迷える兎と天使
二人がプレジールに戻ってきた頃には、太陽は濃い橙色に染まって山の向こうに沈もうとしていた。
街のあちこちでは街灯に明かりが灯り、大通りに並ぶ屋台は新鮮な果物や野菜に代わって、クレープやフライドポテトに串焼きと言った夕飯や酒の肴になるような物を売っている。
更にはアクセサリーや模造品の武器、見るからに怪しげな骨董品などの観光客の興味を惹くような物を売る露天商の姿も見受けられた。
そんな昼間とはまた違った雰囲気の賑わいを見せる大通りの片隅で、ラパンとケルトーは休憩用に設置された長椅子に並んで座り、屋台で買ったばかりの夕飯に舌鼓を打っていた。
「どうだ? なかなか美味いだろ」
「はい、美味しいです」
こくんと頷くラパンの手には、ハムとチーズが巻かれたクレープが握られている。パティやアルカが作る料理に比べたら負けるものの、それでも普段とは違う雰囲気の中で食べているという事もあってか充分に美味しかった。
満足そうにはむはむとクレープを頬張るラパンにケルトーは「そうか」と穏やかな声色で返し、紙の容器に入った熱々のフライドポテトを二個同時に口に放った。
「依頼受付所には明日行くか。今日はもう面倒だし」
「大丈夫なんですか?」
「おう、期限は一週間だったしな。問題ねえよ」
「じゃあ、食べ終わったらパティさん達へのお土産、探しましょうか?」
「げっ……忘れてた。確か彼奴、服の生地と食材がどうとかって言ってたよな……」
これでもかと顔をしかめて面倒臭さを表すケルトー。それを見てラパンは思わずくすっと微笑み、小さな口でまたクレープを一口かじる。
そうして他愛のない会話を交わしながら二人でのんびりと夕飯を食べ進めていると、指に付いたフライドポテトの塩を舐め取っていたケルトーがふと大通りの方を見た。
「……何か騒がしいな」
「え? ……そう言われてみれば、そうですね」
釣られて同じ方向を向いたラパンは、大通りを行き交う人々の様子が少し可笑しい事に気付いた。
賑やかなのには変わりないが、その表情は何処か慌てていたり戸惑ったりとあまり良いものでは無いように見える。
一体何事かと二人が疑問に思った時、人混みの中で誰かが大きな声で叫んだ。
「大変だ! 街の外れにキメラが出たらしいぞ!」
その一言は大通りの空気を一気に変えた。
女性の悲鳴、男性の驚愕の声。屋台の主人や露天商は店の片付けを始め、人々は急いで安全な場所へと避難したり、かと思えば物珍しさからか街の外れへ向かっていく姿もある。
「キメラって……アルカさんが言ってた?」
「だろうな。まあ自衛団とかでどうにかすんだろ。この街の住人じゃない俺達には関係ねえよ」
ケルトーはあっさりとそう言うと、横に置いていたショルダーバッグを肩に掛けて腰を上げる。
「食べ終わったなら行くぞ。あんまり遅くなるとアルカがうるせえからな」
「は、はいっ」
デザートとして食べていた小振りのガレットの残りを口に詰め込み、もごもごと素早く咀嚼し飲み込んで、慌てて立ち上がるラパン。
そしてフードが脱げないようにもう一度しっかりと深く被り直して、前を行くケルトーのマントを掴もうとした、が、
「……えっ?」
その手が、すっと空中を掻いた。
呆気に取られるラパンの小さな体はそのまま後方へと押され、見る見るうちに流されていく。
「おい、ラパン!?」
喧騒に紛れて聞こえた声に、そこで漸くラパンは自分が人混みの波に流されている事に気付いた。
偽名ではなく本名を咄嗟に呼んでしまう程に慌てているケルトーの顔を、押し寄せる人の中に一瞬だけ見つけることが出来たが、一度人混みに溺れてしまったラパンにはもうどうする事も出来ない。
「っ、けるとー、さ……っ」
せめてもの抵抗で手を伸ばしてみようとしても、前後左右から人に押されてしまって阻まれてしまう。
戸惑いと焦り、そして息苦しさにラパンがぎゅっと目を瞑った時、急に体がふっと解放された。目を開いてみれば、どうやら上手い具合に人混みの隙間に押し出されたらしかった。
しかし辺りを見回してみても、ケルトーの姿は何処にも見当たらない。それを認識した途端に一気に心細さが増して直ぐにでも探しに行きたくなったが、ふと脳内で屋敷を出る際にサーヌが言った言葉が蘇った。
《もしも離れちゃった時はその場から極力動かないでね。ケルトーなら匂いで直ぐに見つけてくれるはずだからさ》
その言葉が、ラパンの不安を少しだけ和らげる。
(……そうだよね。ケルトーさんなら大丈夫だもん)
自分に言い聞かせるように内心でそう呟いたラパンは、まずはもう人混みに流されないようにと、傍にあった建物の壁際に移動する。
そしてケルトーが迎えに来てくれるのを大人しく待っていようと思った時、何処かから引きつったような高い声が聞こえてきた。
(……? 小さい子の泣き声?)
微かにだが確実に耳に入ってくる泣き声の元を探し、ラパンはきょろきょろと辺りを見回す。
こんなに騒がしい中でも聞こえてくると言うことは、そう大して離れた距離にはいない筈だと考えて、ラパンは直ぐ傍に見えた路地に近付いてみた。
「あっ……!」
「ひっく……おかあ、さん……どこ……?」
其処では幼女が一人、薄暗い路地の隅で屈み込んで泣きじゃくっていた。年齢はまだ三、四歳と言ったところだろうか、小柄なラパンよりもずっと小さい。
明らかに迷子だと分かるその幼女を心優しいラパンが放っておける筈も無く、今の自分の状況も忘れて幼女へと近付いていく。
小さな膝小僧に顔を埋めて泣いていた幼女も、ラパンが前に来るとその気配を察して顔を上げた。その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃに濡れてしまっている。
「おねえちゃん、だあれ……?」
「え? えっと……フィーユだよ」
「ふぃーゆ、おねえちゃん?」
「うん。貴女の名前は?」
「……あんじゅ」
舌足らずながらもきちんと話をしてくれた事に、ラパンはこっそり胸を撫で下ろす。
そしてアンジュと名乗ったその幼女と目線を合わせる為に腰を屈め、出来る限りの優しい笑顔と声色で問いかけた。
「アンジュちゃん、お母さんは?」
「……っ、おかあさん、さっきまでいっしょだったの。でも、でもね、ひとがいっぱい、ばーってきてね、おかあさん、いなくなっちゃったの……っ」
話しているうちに母親を思い出したアンジュは、また瞳を潤ませてしまう。それに気付いたラパンは慌ててアンジュの頭を撫でてやる。
「大丈夫だよ、アンジュちゃん。えっと、お姉ちゃんが一緒にお母さんを捜してあげるから」
「ほんとう?」
「うん、だから泣かないで? お母さんに会えた時にアンジュちゃんが泣いてたら、きっとお母さんも悲しいよ?」
「……うん、あんじゅ、なかない」
アンジュは小さく頷くとずずっと鼻を啜り、紅葉のような手で自分の目元を擦る。
幼いながらも精一杯に頑張るその姿にラパンは思わず微笑みを浮かべ、アンジュの手をそっと取って立ち上がった。
「じゃあ、とりあえず此処から出よう。此処じゃ目立たないから分かりづらいだろうし……」
「うん、あんじゅ、ふぃーゆおねえちゃんについてくよ」
「有り難う。お母さん見つけようね」
「うん!」
大人しく待っているよりも動いていた方がアンジュの気も紛れるだろうと判断したラパンは、ひとまず街の中を適当に歩くことにした。
(ごめんなさい、サーヌさんにケルトーさん)
本来なら自分は下手に動いてはいけないのは重々承知している。けれど、
(……一人は、嫌だもんね)
いきなり両親と離ればなれになる寂しさも怖さも、ラパンは知っている。だから今、この幼い女の子を一人で放っておくなんて事は絶対に出来ない。
ラパンは心の中でもう一度二人に謝ると、隣できょとんと自分を見上げているアンジュに微笑みかけて、手をしっかりと繋いだまま路地を出たのだった。
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