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狼王と兎少女  作者: 亀吉
本編
1/58

月が眠る夜



 暗く湿った森の奥。

 闇夜に紛れた梟の鳴き声がほうほうと不気味に響き渡る。

 大人でも気が引けそうな雰囲気の中、その少女は静かに歩いていた。

 

 痩せ細った体、枝のような手足。

 服とは呼べないボロ布から覗く肌は、熱を忘れたかのように青白い。

 虚ろな紅の瞳は前を向きながらも、焦点は何処か遠くを見つめている。

 

 見れば見る程に哀れな姿。

 しかし、ある一点がその姿を「悲傷」から「神秘的」なものへと変えていた。


 それは、星明りを織り込んだ銀の髪。


 地に着きそうな程に伸びた髪を煌かせて、少女はただ歩いていく。

 行先などは無い。目的も無い。

 何も無い、空っぽな瞳に夜の森が映る。


(……なに、してるんだろう、私は)


 いつもより軽い足を見下ろす。

 足首に浮かぶ擦り傷は、肌が白い所為で余計に痛々しい。

 けれど、この程度の傷を今更怖がってはいられない。


(朝になったら、きっと、見つかる。見つかったら、きっと)


 自分の居ない小屋を見たら、彼らはきっと森の中を探し回るだろう。

 そして、自分は呆気なく捕まって、今度こそ逃げられないようにされる。

 鍵の閉め忘れが無いようにと足枷をやめて、足自体を切られるかもしれない。

 壁が腐らないようにと、木の小屋ではなくて、洞窟にでも放り込まれるかもしれない。

 でも、そんな扱いをされても当然だろうな、と少女は思う。


(だって、私の価値は……──)


 その時、少女の耳に微かな音が届いた。

 夜風や梟の鳴き声とは違う音に、意識は思わず其方を向く。

 

(……なんだろう)


 真っ先に思い浮かんだのは、獣だった。

 小屋に繋がれている時も、遠くから獣らしき遠吠えが聞こえていたので、その可能性は高いだろう。

 そう思っても、少女は恐怖を抱かなかった。

 もしここで獣に襲われても、朝になって連れ戻されても、少女にとっては同じ事だった。


 音が聞こえた方へと足を向ける。

 茂みを掻き分けて進んでいくと、地面がぐちゃりと音を立てた。

 裸足の裏に濡れた感触。けれど雨は降っていないし、傍に泉や川があるわけでも無い。

 しかし、疑問に思う前にその正体が分かった。


「あ……」


 目の前に倒れ込んでいる、大きな馬。

 真っ白だったであろうその体は、首元から噴き出た血で赤黒く染まっている。

 馬から溢れ出た血が地面を湿らせていたことを知った少女は、可哀想だと思いながら近付いてみた。


「……ユニコーン、だ」

 

 その馬がただの馬ではなく、一本角を持つ馬の魔物──ユニコーンである事に気付いた少女は思わず言葉を漏らす。


 魔物──『何らかの理由で狂暴化、または異常な進化や変化を遂げた生き物の総称』

 それが、魔物について少女が持つ唯一の知識だった。 

 

 初めて見る魔物に興味を持った少女は、屈み込んでその角に恐る恐る触れてみようとする。

 しかし、角の先に血のようなものが付いている事に気付いて手を引っ込めた。

 致命傷は首元の傷だろう。ならば、この血は一体誰のものなのか。


「──……誰だ」

「!!」


 ***

 

 真っ暗な森の中、梟が不気味に鳴いている。

 しかしそれを怖がる事も無く、ただ耳障りだと思いながら黒髪の男は太い木の幹に背中を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。

 左肩をしっかりと押さえた掌の下からは赤色が滲んで衣服を汚し、熱さにも似た痛みが男の呼吸を荒くする。


「…………」


 褐色の肌に鋭い灰色の瞳。脂肪の少ない身体は一見すれば細く頼りないが、見る者が見ればそれはしなやかで強靱な筋肉に纏われていると分かるだろう。


「……ちっ」

 

 そんな男は不機嫌そうに顔を歪めて舌を鳴らす。傷の痛み自体は大したもの──それでも一般から見たらかなりの深手である──ではない。

 では、何が男にとって気にくわないかと言うと、久々に怪我を負った自分の間抜けさだった。

 

(あんな奴に一発食らわされるなんざ、阿呆過ぎる)

 

 先程戦ったばかりの相手を思い出して、男はぎちりと唇を噛み締める。

 しかし額の角で左肩をずぶりと一突きしてきたユニコーンは既にこの世にはいないので、こみ上げる怒りをぶつけようにも相手がいない。

 そのユニコーンの喉笛を噛み千切ったのは紛れもない男自身なのだが。

 口元を汚す生臭い血を躊躇い無く舐め取って、男はふと何気なしに夜空を見上げる。

 

(……ああ、今日は『月眠り』か)

 

 どうにも静かな夜だと思ってはいたが、今日は月に一度訪れる特別な夜だったということに男は漸く気付く。

 何故なのかという原因は誰も知らないが、この世界には月がいなくなる夜があると大昔から伝わってきた。その現象は歳月を重ねるうちに『月眠り』という名前が付けられて、大した知識も無い男すら認識するほどになった。

 

(てことは……ちっとばかし傷の治りも悪いか。畜生、今日は運が悪い……)

 

 それでも一晩もすればこの怪我も薄い傷跡に変わるだろう。寝床に帰るのは朝日が昇ってからでも遅くはない。

 そう思って男は目を閉じようとした。

 

「──……誰だ」

 

 しかし、それは未遂に終わる。

 男は薄く開けた瞳を気配のする方へと向けた。

 

「弱っちい気配だから見逃してやってたが、俺は今から寝るんだよ。そこら辺にいられると鬱陶しい。用がねえならどっか行け」

 

 ユニコーンと戦い終わって少しした頃から感じていた小さな気配に、男は若干の苛立ちを込めながらそう言い捨てる。

 普段の男ならこんな情けを掛ける間も無く殺すのだが、今は怪我をしている所為か動くのも怠かったのだ。

 男の言葉から少しの間を置いて、がさりと茂みが揺れた。

 

「……!?」

 

 相手が本当に姿を現すとは思っていなかった男は、流石に驚いて上体を起こす。

 まさか手負いの自分に油断して戦いを挑んでくるつもりだろうか。

 そんな命知らずは自殺願望のある者か、先程の相手のようにろくな知性を持たないユニコーンくらいである。

 さて、一体どんな奴だと何処か期待した男の前に現れたのは、

 

「……お前、人のガキか?」

 

 角も牙も羽も無い、紛れもなく人間の少女だった。

 それでも男の言葉が思わず疑問形になってしまったのには理由があった。

 

(何だ? コイツ……)

 

 僅かな星明かりの元だというのにも関わらず、少女は白く美しかった。

 折れそうな身体にぼろ布を巻いただけの服から覗く肌は新雪のよう。長い睫毛の下で男を真っ直ぐに見つめる真紅の瞳は何処か虚ろ気だが、それは今にも溶けてしまいそうな少女の儚い雰囲気を引き立たせる。

 そして、長く伸ばされたその髪は、まるで月を織り込んだかのように神秘的な銀色をしていた。

 

「……怪我、してる」

「あ? さっき、ユニコーンと殺り合っただけだ」


 何処か苛ついた声音での言葉を聞いて、少女は漸く気付いた。

 男の口元や手を、生臭い血が汚している事に。

 言葉に詰まった少女を気にする様子もなく、男は己の口元を袖で拭う。拭い切れなかった分は躊躇い無く舐め取った。

 平然と獣の血に塗れる男。

 そんな相手を目の前に、少女は──、

 

「……失礼、します」

「!?」


 おずおずと近付いて、目の前で傅いた。

 そして、己の長い銀髪を持ち上げると、驚いて硬直している男の左肩に被せた。

 途端、傷口を覆う髪が淡い光を帯び始める。


「な……っ!?」


 咄嗟に振り払おうとした男だったが、ふと傷から痛みが引いている事に気付いて動きを止めた。

 確かに回復力には自信がある。薬草や魔法で底上げすれば、短期間での完治も出来る。

 しかし、己の体がここまで速く回復していくのは初めてだった。

 僅かに皮膚が引きつる感覚は、傷口が塞がってきている証拠だろう。


「お前、一体……」

「……一応、あんまり、動かさないでくださいね」

「あ、おい!」


 追及から逃れるように少女は立ち上がり、その場から去っていく。

 後ろから呼び止める声が聞こえたが、無視して茂みを越えた。


「……、……やっちゃっ、た」


 追ってくる気配が無い事を確認した少女は、立ち止まって息をつく。

 そして、今さっき男に宛がった髪を持ち上げて見た。

 傷口に触れされた部分には当然ながら血が付いている。


「見つかっちゃう、かな……」


 もし、今から「いるべき場所」に戻ったとしても、この血痕を見つけられたら、他人との接触を知られてしまうだろう。

 そうなればきっと、今度こそ自分は閉じ込められる。

 

(……だけど)


 今更、逃げ出してどうなるのだろう。

 この森を出られるかも分からない。出られたとして、その先は?

 少女は賢かった。碌な勉強もさせてもらえていなかったが、それでも同年代の子に比べたら賢かった。

 だから、動けなかった。


 この森に留まっても、逃げ出しても、未来は暗いと悟ってしまっていたから。


***


 少女が消えていった茂みの向こう側を呆然と見つめる。

 男は腰を浮かせていたが、今の出来事があまりにも非現実的な所為で追い掛ける気になれず、そのまま再び座り込んだ。


「……何なんだよ、今の」


 呟いて、ふと左肩に銀色が煌いているのを見つける。

 手を伸ばして摘んでみれば、少女の髪だった。

 たった一本の髪。しかし、捨てる気にはなれなかった。

 夜空に翳すと、その銀の輝きは星に似ていた。儚くも確かな色。

 

「──……」


 それは、引き寄せられるようだった。

 男はその銀色を鼻先に寄せる。

 仄かに、それでいて頭の奥にまで届く、花に似た甘い匂い。

 くらりとしたところで男は我に返り、慌てて顔を離す。


「……っ、今夜は一体何だってんだよ」


 緩く首を振って、独り言ちる。

 試しに左肩を回してみても痛みは無い。完璧に治っていた。

 それでも意識は何処かまだぼんやりとしていて、腰を上げる気にはならない。

 男は小さく息を吐くと、目を瞑ったまま夜空を仰いだ。


 目蓋の裏で、煌く銀色を感じながら。


 ***


 森の奥にひっそりと建てられた、今にも崩れそうな小屋。

 その小屋の中、片隅の床板が剥がされた下に続く階段を下りた先に、少女はいた。

 土の床はいつも冷たく、寝床として置かれた藁の上が少女の定位置だった。


(……あ、)


 小さな体を丸めて横になっていれば、誰かの足音が聞こえてきた。

 起き上がった少女は、昨夜抜いてしまった枷がきちんと足首に嵌っている事を確認する。

 そして、土で汚した手で、銀髪にこびり付いたままの血痕を撫でた。


「おい、飯持ってきたぞ」


 やって来た青年の片手には、小さな器に木の実や果物が適当に盛られている。

 何だか久しぶりな気がする、と少女が思っていれば、青年は面倒臭そうに言った。


「すっかり忘れてたぜ。ま、一日一食でも大丈夫だろ」


 それを聞いた少女は、自分がほぼ一日、何も食べていなかった事を知る。

 地下から空を見る術はないが、恐らく今は夜なのだろう。

 器を受け取ってそんな事を考えていれば、不意に顎を掴まれた。

 

「きゃっ……!?」

「何で自分が王様はこんなガキを飼い殺しにするかねぇ? 髪がどうとかって噂には聞くが……」


 そう言って青年は、少女を舐め回すように眺める。

 通しただけの足枷や髪の血痕がバレないかと緊張していれば、突然視界が反転した。


「……っ!!」


 手から落ちた器から、木の実や果物が散らばった。

 背中に衝撃を受けて息が詰まる。

 気が付けば、下卑た笑みを浮かべた青年が覆い被さっていた。


「ま、見た目は悪くねぇしなぁ……。遊ぶ金がカードで飛んでったから、丁度良いな」


 ねっとりと欲に塗れた声が降り注ぐ。

 

「お前の事を他人に話すなとは言われてるが、他の事は止められてねぇしな。一度くらいは良いだろ」


 大きな手が少女の細い腿を撫でる。

 厭らしい手付きにぞくりと悪寒が走るも、それは一瞬だった。


(……何だって、いいや。どうせ、私は)


 少女の紅の瞳から光が消えていく。

 己の欲に溺れた青年がそれに気付く筈もなく、少女の体を包むボロ布に手を掛けた。


「何してやがる、お前」

「はっ?」


 いる筈のない第三者の声に、青年は思わず手を止めて振り向く。

 それが彼の最期の行動だった。


 どさり、重たい音を立てて青年が倒れる。

 一気に立ち込める血の臭い。

 地面に点々と散らばる、赤黒い何か。


「やっぱり、人間は不味いな」


 聞き覚えのある声に、少女の意識はゆっくりと現実に戻ってくる。

 視界に映ったのは、鮮血に汚れた口元を拭う男の姿だった。

 昨夜と重なるその姿に、少女は自然と起き上がる。


「……大丈夫、ですか?」


 あまりにも一瞬の出来事だったので見えなかったが、男の表情が酷く険しいものだったので、少女はついそう問い掛けた。

 すると、男は薄い赤色の唾を地面に吐き捨てて、自分を見上げる少女を真正面から見下ろした。


「お前は、俺が怖くないのか?」


 何故、自分がこんな言葉を零したのか、男にも分からなかった。

 返ってくる答えなんて予想出来るというのに。

 それでも、男は少女の答えを待った。

 そして、少女は答えた。


「怖くありません」


 目の前で人間を噛み殺した男に、少女は目を逸らす事もせずに言った。

 真っ直ぐな視線からは嘘の臭いは微塵もしない。

 ここに来る為に辿って来た、甘く柔らかな匂いだけが鼻を擽る。


「そうか」


 その答えに、男は灰色の瞳を細める。

 それから、少女の足首に嵌っていた枷を難無く外すと、小さな体を片腕で軽々と抱き上げた。

 男のそんな強引な行動にも少女は動じず、されるがままに運ばれていく。


「お前、名前は」

「……ラパンです」

「そうか。俺はケルトーだ、覚えろ」

「……はい」


 そんな会話を交わしながら、男と少女は小屋を出て、森の奥深くへと消えていく。


 偶然と気紛れが交差することを運命というならば、恐らくこれは運命だった。

 けれど、そんなことは誰も知る由もない。

 勿論、男も少女も気付かないまま。


 月が綺麗な夜の事だった。


.

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