ジュディスの里帰り
「呪いと祝福の子らは女神の掌で踊る」の番外編となります。本編のネタバレを含みますのでご注意下さい。
(起きろ…起きろったら)
どこか懐かしい声が聞こえて少女は目を開けた。青白い花が淡く光りながら咲いている。薄暗い中にぼんやりと光る人影があって、こちらを見て呆れ顔をしていた。
「まったく…君は帰ってくる度に血だらけだな。それに今回は余計なのまで連れてきて…ほら、早く起きて離れろ!怨嗟の念に飲み込まれるぞ」
人影は無理矢理少女を誰かから引き剥がそうとする。かろうじて上半身を起こすと、腹から下は血溜まりの中に溶けていた。自分の下に誰かがいる。途端に記憶が一気に戻って、ジュディスは悲鳴を上げた。
「レイ!死なないで!」
青白い顔のレイはぴくりとも動かない。なおも腕を引く相手の手をジュディスは乱暴に振り払った。
「私が今離れたら、レイを救えない。私はレイを救うためだけに戻ってきた。だから邪魔をするな!」
同じ顔をした双子の片割れはジュディスの振る舞いに驚いた顔をした。
「…そんなことをしたら、今度こそ本当に軽く二百年くらいは、こっちに帰ってくるなと言われるぞ?前回だって穢れのせいで大変だったのに、君はちっとも分かってないな」
「分かってないのはそっちじゃないか!私の何を分かってるって言うんだ!」
ジュディスは再び光る蔦へと変わりレイの中へと潜り込んでゆく。残された双子の片割れは、中空にあぐらをかいたまましばらく浮かんでいたが、諦めたように首を振った。
「…ったく!手伝えばいいんだろ、手伝えば。このまま放っといたら君が溶けてなくなってしまうから、仕方なく手を貸すだけだ!」
彼はそう言うと、両手から同じように輝く蔦を出して、横たわる青年の身体に同化させた。
***
どのくらい経ったのか、レイは薄暗い空間で目を覚ました。もう焼けるような痛みは感じない。腹を抉られて魔力中枢が持っていかれたのは覚えている。それからジュディスが泣いていたのも。そこまで思い出して、そうか自分は死んだのかと何となく納得する。死ぬのは仕方ないにしても、ジュディスを泣かせるのは嫌だなと思った。
「まだ死んじゃいないさ。まぁ勝手に死んだことにして終わらせてやった方が楽だったかもしれないが…」
声の方を振り返ってレイは目を瞬いた。
「…ジェイド?」
思わず呟いたレイを青年は見下ろす。
「お前、なんでこの姿がジェイドだと思った?」
「ジュディスのお兄さんみたいで…昔に読んだ歴史書の記述…そのままだから…」
「ふーん」
面白そうにレイの髪をくしゃくしゃに撫でるところまでジュディスに似ていて、たったそれだけのことに胸が痛くなる。ジュディスはどこだろう?記憶があいまいだ。
「お前のいうジュディスなら、今は疲れて寝てるよ。お前を治すのにかなり力を消耗したからな」
指差す方に首を巡らすと、薄暗い空間にぼんやり光る小さな蔦の塊が転がっていた。ジェイドはそっと塊を持ち上げる。持ち上げた途端にそれは、ずるずると長い一本の蔦になってしまった。掌からこぼれ落ちそうになったそれを、ジェイドは身体に巻き付ける。
「まったく…無茶しやがって」
蔦は弱々しく光りながらジェイドの身体に同化して消える。途端にジェイドからは先ほどまでの精悍さが消えた。荒々しい気配はやや影を潜め穏やかになる。
「私たちは双子で言わば表裏一体。ジュディス一人の力で元に戻るのを待っていたら、もう一度会いたい人は皆消え失せた後になってしまうから、力を少し分けるだけだ」
するすると蔦が伸びてきてレイの唇の周りを這う。
「口を開けろ」
「…え?」
「いいから。なんだ?ジュディスとはやったことないのか?」
「何を?あるわけないよ…っ!ん…!?」
喋った隙に間からするりと蔦の先端が潜り込み、口の中にほんのり甘い液体が僅かに流れ出てきた。
「少しずつ飲みこめ。血の味よりはこっちの方がマシだろう?」
(なにこれ…?)
どこか懐かしいような。心の中に浮かんだ疑問にジェイドはニヤリと笑う。
「お前はこっちじゃまだ赤子みたいなものだからな…これで充分だろ。動けるようになってもその辺のものは勝手に食うなよ。戻る気がまだあるならな」
レイの頭を撫でる手は口調に反して優しい。甘い液体を飲んでいるうちに、レイはだんだん眠くなってきて再び目を閉じた。
***
「起きたか?」
自分が自分を見下ろしている。といっても見下ろしているのは男性だった頃の前の自分だ。前回はそれで大暴れをして大地を血に染めた。今回こそは大人しくするはずだったのだけど。いや、程々に大人しくはしていたはずだ。
「…おはよ…」
ずるずると這い出して、まだ未成熟な少女である己の身体を見下ろす。月のものが始まったからと言っても急に胸が膨らむ訳でもなく、そこにはまだ僅かな突起があるのみだ。それでも慣れない。再び蔦になろうとする身体を片割れに引っ張られた。
「しっかりしろ。溶けている間にも時間は進むんだぞ」
「うん…分かってるってば…レイは?」
片割れの隣で赤子のように眠っていたレイが身動ぎする。すでに少し縮んでいる。怪我は思ったよりも深かった。
「で、どうするんだ?このまま戻るならもうそろそろ戻った方がいい。じきに女神が目覚める…」
レイが目を開けた。ゆっくりと起き上がってジュディスの姿に気付くとふわりと笑った。
「話は…聞いたよ。もう一度生まれてやり直すのも魅力的だけど、僕はこの記憶を持ったままジュディスと双子になっちゃうのは困るよ…どうやら僕は羽化が終わって少し幼い男の子の身体に変わっちゃったみたいだし」
そう言ってレイは慌ててジュディスの裸から目を背けて僅かに赤くなった。
「だったらもう行くしかないな。二人が寝ている間に両方の記憶を読んだから、ここにだいたい入ってる」
ジェイドは頭を指差した。
「レイ、お前は片割れの長い長い繰り返しの中で初めてここまで連れ帰ってきた男だ。どういうことか分かるか?眷属に加えても構わないと本能で感じ取った相手…そういう特別な相手だってことだ」
ジェイドの言葉にジュディスは動揺する。
「え…?いや、そこまで明確に考えてたかって言われたら自信ないよ。レイを死なせたくないとは思ったけど…」
「お前、来たときレイの腹の穴に溶けてただろ。そうやって境界を越えて連れてきた相手を元の場所にどうやって戻す気だよ?もう入る場所は塞いだからないんだぞ?」
「あーうん…要するに…戻るには眷属に加えるしかないってことだな…すまないレイ。帰り道はあるんだけど、通過するには半分くらい精霊にならないといけないってことだ…」
ジュディスは不意に顔を覆った。
「これって助けたことになるのかなぁ…?助けようとしたのに、もっとこじれたような気がする…もう取り返しがつかない…」
「おい…まさか今更後悔してるのか?」
ジェイドの言葉にジュディスは首を振った。
「切羽詰まっていたとはいえ、レイの意思も確認しないで酷いことをしたなと思って。羽化の守の間だって、レイに与える血の量は人でいられるようにギリギリ抑えてたのに…」
それまで黙っていたレイは立ち上がると顔を覆うジュディスの隣に移動した。そっと肩に手を触れる。
「ジュディス、死にかけた僕を助けてくれてありがとう。僕は人でなくなっても全然構わないよ。半分精霊になってでも早く君と一緒に帰りたいと思ってる」
「元通りの身体に戻せなくてすまない…」
「もう謝らなくていいよ。見た感じは多少縮んだくらいだし。ジュディスが一緒ならきっと大丈夫って思えるから…」
「うん…」
二人の様子を見守っていたジェイドは徐ろに指先から一本の蔦を出した。
「ほら、お前もやれよ…足りないんだろ?」
「分かってるけど…それ…気持ち悪いんだよなぁ。一本全部飲まないとやっぱりダメ?」
「うだうだ言ってないでさっさと飲め!」
ジェイドはジュディスの顎を強引に上向きにさせると、ジュディスの身長ほどの長さの蔦の先端をその口に無造作に突っ込んだ。眉間にしわを寄せて苦しげな表情をしながら、ジュディスは蔦を飲み込んでゆく。途中で涙がこぼれ落ちるのを、どこか酷薄な表情を浮かべたジェイドが見下ろしている。レイはその横顔に僅かに恐怖を覚えた。国を滅ぼし屍の山を築いた魔術師の顔がそこにはある。蔦はジュディスの身体に取り込まれ、ようやく全てを飲み込み終わったジュディスは激しく咳き込んだ。
「ちなみにレイは半分眠ってる間にこっちの分は一本飲み終わってるから、残りはお前の蔦を与えるだけだな」
「え…ずるい!私も寝てる間に分けてくれたら良かったのに」
喉元を押さえてジュディスがジェイドに恨みがましい視線を送る。
「二本連続であれを人が飲めるかよ。一本が限界だ」
ジェイドがため息混じりに言う。
「いいか。レイ、吐くなよ」
獣じみた壮絶な顔付きでジュディスが近寄ってきて、レイの顎を捉えた。言葉の割には優しく唇が重なる。ホッとしたのも束の間、唇を割って蔦が入り込んできた。そのまま喉を通過し身体の中をぞわぞわと蠢く蔦が這い回り指先にまで広がってゆく。全身が蔦に侵食され一体化してゆく感覚に脳が一瞬麻痺した。人ならざるものに変わるのは想像よりも呆気なかったが、まるで別の生き物が身体の中を這い回っているようで、気持ちが悪かった。その感覚が過ぎてもジュディスの唇は離れず、細い腕が首に絡んでやがてゆっくりと押し倒された。
「続きは向こうでやってくれよ…まったく」
ジェイドの呟きに、流されかけたレイは慌てて起き上がる。ジュディスはようやく唇を離してレイを見つめ返す。
「混ざったな」
お互いの左目の色もいつの間にか入れ替わっていた。レイの瞳が金でジュディスが紫だ。
「女神が目覚める前にさっさと行け。こっちだ…」
ジェイドが薄闇の空間に手を差し入れると、空間が震えて布のように裂けた。
「お互いの手を離すなよ。レイは渡り方をまだ知らないから途中で落ちたら困る」
向かい合わせになって両手を握った二人をジェイドは裂けた空間に押し込んだ。淡い光に照らされたその中からジュディスがジェイドを振り返る。
「ジェイド…ありがとう」
「おう、じゃあな。しばらくは帰ってくるなよ。女神の領域に取り込まれて眠らされちゃ敵わないからな。あんまり暴れて怪我するなよ」
双子の片割れは笑って手を振る。それが最後に見た光景だった。
奥に見える明るい光を目指して二人はひたすら進む。突然足元に何もなくなって一緒に転がり落ちた感覚がした。顔を上げると、深い緑に包まれた場所だった。どこか見覚えがある。
「やっぱり…けっこう縮んだな…傷も消えなかった…」
ジュディスがレイを見て傷痕にそっと触れる。
「仕方ないよ。時間がなかったんだから」
レイは苦笑して、二人を見つめる視線にようやく気付く。学院長とフロレンティーナ、それにブルーノ。隣にいるのは見覚えのない白の髪と紫の瞳の美少女。いや、ひょっとしてノアなのか?レイは以前よりも微細な魔力や気配の違いに対して鋭敏になった気がした。
聞きたいことは山ほどあったがとりあえずレイは一番気になっていたことを口に出す。とりあえず再会はできたけれど。
「今は…いつですか?」