9 凍える心②
「馬鹿っ……馬鹿……!」
意味もなく罵りながら、キアラは大量のタオルを抱えてリビングに戻った。そしてヴォルフの傷の様子を診てからまずは作り置きの薬で傷口を洗い、これ以上損傷が広がらないようにする。
「……ヴォルフ、お医者様は――」
「……やめて、くれ」
念のために尋ねたが、それまでは荒い呼吸をするだけだったヴォルフははっきりと拒絶した。
(……それもそうよね)
……町の人々はヴォルフの存在こそ知っているが、彼が元暗殺者でありキアラの護衛であることは教えていない。医者を呼ぶと、その後に大変なことになる。
「分かった。じゃあ、私があなたの治療をするわ。……大丈夫、本職は薬草師だけど、縫合とかもしたことがあるから」
「……あんたを疑ったりは、しない」
ヴォルフは痛みで顔をしかめながらも、そう言った。
しばらくしてヴォルフが痛みで発熱してうめくようになったので、鎮痛効果のある薬草汁を飲ませて意識をぼんやりさせた。
この薬草は依存性があり大量摂取すると麻薬のように体に害を及ぼすが、ごく少量だと手術の際などに使える鎮痛剤になった。
薬草汁の効果でヴォルフがぼうっとしている間に縫合用の道具を持ってきて、心を殺して傷口を縫った。
本人も言うように、重傷なのは左腕と左脇腹だった。腕はまだしも脇腹を深くやられると内臓を損傷して生命活動の維持に支障を来すが、かろうじて内臓は避けられていた。ヴォルフがシャツの下に、胸や腹などを覆う防具を身につけていたおかげだろう。
腕と脇腹を縫った痕は、医者がするのよりも雑だ。そもそもキアラはそこまで手先が器用ではないし、縫合も何年も前にしたっきりなので、何度も「これでいいのかな」と怖じ気づきそうになった。
だが、今ヴォルフを助けられるのは自分しかいないのだ。
(それに、もしかするとこの傷は――私を守るために負ったのかもしれない)
ヴォルフの役目は、キアラの護衛だ。
彼が言うに、王位を狙う者はキアラの戸籍を、イザイアを擁立させたいフィーニ公爵はキアラの命を、狙うだろうとのことだった。
……もしかすると、彼はこれまでにもキアラを狙う者と戦ってきたのかもしれない。だが何にしても、彼が快癒しなければ話を聞くこともできなくなる。
血やら何やらで汚れた手を洗ってリビングに戻り、縫合の間に眠っていたヴォルフの額の汗をそっと拭う。呼吸はかなり落ち着いているが、縫合した部分やその他細かい裂傷のある部分は熱を持っている。
これからしばらく高熱が続くだろうが、それさえ越えたら回復の見込みがある。
「ヴォルフ、頑張って……」
キアラのつぶやきに、ヴォルフは小さな寝息を返すのみだった。
ヴォルフの治療をしている間に南中していた太陽はあっという間に西の空に沈み、底冷えするような夜がやってきた。
キアラはヴォルフが眠っている間に薬を作り、彼が熱でうなされたら雪解け水で冷やしたタオルで顔を拭い、まめに包帯も取り替えた。
今日も薬を受け取りに来た客がいたので対応したが、「ヴォルフの体調が悪くて……」と言うと、食べ物などを分けてくれたりした。
また、「キアラのところの同居人の体調がよくないらしい」という知らせが近くの町や村に行き渡り、しばらくはヴォルフの看病に専念できるようになった。
「おはよー。キアラ、いる?」
翌朝、玄関のドアがノックされたので、ヴォルフの看病のためにリビングで寝ていたキアラははっと体を起こした。
(この声は……カルメン?)
「う、うん。おはよう、カルメン。来てくれたのに申し訳ないけれど、ちょっと中には通せなくて……」
玄関ドア越しに、キアラはそう言う。
理由は、玄関の掃除が中途半端なので血の跡やらなんやらで汚れているからだ。だがドアの向こうのカルメンは、「それもそうよね」と納得したように返した。
「ヴォルフ、ぶっ倒れているんでしょう? いいよいいよ、無理に出てこなくて」
「ごめんね……」
「気にしないの。うちの父さんと兄さんたちから預かったもの、玄関の前に置いておくわ。あと、鶏ちゃんたちの世話はしたの?」
「ありがとう。ええと、鶏はまだで……」
「了解。じゃ、餌やりだけでもやっておくわ」
「えっ、そんなの悪いわ」
慌ててドアを開けようとしたが、「いいのよ」とカルメンの声がキアラを制した。
「いつも、あたしたちの方があんたの世話になっているのよ。父さんたちも一緒に来ているし、これくらい任せてよ。もちろん雪かきもしているから、ヴォルフの体調が落ち着いたら外の空気でも吸いに出てきなよ」
「カルメン……ありがとう」
確かに、耳を澄ますと「鶏ちゃんたちの餌やりだ!」「張り切るぞぉ!」と男たちの声が聞こえてきた。カルメンの父や兄たちも、やる気満々のようだ。
(……みんな、ありがとう)
キアラはぎゅっと拳を握り、リビングに戻った。
庭の方からは、「鶏ちゃーん!」「あ、ちょっと、怖がらせないでよ、父さん、兄さん!」というにぎやかな声が聞こえてくる。
「……私も、頑張らないと」
キアラは深呼吸して、ヴォルフの傷の様子を診ることにしたのだった。