鏡の中の空白
十年の歳月が流れた。
佐伯は今、慈善事業家として名声を博していた。彼の周りには常に「善意」が溢れ、過去の事件など誰も覚えていない。
ある雨の日、彼の事務所に一人の若い女性が訪ねてきた。
「先生の活動に感銘を受けました。私を、助手として雇っていただけませんか?」
その瞳を見た瞬間、佐伯はかつてない高揚感を覚えた。
彼女の瞳には、感情がない。 自分と同じ、徹底した「空白」だ。
名前は「一ノ瀬」。偽名だとすぐに気づいたが、佐伯はあえて彼女を側に置いた。自分と同じ種族に出会えた喜びが、彼の冷徹な理性を狂わせ始めていた。
ある夜、二人は誰もいないオフィスでハーブティーを飲んでいた。
「君は、なぜ僕のところへ来た?」
佐伯が問いかけると、彼女は聖者のような微笑みを浮かべて答えた。
「父が言っていたんです。本当の悪魔は、鏡の中にしかいないって。だから、確認しに来たんです。私の中にいる悪魔と、あなたの中にいる悪魔、どちらがより深い『無』なのかを」
彼女の手元には、十年前、猪瀬が捨てたはずの「青いガラス片」が握られていた。
実はあの時、猪瀬は証拠を捨てきれず、娘にだけ真実を託していたのだ。
「先生、このお茶……。さっき私が、ちょっとだけ隠し味を加えておいたんです。あなたが父を『壊そう』とした、その傲慢さへのお礼です」
十年前、カウンセラーに言った言葉が、そのまま自分に返ってきた。
佐伯の視界が歪む。彼は喉を押さえ、崩れ落ちながらも、目の前の美しい「空白」に見惚れていた。
「ああ……いい色だ……」
彼が最後に見たのは、自分を殺した少女の顔ではなく、鏡に映った自分自身の、醜く歪んだ「恐怖」の表情だった。
聖者の仮面が割れたその瞬間、佐伯は初めて、自分という人間に「色」がついたことを知った。
それは、真っ黒な、死の色彩だった。




