月のレクイエム
思ったよりも長くなってしまいました(汗)
主がいなくなってから、どれだけたったのか解らないピアノのレッスン室。
ガランとした20畳程の部屋には、埃を被ったピアノが一台ポツンと置かれていた。
月の光だけが優しく擦りきれたカーテンの隙間から、まるでスポットライトのようにピアノを照らしている。
そのピアノの上には手のひらに乗る位の小さなバレリーナの姿をしたオルゴールの人形が、これも埃を被って置かれていた。
どれだけの年月がたったのか人形とピアノには解るはずもなかった。
けれど、いつの間にか自我を持つようになっていた人形は、かつてのようにターニャと呼ばれ、主である青年が嬉しそうに弾いていたピアノの音と共にまた踊りたかった。
――もう一度あの頃のように……一日でも一夜でも良いから、ご主人様の弾くピアノと一緒に踊りたい。
そう願いながら、過ぎ去りし日々を想い続けていた。
青年が春、明け始めたばかりの早朝に、小鳥のさえずりと共に鈴を転がすように弾いていた事。
夏の暑い日中に、セミのコーラスをバックに賑やかに笑い声さえも華やいで弾いていた時。
葉擦れの音が涼やかに夜の夕べを語るのに併せて、静かにたゆとうように弾いていた日。
雪の夜の降り積もる静かなる音に耳を傾けながら、ゆっくりとどこから響いているか解らないように、密やかに弾いていた夜。
その横でそれに併せて踊っていた日々にターニャは戻りたかった。
そんな願いを誰かが聞いたのか……はたまた何かの悪戯か?
いつもより少し青い月がピアノを射し照らすと、ターニャを人の姿へと変えていました。
何が起きたのかも解らないターニャは、まるで今目覚めたばかりのように、眼をしばたたかせ茫然としていました。
いつもと違う視点に驚きながらも、キョロキョロと周りを見ているうちに、バランスを崩してピアノから落ちました。
ターニャは「壊れる」と思い怯えたけれど、ドサッという音と落ちた時の身体の鈍い感触に驚いただけだった。
――壊れてない?
ターニャは起き上がると、自分が動ける事と身体の妙な感触を不思議に思いながらも、青年が探せると思い、扉から表へと喜んで飛び出して行きました。
――これでご主人様を探せるかも知れない……。
~・~・~・~・~
それから、一時間後。
ターニャは薄暗い夜道を宛てもなく歩いていました。
ターニャは扉から出れば青年がすぐに見つかると思っていましたが、現実は甘くはなかったのです。
扉を開けると目の前は真っ暗な廊下でいくつかの扉へと繋がっていました。
――どうして……誰もいないの?
そのどこにも人の気配はなく、不思議に思いながらターニャは一つ一つ扉を開けて確かめていきました。
けれど、どの部屋もただ、暗闇だけが支配する空間でしかなかったのです。
――ご主人様がいた頃はあんなに一杯いたのに?
首を傾げながら人を探し続けるターニャには、人形だった当時いた人たちが、客や使用人ばかりだった事を知る由もなかったのです。
屋敷の中に他に探す所が無くなったターニャは、悩んだ末仕方なく人を求めて外に出る事にしました。
――外にいる人に聞けば誰かご主人様の居場所を知ってるかも?
意識を持ち始めて以来、初めて庭以外の外へとターニャは踏み出す事にしました。
屋敷から灯りを求めて一時間以上歩いても誰にも会う事はありませんでした。
ターニャには昼夜の感覚も寝るという事も解らないので、歩いていけば青年に会えると思っていたのです。
やっと、街まで辿り着くと、ちょうど一つのドアが開き灯りが洩れてきました。
――あ、あかり♪
灯りがある所には人がいるはずと思い、ターニャは慌てて灯りの方へ走り出しました。
すると、その中から人が三人出て来ました。
一人は無理やり突き飛ばされるような形でした。
ターニャはその光景を驚きながら見つめていると、突き飛ばされた人の顔は主である青年にそっくりでした。
「ご主人様!?」
驚きながらも、ターニャは青年の元へ駆け寄りました。
店の前にいた三人は叫ぶターニャを訝しげに見つめました。
ターニャはそんな事はお構いなしに、主に似ている青年に抱き付き、勢い込んで言いました。
「ご主人様、ピアノを弾いて下さい。」
キョトンとしている青年にターニャは哀しそうに聞きました。
「レイノルド様? ターニャをお忘れですか?」
けれど、青年には全く覚えはなく『人違いだよ』と優しく諭しました。
そんな二人にはお構い無しに酒場のマスターはウェイターと店の中へと入ろうとするマスターに青年は慌てて声をかけました。
『もう一杯だけ』
しかし、マスターにすがり付こうとする青年の裾をしっかりとつかんで離さないターニャ。
それを見て青年はマスターに交渉を持ちかけました。
『マスター、この娘に中で踊らせたら、一杯飲ませてくれませんか?』
青年はターニャの薄着と今の状況打破に一石二鳥を狙ってみたのです。
マスターはターニャを値踏みするようにジロジロと不躾に眺めました。
人形だったターニャは見られている事にも別に気にもせず青年を見つめています。
マスターは納得すると、青年の交渉を受け入れ、二人を店の中に招き入れました。
店の中に入ると青年はマスターを待たせて、今度はターニャと交渉しました。
『すまないけど、君がこの店のピアノの側で踊ってくれるならピアノを弾けるんだけど、どうかな?』
青年はちょっと、申し訳なさそうにターニャに言いました。
ターニャは望んでいる事を言われて、否やも何もありませんでした。
「もちろんです。私はいつも横で踊っていたのですもの♪」
ターニャは少し首を傾げて、まるで何を今更言っているのだろうと言う顔をしました。
青年はそれを聞くとホッとしながら、ターニャを連れて店の奥のピアノの側に連れて行きました。
青年は古ぼけた少し調子の外れたピアノの前に座り、ターニャを促すとピアノを弾き始めた。
ターニャはその音色に合わせて楽しそうに何の疑いもなく踊っていた。
そして、ターニャは彼こそがレイノルドに間違いないと確信しました。
青年は一通り弾き終わると席を立った。
終わった事に気付いた客達が、ターニャに酒を注がせようとするのを制して、青年は軽くターニャを押すようにカウンターへ移動しました。
青年が席に着くとマスターが二人に酒とジュースを出してくれた。
『ピアノ上手いんじゃないか? このままここで彼女とピアノ弾きとして雇おうか?』
『あんなの弾けたうちに入らないし、もうピアノを弾く気はないので……こんな事でもなければ弾きませんでしたよ。』
マスターの申し出に自嘲気味に青年はピアノ弾きの仕事を断って、酒を煽るように飲み干した。
マスターもここに来ている客が訳ありなのが多いのを解っているので、それ以上は言いませんでした。
それから数時間後、店も終わり客も退けた店内で上機嫌に酔っている青年がターニャに寄り掛かりながら店を後にしました。
~・~・~・~・~
「ご主人様、お家に帰りましょう?」
そう言って屋敷の方に足を向けると、青年が指で方向を指しました。
「屋敷は反対ですよ?」
けれど、青年はそれを聞き入れず、ターニャは言われた方角へと足を運びました。
――久しぶりにご主人様と一緒だし、辿り着かなかったら引き返せばいいわね♪
そして、ターニャは青年に道案内されて寂れたアパートに着き、その中の扉の一つを開けると、青年はベッドに倒れるようにそのまま寝てしまいました。
仕方なくターニャはドアを閉め、そのまま朝まで青年が目を覚ますのを横で待ちました。
青年は隙間から覗く日の光に起こされ目を覚ますと、横で座ったまま眠るターニャに驚いた。
二日酔いに頭を押さえながら、昨日の事を思い出した青年はターニャを揺すり起こし、ぼんやりと目を開けるのを待って青年は説明を求めました。
『えと、た、ターニャ?……起きて、なぜここにいるの?』
それに対して反応の鈍くなっているターニャは『レイノルド様』と昨日と同じように抱き付いてきました。
青年は慌てて押し留め、自分は『透貴』と言って『レイノルド』ではない事をターニャに告げました。
『ぅうわぁ……た、ターニャ、ち、違うよ? 他人の空似で、僕は透貴って言うんだ。 レイノルドなんて名前でもないし、君のご主人様でもないんだよ?』
けれど、ターニャは全く信じませんでした。
――どうしたら信じてくれるんだろう……。
何度説明してもターニャは聞き入れず、『ご主人様♪』と透貴を呼びました。
そこで、透貴はターニャとレイノルドと言う人を探してあげる約束をしました。
『とりあえず、家に送るよ? ターニャの家はどこにあるの?』
「ご主人様はお家も忘れてしまったのですか?」
『レイノルドさんの家を僕が知るわけはないんだよ……案内して貰えるかな?』
何度目かのため息を透貴は吐きながら、ターニャと朝食を食べてから、屋敷へ向かう事にした。
透貴が立ち上がり、出掛けようとした時、『くぅ~』と二人のお腹がなったからです。
『とりあえず、朝ご飯を食べてからにしようね?』
透貴が立ち上がり、キッチンの方に行こうとすると、『朝ごはん?』とキョトンとしながらターニャが着いて来た。
――レイノルドさんの所と言い方が違うのか……箱入りのお嬢様?
けれど、ターニャはトーストも目玉焼きを見せても、それが食べ物とは解らず、食べ方も知らないようでした。
食べ方を教え、外に出るにはターニャのバレエのチュチュのような格好では寒いので、服を借りてきて着せてあげました。
――服の着方も知らないって……どれだけお嬢様なの?
それから、やっとレイノルドの屋敷へと向かいました。
~・~・~・~・~
それから、数時間後……。
――こんなに遠いとは…車で来るんだった……。
それに対して、ターニャは全く疲れている感じはなかった。
聞いていたレイノルドの屋敷を、初めて見て透貴は驚いた。
どう見てもそれは、『廃墟』としか言い様のない有り様だった。
――人が住んでた形跡所か、オバケが出ても不思議はない位古いぞ……からかわれたのか?
そんな透貴を気にもせず、無邪気に案内をしようとするターニャに嘘を付いている素振りは一切ありませんでした。
「ご主人様♪ ピアノ室はこっちです♪ 是非弾いて下さいね♪」
嬉しそうに引っ張ってピアノ室へと連れて行かれた。
連れて行かれたピアノ室は埃だらけで、随分使ってなかった事が見てとれた。
「私はこのピアノの上でいつも踊っていたんですよ♪」
嬉しそうに語るターニャを見て、透貴は頭を抱えた。
――厄介な娘拾っちゃったな……。
そんな透貴には気付かず、ターニャは引っ張ってピアノの前の椅子に座らせた。
「ご主人様、弾いて下さい♪」
眉間にしわを寄せつつ、ピアノの埃をを払うと鍵盤を押してみたが、長い間調律もされてない上、手入れもされていなかったピアノは鈍い音しかしなかった。
「長い間弾いて貰えなかったから、ピアノさん、拗ねてるみたいです。」
そう言ってターニャはクスクスと笑い出しました。
透貴はこの状況に困りながらも手がかりを探す為に色々聞いてみました。
『レイノルドさんはいつ頃、どうしていなくなったの?』
「随分前にピアノを弾いていて倒れて、そのまま、病院という所に連れて行かれた時以来です。」
『ここの家の人たちを見かけなくなったのは、それからどの位してから?』
「最初のうちはお掃除とかしてたけど、それから少しして見かけなくなったの。」
――具合が悪くなっていなくなったのか……捨てられたわけじゃなかったんだな……まだ、入院中か……あるいは既に……。
『ターニャはその時、誰かに引き取られたりしなかったのかい?』
「私はご主人様のお気に入りですもの……そんな人はいなかったわ……それに……昔、壊れた時にみんなにご主人様は『捨てろ』と言われた位ですから、誰も欲しがらないわ?」
『じゃあ、レイノルドさんがいなくなった後もここにずっといたの?』
「そうよ♪」
『その間、誰が君の面倒を見てくれてたんだい?』
「誰もその間、ここに来なかったわ。」
――レイノルドさんが亡くなって、その後の記憶を無くしてしまう程のショックな事が何かあったんだろうか?
透貴は一通り聞いた後、考えをまとめると彼女をこのままにしておけないと思った。
『とりあえず、レイノルドさんはここに帰って来てないようだし、探すにしてもここじゃ人がいないし、街に戻ろう?』
――『壊れた』という表現からして、もしかしたら施設にいたかもしれないし、この家の情報を集めないと彼女がいた所を知るのは無理そうだ。
ターニャはちょっと、哀しそうな顔をしたが、『はい』とうなずくと大人しく僕の後を着いてきた。
~・~・~・~・~
二人はまた、それから数時間かけて街に戻り、昨日の酒場へ寄った。
透貴は重い気持ちを振り払うようにマスターに声をかけました。
『マスター、昨日の話だけど……まだ、有効なら雇ってくれないかな?』
マスターは訝りながらも承知してくれました。
『構わないが、昨日の今日で何の変化があったんだい?』
『彼女を当分養わないといけなくなってね…。』
やれやれと言う感じのジェスチャーをしながらマスターに愚痴った。
『厄介事を背負い込んだか。』
笑いながら賃金の話をしてくれた。
そのついでに山の中にあった別荘の話を聞いてみた。
『そういえば、マスターは北の方にある屋敷というか別荘の持ち主を知らないか? レイノルドとか言うみたいなんだけど?』
曖昧な情報でも少しでも見つけないと今のところ、彼女の情報だけでは足りな過ぎた。
『レイノルドなんて人は知らないが……昔、どっかの坊っちゃんピアニストが住んでた話は聞いた事がある位だが、そいつが亡くなって以来、夜な夜なオバケが出るって言うんで、未だに買い手が付かないらしい。』
――やっぱり、既に亡くなってたか……。
『確かに出そうな感じでしたが、ピアニストの幽霊が出るんですか?』
『見て来たのか? なんでも女の話声がするらしい……南通りの不動産屋が管轄らしいから、借りるなら安く貸してくれるんじゃないか?』
マスターは親切に不動産屋を教えてくれた。
『まぁ、街に通うには不便だろうな……』
誰に言うでもなくボソッと付け足した。
――とりあえず、不動産屋で持ち主の情報を聞いてみよう。
『話ありがとうございました。 店が始まる頃に仕事に来直しますね?』
マスターに礼を言い、一旦、家に帰る事にした。
――まだ、ターニャにはレイノルドが亡くなってる話はしない方がいいよな?
『当分はあの店で働きながら、レイノルドって人の事を探すから、頑張って踊って下さいね?』
「はい♪ ご主人様がピアノを弾いてくれるならいくらでも喜んで踊ります♪」
ニッコリと満面の笑みで答えた。
そして、マスターが不動産屋さんを教えてくれたから、明日行ってみるという話をした。
ターニャも行くと言ったが、レイノルドの件を聞かれないように、今回は留守番させる事にした。
そして、夜は昨日と同じようにピアノを弾いてる側でターニャに踊らせた。
見ているとターニャは体力があるのか踊っていると疲れを知らないようで、こちらが弾き疲れて休憩を取るまで、踊りを止めなかった。
次の日、不動産屋に行って、話を聞いてみたが、先代の頃に入った物件で詳しい事は何も解らなかった。
借りるなら、リフォームが必要だが、安くしますよと言われただけで、先代が来月帰ってくるので、話はその時に聞く事になった。
それから、一月の間、店と家の往復と情報収集の日々に追われたが、あんまり状況は芳しくなかった。
その間、ターニャは僕を『ご主人様』と呼び続けたし、ピアノの練習をさせられた。
~・~・~・~・~
一月後……僕は嫌な記憶を呼び覚まされると同時に驚く事実が出て来た。
そう、先代の社長がこちらに来たと連絡を受けたので、また、ターニャを置いて不動産屋に行った。
最近では、ターニャは家事を随分覚えたので、一人で置いておいても心配はなかった。
――最初の頃は酷かったからな……掃除すれば、反対に散らかるし、洗濯はなぜか、全て千切れてたし、料理は……スプラッター化してたからな……根気良く仕込んだよな……。
そんな事を思い出しながら店に着くと、先代の社長のゴードンさんの話によると、あの別荘は売り家ではなく、ある金持ちから預かっているだけで貸す事も出来ないと、にべもなく言われた。
『あんたが借りたいって……物好きな人ですか? 申し訳ないが、あの別荘は預かってるだけなので貸す事も売る事も出来ませんので、お帰り頂くか他の物件を紹介しますよ?』
『いえ、あそこに住むつもりは全くなくて、あの別荘の持ち主とレイノルドという人を探してるだけなんです。』
『レイノルド? 残念ながら、そんな名前の方は知りませんね?』
『えっ? 持ち主だったピアニストの名前ではないのですか?』
『ん? 確かに……最後に住んでいたのはピアニストらしいですが、100年以上も前の話ですし、名前までは聞いておりませんでしたが、どちらでその名前を?』
『その人の知り合いからですが……100年以上前の話……』
驚いている僕に気付かず、ゴードンさんはしきりにうなずきながら、言葉を続けた。
『あぁ、キングスベリー家のお知り合いの方でしたか? それなら最初から言って頂けたら良かったのに、あの別荘を使う気になられたんですね♪』
僕は頭を殴られたような衝撃を受けながら、ゴードンさんに聞き直した。
『今、誰の別荘だって言いました?』
ちょっと、僕の顔色が変わっていたのかもしれないが、ゴードンさんは少しオドオドしながら答えてくれた。
『キングスベリー家の別荘ですよ?』
――キングスベリー……キングスベリー……キングスベリー……騙された。
僕はそのまま、不動産屋を飛び出し、後ろの声も聞かずに家に向かった。
~・~・~・~・~
――キングスベリーだって……今更、何の用が僕にあるって言うんだ……ターニャが嘘を付いていたなんて……今更なぜだ。
家に向かう途中、あの頃の事を思い出していた。
母が亡くなって、父の実家に引き取られたのが、キングスベリー家だった。
名門の家だったらしく、色々と厳しく躾られ、その時にピアノも覚えさせられたのだが、なぜか、それは一番とても酷く辛い授業だった。
それでも、他に行く所がなかった僕は必死になって覚えようとした。
音大を受験をさせられたが、結果は惨憺たるもので受からなかった。
音大を落ちたと同時に家を追い出され、幾ばくかの金を持たされて今に至るのだ。
――今更なんの用でターニャを使って、僕にこんな事をさせたんだ。
――ターニャはそんなに嘘がうまかったのか……。
そんな事をグルグルと帰る道すがら考えていた。
家に着くと文句を言おうと思っていたら、扉を開けた瞬間にいつもの調子でターニャが飛び出して来た。
「お帰りなさい♪ ご主人様見て♪ コンクールの募集のポスター見つけました♪ 出ませんか?」
それを見た瞬間に僕はターニャを怒鳴っていた。
『いい加減にしてくれ!! まだ、俺にピアノをさせたいのか? 落ちて必要無くなったから放り出した癖に!!』
怒りに任せてターニャには意味が解らないだろう事は解っていたが、止まらなかった。
『いくら貰ったのか知らないが、レイノルドなんてとうに亡くなった男まで使って僕を騙して楽しかったんだろう!!』
キョトンとした顔で聞いているターニャに八つ当たりして、言うつもりもなかった彼が亡くなっている事を言っていた。
『簡単に騙されて面白かったろうが、バレたんだから大人しく消えてくれ!! 何が目的だったか知らないが、二度と僕の前に顔を見せるな!!』
そう言って彼女を外に放り出した……彼女が彼の死を聞いて泣き始めていた事さえ知らずに。
「ご主人様~」
哀しそうな涙声で少しの間、呼びながらドアを叩いていたが、諦めたのか静かになった。
僕は布団をかぶったまま、彼女の気配が消えるまでジッとしていた。
その日、酒場には行かずそのまま寝てしまった。
次の日、少し落ち着いてはいたが、久しぶりにというか追い出されて以来、初めて家に連絡した。
『あんな卑劣な手段まで使って僕に何か用でもあったんですか? もう彼女の件はバレましたから二度とこんな事しないで下さいね!!』
そう言って切ろうとすると、思ってもいない反応をしてきた。
『何の話だ? 一度も連絡して来ないから心配してたんだが、何とか暮らせてると思っていたんだが、そろそろ資金が尽きたか?』
それは思っていたより優しい声で父が聞いてきた。
けれど、まだ怒りの解けていなかった僕は続けて怒りを顕にしていた。
『出来の悪い僕を、落ちたから放り出した癖に何を言ってるの? ターニャに監視させて、レイノルドなんてピアニストの名前まで使って騙した癖に!!』
『ターニャ……レイノルド? 一体それは誰だい?』
『とぼけないでよ? もう全部バレてるんですからね!!』
『本当に何の事か解らない。 確かに……お前を家から出したが、お祖母様からお前を引き離す為にだったんだが、誤解させたなら済まなかった。』
父の本当に済まなそうな声の謝罪に、毒気を抜かれた僕は少し泣きながら言い募った。
『ターニャを知らないって言うの? レイノルドって亡くなったピアニストを探してるなんて言ってた女の子だよ?』
『私は全く知らない。お祖母様がもしかしたら、差し向けたのかも知れないが、こちらで少し調べてみるから、そこに少し居させて貰いなさい。 お金がないのなら南通りの不動産屋に借りておきなさい』
『本当に…本当に知らないの?』
疑う僕に父は『誓って』と言って電話を切った。
――父さんは知らなかった……じゃあ、彼女はなぜ、あんな嘘を?
考えても何も浮かばず、借りた毛布に包まりながら、ターニャの事を考えていた。
それから、数時間がたった頃、父から連絡が来た。
内容はお祖母様もターニャの件は知らない事とレイノルドについてだった。
『ターニャに付いてはお祖母様も知らないようだ。ただ、レイノルドはお前に似た人だったらしい。お祖母様の叔父に当たる方でピアニストとして嘱望されていたが、白血病を患い、静養でそこの別荘に住んでいたという事だ。』
『とうの昔にその人は亡くなってるんですよね?』
もう怒りも収まっていた僕は父の話を素直に聞いていた。
『あぁ、100年程前にお祖母様が幼い頃に亡くなったそうだ。お前がその人に似ていた上に、それなりに音楽の才もあったから、お祖母様は過度にお前に強いて済まなかったと伝えて欲しいと言っていたよ?』
『お祖母様が…そんな今更……あんなに僕を叱っていたのに……。』
『お祖母様なりにお前を可愛がっていたつもりらしい。お前は私のせいで屋敷では肩身が狭かろうと考えていたようだから?』
『ターニャはじゃあ、どうしてレイノルドの事を知っていたんだろう?』
『さぁ、それは解らないが、その辺りでは幽霊屋敷として有名なのだろう? それでからかわれたんじゃないのか?』
『この辺りでレイノルドさんを知ってる人はいなかったんだけど……』
納得行かなそうな透貴の反応に父は答える術は何もなかった。
『まぁ、落ち着いたら一度帰って来なさい。お祖母様ももうあんな無理は言わないと反省していたからね。』
『ありがとう……すぐにとは言えないけど、もう少し落ち着いたら、一度顔見せに行きます。では…。』
そう言って言葉を濁して電話を切った。
――一体ターニャは何者だったんだろう?
――とりあえず、明日、あの別荘に言ってみよう。
そう決めて透貴は眠りに着いた。
~・~・~・~・~
その頃のターニャは、あの後、ドアを叩くのを諦めて透貴が落ち着くまで別荘に行っている事にしました。
別荘に行く前に酒場に立ち寄り当分、お休みしますとマスターに挨拶してから別荘に向かいました。
『透貴が落ち着いたら、迎えに行くように言っておくよ。』
その言葉に礼を言いながら、マスターに透貴の事を頼んだ。
「ご主人様の機嫌が直ったら、よろしくお願い致します。」
それから、一時間半程してターニャは別荘に着いていた。
――ご主人様は何を怒っていたんだろう?
ターニャは中に入るとピアノ室に行き、ピアノの側に腰掛けて寄り添った。
ピアノに話しかけるように透貴の事やレイノルドが既に亡くなった事をピアノに教えて、話しているうちにそのまま、寝てしまった。
次の日も透貴の迎えを待ちながら、ピアノに透貴の事を話していた。
「レイノルド様が亡くなってるのを知らない頃から、もう私には透貴様がご主人様になっていたみたい。」
「透貴様はレイノルド様には負けるけど、ピアノは上手だった。」
そんなとりとめもない話をピアノにしていました。
「もう一度、透貴様のピアノの音に合わせて踊りたいな…。」
そんなことを話した時に、また、青い月の光がキラキラとターニャに降り注ぎ、ターニャを元の人形の姿に戻しました。
――レイノルド様を私が忘れてしまったから元に戻ってしまったのね……。
人形に戻った自分を少し哀しく思った。
そして、ターニャの意識も無くなりかけた頃、透貴はピアノ室に来て、ターニャを呼んだが見当たらなかったのです。
『やっぱり、怒っていなくなってしまったのか……。』
透貴が切なそうに言いながら、ピアノの鍵盤を触ると軽やかな音と一緒に何かを蹴った。
見てみると、手のひらに乗る位のバレリーナの人形が転がっていた。
――これは……最初に見た時のターニャに似てる?
そんな事はないかとピアノの上に人形を置いた時、微かに『ご主人様』と聞こえた気がした。
『ターニャなの?』
透貴はここに初めて来た時にターニャが言っていた言葉を思い出した。
「私はこのピアノの上で踊っていたんですよ♪」
信じられないという顔で透貴は人形を見つめました。
――確かに……これならピアノの上に乗っていられたし、レイノルドを知っていても不思議はない…でも、そんな事があるわけがない……。
けれど、透貴はその人形に声をかけました。
『ターニャ、もう少し待っててくれないか? ここを手に入れて、君をこのピアノの上でまた踊らせてあげるよ。それまで僕のポケットの中で我慢してくれないか?』
そう言うとターニャをポケットに入れて、ピアノにも『待ってて』というように軽く鳴らすと外へと飛び出して行きました。
それから、数年後。
透貴はいくつかのコンクールを経て、ピアニストとして舞台の上にいた。
綺麗に磨かれて調律されたピアノの上にはバレリーナの小さな人形が乗っていました。
――今日も二人とも頼むよ。
そうターニャとピアノに声をかけると弾き始めた。
ターニャはクルクルと嬉しそうに回った。
――ご主人様♪
〆
実はこれは裏Ver.を書いてて途中で表に変えた話です。
そのうち、気が向いたら裏Ver.も出すかも?(汗)