止まったままの踏切
終電後の踏切で立ち往生した三十一歳の会社員・星野健司は、十七歳の頃の“自分”と対話する。不意に蘇った夢と現実の狭間で揺れる星野は、止まったままの踏切を越え、始発列車と共に再出発を決意する――。
遮断機が下りたままの踏切に、夜風だけが吹き抜けている。終電が過ぎて五分、線路は真っ黒な帯のように街を切っていた。三十一歳の星野健司は、コンビニで買った缶コーヒーを片手に、赤い警告灯を見上げている。カン、カン、と機械的に鳴る警報は、誰もいない住宅街でやけに大きかった。
〈この音、好きだったはずなのに〉
高校時代、ここを通るたび胸が跳ねた。部活帰りに友達と将来の話をしながら、遮断機が上がるのを待つ数十秒が、どこまでも広がる未来の入口みたいに思えたのだ。映画監督になる、自主制作で賞を獲る、海外のロケ地を巡る――どれも本気で語っていた。
けれど今、星野の肩には重いPCバッグと未処理のメール通知がぶら下がっている。映像部門を志望して入社した広告代理店で、今日もひたすらバナーの修正依頼を捌いた。気が付けば終電間際。クライアントから送られた「要再検討」の赤字が、警報灯の色と重なり、胸をざらつかせる。
風が鳴り、冷えた夜気が肌をかすめた。そのとき、線路の向こう側に人影が現れた。短い学生服の袖、泥だらけのスポーツバッグ、そして足元のランニングシューズ――十七歳の自分だ。
「ずっと待ってるの、俺?」
その声は、覚えていたより高かった。星野は思わず缶コーヒーを握り締める。アルミの薄い壁がへこんで、指先に冷たさが走った。
「仕事帰りだよ。電車、もう行った」
「知ってる。でも、踏切が開かないから帰れないんじゃない?」
十七歳の自分は、遮断桿を指で軽く弾いた。金属がカンと鳴る。星野はかぶりを振ったが、言葉が続かない。確かに、歩道の青信号は点滅しながら同じ場所でループし、赤灯もリズムを崩さない。まるで時間そのものが、ここでフリーズしているみたいだ。
「夢、見なくなった?」
問いはまっすぐだった。星野は目を伏せる。会社で使うショートカットキーは覚えた。クライアントの嗜好も大体読める。だが、映画の脚本は一年以上、ファイルを開いていない。
「忙しいんだ」
「部活と受験で忙しくても、俺は撮ってたよ。夜の公園で、ボールの行方を追うだけのショートムービー。あれ、覚えてる?」
懐かしい光景が浮かぶ。街灯に照らされたテニスボールを軌跡だけで追う実験的な映像。手ぶれがひどかったけど、文化祭で思った以上にウケた。あの歓声を聞いたとき、未来は開けていると思った。
「今さらやれないよ。会社辞めるわけにもいかないし」
「辞めなくていい。走ればいいんだ。線路の向こうに行けば、続きがある」
十七歳の自分は、線路の先を顎で示した。そこには暗がりしかない。だが耳を澄ますと、どこかで遠い列車のアイドリング音がした。始発の準備だろうか?
星野は靴紐を結び直した。指が震える。胸の奥で、何かが錆び付いた歯車のようにきしみ、そして回り出した。
その瞬間、踏切の警報音が一段高く鳴り、遮断機がゆっくりと上がり始める。赤灯が消え、白い照明に変わる。誰も通らないレールが、月光を受けて銀色に光った。
十七歳の姿がふっと薄れた。代わりに、細い月が雲間から顔を出す。星野は線路に足をかける。枕木の間から、夏草が長く伸びていた。折らないように跨いで一歩、さらに一歩。
向こう側へ着いたとき、背中のPCバッグがやたら重く感じた。星野はファスナーを開け、未送信の提案書とノートPCを取り出す。線路脇のベンチに腰掛けると、冷たいステンレスが背中を押した。
薄明の空がわずかに白む。PCを開き、真新しいドキュメントを作る。タイトル欄に打ち込んだ。
『止まったままの踏切』――自主制作短編企画書
指が、キーボードを叩くたびに温かくなる。遠ざかる会社からの通知音より、自分のタイピングが速かった。やがて、ポイントとなるロケ地候補、キャスト案、必要機材のリストが次々と埋まっていく。
列車の試運転ライトが遠くから近づき、線路をゆっくりと照らす。車輪が鉄を噛む低い振動が足元へ伝わった。星野は顔を上げ、車両に向けてペンライトを振る。車掌が気づいたのか、小さく警笛を鳴らして応えた。
心臓がドクンと跳ねる。十七歳の自分が隣に立ち、リュックから古びたDVカメラを取り出す幻が見えた。たがいに笑い合う。そして、踏切の向こうで、朝焼けがオレンジ色の幕を引いた。
始発列車はまだ停まっている。だが次の瞬間、ドアが開き、乗車を告げるブザーが鳴った。
星野はバッグを背負い直した。数歩先のホームへ走り出す。その足取りは、十七歳の頃より速かった。
夢へ向かう一番列車が、ついに発車ベルを鳴らしている。
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