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過去

「お前には、色がないな」

それが、画商だった父が幼い佐伯に残した唯一の言葉だった。


アトリエには、狂気的なまでに鮮やかな色彩が溢れていた。しかし、父が描くキャンバスの隅で、静かに絵の具を片付ける少年・佐伯には、怒りも喜びも、ましてや子供らしい甘えもなかった。


決定的な出来事は、彼が十四歳の夏に起きた。

飼っていた一羽の文鳥が、籠の中で動かなくなった。母は泣き崩れ、命の尊さを説いた。だが、佐伯が感じたのは悲しみではなく、底冷えするような「違和感」だった。


「なぜ、みんなそんなに必死に『心』がある振りをしているんだろう?」

彼にとって、母の涙も父の情熱も、ひどく過剰で、不器用な演技に見えた。自分だけが、観客席に取り残されているような感覚。


その夜、彼は初めて嘘をついた。母の肩を抱き、震える声で「悲しいね」と。

その瞬間、母の顔に宿った安堵と、自分を憐れむ慈愛の眼差し。

(ああ、なんて簡単なんだ)


他者が勝手に作り上げた「理想の自分」を演じてやれば、彼らは勝手に救われ、支配される。佐伯にとっての「心」とは、守るべき宝物ではなく、他人を釣るための「精巧なルアー(擬餌)」に過ぎなくなった。


成長するにつれ、彼の演技は洗練されていった。

妻との出会いも、彼にとっては壮大な実験の一つだった。これ以上ないほど誠実で、献身的な夫を演じ続けた。


妻が毒を飲み、死の淵で「愛してる」と微笑んだ時、佐伯は確信した。

(この女は、僕が作った「偽りの愛」に騙され、幸福の絶頂で死んでいく。これこそが、僕がこの世界に与えられる唯一の救済だ)


彼は、自分に「色」がないことを嘆くのをやめた。代わりに、透明な自分を透過して、他人が見たいと願う「美しい幻影」を見せ続けることに決めたのだ。


カウンセラーの松嶋を殺したのも、同じ理由だ。

「あなたの心を守る」などという、安っぽい色で自分を塗りつぶそうとした男への、生理的な嫌悪。

「先生、色がないのは僕じゃない。あなたの言葉に、実体がないだけですよ」


ビルを出た佐伯は、人混みに紛れる。

誰よりも優しく、誰よりも悲劇を背負った「完璧な善人」として。

彼の内側には、今日も、何も、ない。

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