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婚約破棄されたので“婚約破棄保険”を申請したら、王家が破産しかけています

作者: カルラ
掲載日:2026/05/18

王立学院の卒業記念舞踏会は、一年で最も華やかな夜だ。

大理石の床にシャンデリアの光が反射し、色とりどりのドレスが花のように揺れる。

貴族の子女たちは笑い、踊り、明日への期待に目を輝かせている。

私——セシリア・アークライト侯爵令嬢は、その輝きを壁際から静かに眺めながら、ひとつの確信を胸に抱いていた。

今夜、何かが起きる。

直感ではない。

根拠がある。

レオニス王太子殿下の視線が、三日前からおかしかった。

私を見る目に、どこか後ろめたさがにじんでいる。

加えて侍女の報告によれば、男爵令嬢マリエッタ・ローウェルとの接触が、直近一ヶ月で十七回にのぼっている。

殿下の婚約者は私であるにもかかわらず、だ。

積み重なった状況証拠は、十分すぎるほど一方向を指し示していた。

だから私は今夜、いつものバッグとは別に、書類鞄をひとつ余分に持参していた。

万が一がありますので。

この口癖のせいで、侍女たちにはよく呆れられる。

だが私にとって「万が一」は笑いごとではない。

この貴族社会で生きていれば、婚約破棄など珍しくも何ともない。

冤罪、政略破談、突然の国外追放——どれも「まさか」の顔をした現実として、この国の歴史に繰り返し刻まれてきた出来事だ。

世間が「まさか」と言うものほど、実は起こりやすい。

それが私の経験則だ。

だから三年前、ある商会の新事業を耳にした瞬間、私は迷わなかった。

『王都中央補償商会』の提供する、貴族向け破談保険——。

加入内容は、婚約破棄保険、名誉毀損保険、冤罪訴訟保険、国外追放保険、精神的苦痛補償特約の全てを網羅したフルプラン。

最上位等級での加入だ。

毎月の掛け金を見た父が渋い顔をしたので、

 

「万が一がありますので」

 

と申し上げたところ、父は三秒ほど目をつむり、それから黙って承認印を押した。

あの判断が正しかったと、今夜ようやく証明されることになる。

舞踏会が始まって一時間が経った頃、予感は現実に変わった。

ダンスフロアの中央で、レオニス殿下が立ち止まる。

その隣には、薄桃色のドレスに身を包んだマリエッタ嬢。

彼女の目には、じわりと光るものが浮かんでいた。

仕込まれた涙か、素の感情かは判断しかねるが、どちらにせよ今の私には関係がない。

殿下が声を張り上げた。

 

「セシリア! お前との婚約を破棄する!」

 

会場がざわめく。

グラスを持った手が止まり、扇が閉じられ、百九十三の視線が一点に集まった。

絶好の舞台設定だ、と私は冷静に観察した。

殿下は続ける。

 

「お前はマリエッタをいじめていた! 彼女を傷つけた罪は重い!」

 

マリエッタ嬢のすすり泣く声が、静まり返った会場に響く。

誰かが息をのむ音がした。

これが普通の令嬢なら、泣き崩れるか、反論するか、顔を赤くして立ち尽くすかのどれかだろう。

私はどれもしなかった。

スカートの裾を軽くつまみ、丁寧に一礼する。

 

「承知いたしました」

 

そして書類鞄から、一枚の申請書を取り出した。

 

「では、保険申請を行います」

 

沈黙。

完全な、沈黙。

 

「……は?」

 

殿下の声が、間の抜けた疑問形で空気に溶けた。

私は書類に目を落としたまま、淡々と答える。

 

「王都中央補償商会、破談保険契約番号C-0047号に基づく申請です。婚約破棄事由が公開宣言の形式をとった場合、即時申請が可能と規定されております。今がちょうどその状況に該当いたしますので」

 

殿下は口をぱくぱくとさせていた。

金魚に少し似ている、と思ったが、声には出さなかった。

品がないので。

数分後、会場の扉が静かに開いた。

黒いスーツに身を包んだ集団が、整然と入場してくる。

先頭を歩くのは、銀縁の眼鏡をかけた青年——アルヴィン・ハーロウ幹部補佐。

王都中央補償商会きっての敏腕と聞いていた人物で、確かに所作の端々に隙がない。

その後ろに査定員が六名、全員が書類鞄を抱え、表情ひとつ変えていない。

貴族の子女たちが、波が引くように左右に割れた。

アルヴィン氏が私の前で足を止め、軽く頭を下げる。

 

「セシリア・アークライト様、ご連絡を受け参上いたしました。申請内容の確認に入らせていただきます」

 

「よろしくお願いいたします」

 

私も会釈を返した。

手際がいい。

昨日のうちに待機要請の連絡を入れておいた甲斐があった。

万が一がありますので、当然の準備だ。

査定員のひとりが、感情を一切排した声で読み上げ始める。

 

「婚約破棄の事実確認——完了。公開宣言形式——確認。精神的損害——認定。公開名誉毀損——認定。虚偽告発疑惑——審査対象に追加」

 

レオニス殿下が声を荒らげた。

 

「何をしている! これは私的な場での宣言だ!」

 

査定員が殿下を見た。

その目に感情はない。

ただ事実のみを処理する、機械のような視線だ。

 

「殿下、当会場は王立学院の卒業記念舞踏会であり、貴族・王族・外交官を含む百九十三名が列席されております。公開の場の定義を、十分に満たしております」

 

「そ、そんな……!」

 

殿下の声がかすれる。

私は静かに書類鞄を開き、二枚目の書類を取り出した。

 

「こちら、婚約継続義務契約書になります。三年前に殿下と私の間で締結されたもので、王家側のご署名もございます」

 

アルヴィン氏が受け取り、素早く目を通す。

 

「違約金条項、確認しました。一方的破棄の場合、破棄側が全損害を負担する旨、明記されております」

 

殿下の顔が、みるみると青ざめていく。

 

「そんなもの……聞いていない!」

 

「サインされましたよね?」

 

私は穏やかに問い返した。

怒りがないわけではない。

ないわけではないが——こちらには書類がある。

感情よりも書類のほうが、この社会では圧倒的に強い。

それを私はよく知っている。

殿下の隣で宰相が何事かを耳打ちしているのが見えた。

その顔色は青を通り越し、ほとんど白に近い。

おそらく今この瞬間、契約書の条項を初めて正確に理解しているのだろう。

契約書は、読んでからサインするものだ。

これは常識だと思っていたが、どうやら王家には届いていなかったらしい。

査定が進む中、マリエッタ嬢の証言審査も始まった。

査定員が彼女に向き直る。

 

「マリエッタ・ローウェル様、セシリア様によるいじめの具体的な事実を、日時・場所・状況を含めてお答えください」

 

マリエッタ嬢が目をぱちぱちとさせた。

 

「え……と、その……セシリア様がわたくしに冷たくして……」

 

「日時をお願いします」

 

「三ヶ月前、ぐらい……?」

 

「場所は」

 

「学院の廊下……だったと思います」

 

「目撃者の氏名は」

 

「……覚えていません」

 

査定員の手は止まらない。

メモが淡々と進む。

 

「証言の具体性——著しく低下。事実確認困難——記録。虚偽告発疑惑——認定に格上げ」

 

会場のあちこちで、貴族たちのひそひそ声が広がり始めた。

 

「保険会社が王家を査定しているぞ……」

 

「あの令嬢、本当に三年前から準備していたのか……」

 

「王家相手でも容赦ないな、あの商会は……」

 

私はその声を聞きながら、三枚目の書類を取り出した。

感情を動かすのは後でいい。

今は手続きを進めることが先決だ。

アルヴィン氏が手を上げ、査定員たちを一度止める。

それから私の方を向いた。

 

「セシリア様、確認させてください。ここまで契約内容を正確に把握されている方は、弊社で初めてです」

 

「備えは大事ですので」

 

「……おっしゃる通りです」

 

彼は一瞬だけ、ほんの少し目を細めた。

それからすぐに仕事人の顔に戻り、レオニス殿下に向き直る。

 

「今回の件、"王家都合による一方的かつ公開形式での婚約破棄"に該当いたします。最大補償プランの適用となります」

 

会場が、凍った。

宰相が、初めて声を震わせた。

 

「最大……補償、とは」

 

「婚約破棄慰謝料、名誉毀損補償、虚偽告発に伴う精神的苦痛補償特約、公開宣言による社会的信用損失補填——以上を合算した金額になります。詳細はこちらに」

 

アルヴィン氏が差し出した書類を受け取った宰相は、その場で固まった。

数字を目で追い、もう一度最初から読み直し、そして静かに、しかし確実に膝から崩れ落ちそうになるのを側近が辛うじて支えた。

隣で書類を覗き込んだ別の貴族が、一言も発せずに一歩後ずさる。

その後ずさりが、会場の空気を何よりも雄弁に語っていた。

私はその数字を、すでに把握している。

事前に商会側から最大補償額の試算を取り寄せていた。

王国の年間予算と、ほぼ同等の額だ。

万が一に備えるとはそういうことで、驚く理由はどこにもない。

レオニス殿下が、力を失ったような声で言った。

 

「撤回する……婚約破棄は、なしだ……!」

 

アルヴィン氏が静かに首を振った。

 

「殿下、公開宣言による婚約破棄は、すでに法的効力が発生しております。百九十三名の証人がいらっしゃいます。撤回の余地はございません」

 

終わった。

その言葉が会場の空気に静かに染み渡る。

宰相がレオニス殿下に向き直り、疲れ果てた声で言った。

 

「お前は……自分が何をしたか、理解しているのか……」

 

殿下は答えなかった。

ただ真っ青な顔で、書類の数字を見つめ続けていた。

私は静かに、最後の一礼をした。

怒鳴らない。

泣かない。

ただ、手続きは粛々と進む。

それが私の流儀だ。

 

—— 数ヶ月後。

保険申請は滞りなく処理され、王家との交渉は宰相主導で進められた。

賠償は年払い分割という形に落ち着いたが、それも契約書の想定内だ。

前払い一括ならば割引という条項もあったが、今回は適用しないことにした。

王家に長く覚えていてもらうことにも、一定の意味があるので。

私が今いるのは、王都中央補償商会の顧問室だ。

商会側から正式に顧問契約の打診をいただき、即日でお受けした。

才能を活かせる場所が、思わぬ形で見つかったものだと思う。

最初に手がけた仕事は新商品の企画補助だった。

テーマは婚約者の裏切り行為に対する補償制度。

正式名称は長くて複雑だが、通称「浮気慰謝料特約」と呼ばれている。

これが発売初月に完売に近い状態となり、増刷対応が追いつかないほどの反響となった。

需要があるところに商品がある。

当然の結果だと思う。

ある晴れた午後、王都のカフェで書類整理をしていると、向かいの席に人影が座った。

銀縁の眼鏡の青年——アルヴィン幹部補佐だ。

最近は顧問室で顔を合わせる機会が増え、業務上の会話も自然と増えていた。

彼はコーヒーを一口飲んでから、こちらを見た。

 

「セシリア様、少々よろしいですか」

 

「はい、何でしょう」

 

「先日の浮気慰謝料特約、初月の販売数が想定の三倍を超えました。あなたの企画案が核心でしたね」

 

「データを読んだだけです。需要は最初から数字に出ていました」

 

「ご謙遜を」

 

彼は少し微笑んだ。

整った顔立ちで、仕事中はほとんど表情を変えない人なのに、こういう微笑みは不意打ちになる。

私は書類に視線を戻した。

しばらくして、アルヴィン氏が少し間を置いた。

それから、どこか照れたように視線を外してから言った。

 

「……ひとつ、仕事の話ではない質問をしてもよいですか」

 

「どうぞ」

 

「次は……人生設計も、ご一緒しませんか」

 

私は書類から目を上げた。

彼の耳が、わずかに赤い。

なるほど。

これは業務連絡ではない。

少し考えてから、答えた。

 

「それは保険適用外ですね」

 

「……そうですね」

 

「ですが」

 

私は書類を閉じた。

 

「適用外だからこそ、慎重に検討する必要があります。万が一がありますので」

 

沈黙のあと、彼が小さく笑った。

私も、少しだけ笑った。

外では、王都の午後の光が石畳に降り注いでいる。

婚約破棄から始まった話が、思わぬ場所へと流れ着いたものだと思う。

備えは大事だ。

だが、備えていなかった未来が、悪いとも限らない。

 

終幕


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