帰宅
「だぁーーー……クッソ……ブチ殺すぞ世界……」
大仰な一人暴言を吐きながら、アパートの階段を昇る俺。
ヨレヨレのスーツと使い古した鞄、常に寝不足で朦朧とした意識を携えながら二階へ。
長谷部辰巳、御年二十九歳。テンプレートの様なブラック企業に勤めるしがない独身男である。
趣味も展望も無く、数少ない休日も睡眠だけで消費していく日々。
希死念慮は湧かないが、『毒の沼にでも飛び込んでやろうか』と度々思うくらいには限界である。
「……ん?明かりついてる……」
自室の二〇三号室の前まで辿り着く。嵌め殺しの曇りガラスから、橙色の光が漏れ出ていた。
察した俺は、だらしなく着崩れたスーツを直し、コンビニで甘いものの一つでも買って来れば良かったと若干の後悔を抱く。
ノブを掴み、捻る。扉を開けると、即座に前方から軽やかな足音が聞こえてきた。
「おっ……おかえりなさい!辰巳さん!」
「来てたのか、理優君。……ただいま」
艶やかな黒い長髪。普段は後ろの髪を束ねて中に入れ込み短髪に見せているらしい。
雪の様に白い肌、長い睫毛と大きな瞳。色素の薄い口唇。思わず見惚れてしまう程の美貌である。
すらりと伸びた華奢な体躯に、白いワンピースが良く似合う。
まさしく絶世の美少女。………だが、男だ。
「そのワンピース、日南ちゃんの新作?」
「は、はい!でも………僕にはちょっと……似合わない、ですかね」
「何言ってんの、すげぇ似合ってるよ。めちゃくちゃ可愛い」
「かわっ………!」
著しく紅潮した顔を両手で覆い、身体を縮込める理優君。
……彼、もとい隣に住む近衛家とは、俺が大学進学のために上京してきた十年前からの付き合いである。
金が無く飯も碌に食えなかった俺を、近衛夫妻はずっと気にかけてくれた。
時には旦那の茂さんが経営する飲食店でバイトさせてくれたり、奥さんの一夏さんが料理をおすそわけしてくれたり。十年たった今でも頭が上がらない。
そして、その代わりと言っては何だが……俺は彼らの子供達である理優君と日南ちゃんの世話を自ら引き受けた。
一夏さんが自宅で仕事をしている間の子守り。流行り病に近衛家が感染した際の隔離施設として二人を預かったり、果てには二人が仕事で来れない運動会に代役として応援しに行った事もある。
大学はFランでさほど忙しくなく、友人もいなかった俺にとっては極めて刺激的で楽しい経験だった。
そして、今現在。
「あっ、僕カレー作って来たんです!温め直すので一緒に食べましょうね!あと服やシーツも全て洗濯して部屋に干してます!ちゃんと部屋干しでも匂わない洗剤を使ったので安心してください!それと床掃除とお風呂掃除と食料の買い出しも……」
「ちょっ……ちょっと待って理優君!!え、それ……俺が帰ってくるまでに全部やってくれたって事!?」
「はい!やりました!」
語弊を恐れずに言うなら、彼は完全に”通い妻”状態になっていた。
昔から『やたら懐いてくれるな……』とは薄々思ってはいたが、年を重ねるごとに彼は家事全般におけるプロ並みのスキルを手にし、それを俺に対して最大限発揮するようになった。
お互い”何かあった時”用に合鍵を渡し合っているが……今では帰宅する度に全ての家事を完璧に終わらせた理優君が、満面の笑みで出迎えてくれる。こちらとしては涙が出てくる程ありがたいが、心配な面も多々ある。
「……学校、ちゃんと行ってるよね?」
「もちろんですよ!本当はあんな所に行かずに辰巳さんの事一日中お世話したいですけど……辰巳さんが『ちゃんと学校は行きなさい』って言うから……」
「友達は?」
「ゴm……他人と関わってる暇があるなら、辰巳さんのお世話をしてたいので!」
「……恋人とかは?好きな人とか……」
「すっ……」
またも体を丸めて小さくなる彼。毎度このような反応をするので、好きなクラスメイトはいる様子だが……それにしても、高校に入ったばかりで青春真っ盛りの若者が、俺の様なアラサー社畜にばかり構っているのは些か心配である。
それと、俺の前でだけ女の子の恰好をしている理由については未だに分かっていない。いや、本気で死ぬほど綺麗だから目の保養にはなるんだが。
「とっ、とりあえず夕飯にしましょう!スーツ脱いでください!畳んでおきますので!」
「あ、あぁ。ありがとう」
……何はともあれ、日々の労働で疲れ果てた俺にとって、彼の存在は生活的にも精神的にも多大な支えになっている事は確かだった。