩いていた。人の波にもう流されないようにと端の方を極力歩いているお陰で、今のところ誰かにぶつかる事も無かった。
「アンジュちゃん、疲れてない?」
「だいじょーぶ! あんじゅ、つよいこなの!」
「そっか、凄いね」
「えへへー」
屈託無く笑うアンジュに釣られて、ラパンの顔にも笑顔が浮かぶ。が、そんなアンジュの母親が見つかる気配は先程から一向に無く、内心でそっと溜め息をついた。
(どうしよう……。あまり長い間はぐれたままだと、ケルトーさんにどんどん迷惑かけちゃうよね……)
ーー無事に合流出来た時はとにかく謝らないと。
そう思っていたら自然と顔に出ていたらしく、アンジュが少し心配そうに瞳を揺らしながら自分を見上げていることにラパンは気付いた。
「ふぃーゆおねえちゃん、つかれた?」
「あ……」
「つかれたらやすまなきゃだめって、おかあさん、いってたよ? おやすみしよ?」
そう言ってアンジュは繋いでいない方の手で、少し向こうに見える噴水を指さした。其処は小さな広場になっていて、何人かが噴水の縁に座っているのが見える。
幼いアンジュの心遣いに気持ちが温かくなるのを感じたラパンは「……そうだね」と笑い、折角なのでその提案を有り難く受け取る事にした。
「綺麗な噴水だね、アンジュちゃん」
「ここね、おかあさんとおさんぽでいつもくるの!」
「そうなんだ? ……あ、じゃあ此処にいたらお母さんも来るかもしれない。少し待っててみようか?」
「ほんと? じゃあ、まつー!」
ぱあっと顔を明るくさせたアンジュは余程嬉しいのか、ラパンの手から離れて噴水の方へ一目散に走り出す。
その微笑ましい小さな後ろ姿にラパンはつい頬を緩め、自分も近くで噴水を見ようと足を前に一歩踏み出そうとして、
「……え?」
自分の目を疑った。
きらきらと飛沫を輝かせながら水を噴き上げる噴水の真上に見えたのは、牛を二回りは大きくした巨大な影だった。
そして街灯に照らされて映し出されたのは、前半分が獅子で後ろ半分が山羊という不気味な体。背中には蝙蝠の羽が生えていて、尻尾の大蛇は毒息を漏らしながら長い舌をちらつかせている。
「キ、キメラだ! キメラが街中に入ってきた!!」
誰かが恐怖に満ちた悲鳴を上げた。
それを切っ掛けに噴水の周りにいた他の人々も一斉に金切り声を上げ、その場から散り散りになって逃げ出していく。
思考の全てが恐怖に飲み込まれたラパンも一瞬だけ後退りかけたが、直ぐにアンジュの存在を思い出して、退いていたその足をぐっと止める。
「……っ、アンジュちゃん!」
そしてラパンは脅える自分を奮い立たせるように叫び、噴水の傍でキメラを見上げたまま動けなくなってしまっているアンジュに駆け寄った。
案の定、アンジュの小さな体は恐怖で震えていて、両の瞳からは大粒の涙がぼろぼろと絶え間なく零れ落ちている。
「ふぃ、ふぃーゆおねえちゃ、っ」
「大丈夫、大丈夫だからね……っ」
縋るようにしがみ付いてきたアンジュをぎゅっと抱き締めたラパンは、噴水の上から自分達を爛々とした目で見下ろしているキメラを見上げる。
どうやら羽を怪我しているらしく、右側だけが力無く下がっていた。それを見てラパンはごくりと生唾を飲む。
(確か、魔物って怪我してると獰猛さが増すんだよね……?)
書庫で読んだ本の知識を思い出したラパンの額と背中にに、じんわりと冷や汗が滲んでいく。
目の前にいるキメラの今の大人しさは、移動に費やした体力を回復させているからに過ぎないだろう。そうして回復したら真っ先に自分達に牙を剥く光景を、ラパンは容易に想像する事が出来た。
(……せめて、アンジュちゃんだけでも)
しかし下手に動きを見せたらキメラを刺激しかねない。そうなったらもう、本当に為す術が無くなってしまう。間違いなく二人とも殺されておしまいに違いない。
「ひっ、く、おかあ、さん……!」
小さい腕の中で、自分よりも小さい体が震えている。
どうにかして守りたい。だけど何も出来ない。
込み上げる情けなさともどかしさに堪えきれず、ラパンの両目にじわりと涙が浮かんでいく。そして白くなる程に唇を噛み締めてアンジュを抱き締めた時、
「ギシャアアアアッッ!!」
「……っ!」
体の底から竦ませる、恐ろしい咆哮が響いた。
滲む視界に映ったのは、自分達の方を向いて非情にも大きな牙を剥くキメラの姿。
紙一枚を隔てるように何の意味が無いのは分かっていながらも、ラパンはアンジュを庇う為にと咄嗟にキメラの方に背中を向けた。
(ああ、駄目だ、もう)
ばさっと大きく羽ばたく音がして、キメラが自分達に向かって飛んでくるのを背中で感じたラパンは諦めに似た覚悟を決めて、ぎゅっと固く目を瞑る。
「……ごめんなさい、ケルトーさん」
そして目蓋の裏に浮かんだ姿に、そっと謝った。
「ーーったく……本当だっての」
潤んだ深紅の瞳が見開かれる。
声も出せずに振り向けば、見慣れた背中があった。
「ケルトー、さん……?」
「おう、散々探したぞ。面倒かけやがって。……あとで叱るから覚悟しとけよ」
目の前の光景が信じられずにいるラパンに、ケルトーは普段通りの調子で言葉を返す。
そして鷲掴んでいたキメラの鼻先を固めた拳で真横から全力で殴り飛ばすと、見事に横方へと飛んでいったキメラに向かってにやりと不敵な笑みを浮かべてみせる。
「さあて、と。……んじゃ、殺り合おうぜ」
ーー其処には、獲物を見つけた狼がいた。
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