8 凍える心①
フィオレンティア王国は北部こそ冬の寒さが厳しくて冬季の間はまともに出歩けないほど雪が降るそうだが、王都の周辺は毎朝雪かきをすれば問題なく生活できる程度だった。
「……さむっ」
朝、目を覚ましたキアラは、体を起こしたことで冷気が一気に襲いかかってきたため、ぶるりと身震いした。毎晩寝る前に布団の中に熱した煉瓦を入れているのだが、朝になるとさすがに冷めてしまう。
(……あれ? 今日は雪かき、まだなのかしら)
窓のカーテンを開けたキアラは、ちょうどそこから見える自宅の玄関前がまだ真っ白な雪で覆われていることに気づいた。
冬になってから、毎朝の雪かきはヴォルフがやってくれていた。これくらいはキアラがすると言ったのだが、ヴォルフは「あんたは暖かい部屋で温かいものを作って待っていろ」と言い、シャベルを手にもくもくと雪かきをしてくれた。
では、ということで体が冷えているだろうヴォルフのためにもスープを作ったりパンを温めたりしていると、鼻の頭を赤くして帰宅した彼は安堵したようにほっと笑うのだ。
(あの笑顔が案外素敵……いやいやいや! 気のせい気のせい!)
ヴォルフの笑顔を思い返してつい、「素敵」と思ってしまった自分を叱る。
ヴォルフとは、百万ディンでキアラを守るという契約をしている。キアラがうっかり雪かき中に足を滑らせて頭を打ち死んでしまったりしてはならないから、彼が代わりに力仕事をやってくれているだけだ。
これは仕事、お互いにとって仕事と割り切るべき――はずだ。
(ヴォルフはまだ、寝ているのかしら?)
ヴォルフは短時間睡眠で事足りる体質らしく、キアラより就寝は遅いのに起床は早い。護衛のためだからといって体を壊してはならないと言ったのだが、「俺はこんなもんだ」とあっさり言っていた。
もこもこの普段着に着替えたキアラは、階下に向かう。ヴォルフは珍しくこの時間も寝ているのだろうから、彼を起こさないように足音を忍ばせてリビングに向かったキアラだが、暖炉の前を通ったときにはたと動きを止めた。
(……これ、ヴォルフ用の煉瓦?)
暖炉の前に、煉瓦が転がっていた。ヴォルフも就寝時に寒いだろうからと、一つ分け与えていたものに違いない。
……だがそれは、暖炉の中に置かれていた。昨晩もキアラの方が先に寝て、ヴォルフは「俺も後で寝る」と言っていた。
後に就寝する彼が暖炉の火を消してくれることになっているのだが、暖炉の火は消えているのにこの煉瓦が昨晩使われた形跡はない。
「……ヴォルフ?」
急ぎ彼用の部屋に向かい、ドアをノックする。この部屋は鍵が掛かっていないので、ためらいつつもドアを開けるが、中はもぬけの殻だった。
ベッドの毛布は昨日キアラが敷いたときと全く同じで、昨晩ここで彼が寝ていないことが分かる。
さっと壁際を見ると、いつも掛かっている彼の黒いコートがなかった。
(ヴォルフは、夜から外出しているってこと……?)
ひやり、と冬の寒気以外の理由で胸が冷たくなる。
ヴォルフはキアラの護衛という任務があるため、もし外出するとしても必ず、どこに行くのかとかいつ帰るのかとかを事前に伝える。そして、あらかじめ告げた予定から遅れることなくきちんと帰ってくる。
……そんな彼がキアラに何も言わずに外出するなんて。……いや。
(……もしかして、私が知らないだけでこれまでにも夜に外出していた……?)
ヴォルフには、家の合い鍵を渡している。「こんな大切なものをほいほい渡すな」とヴォルフは嫌そうな顔をしたが、むしろ鍵を持たせていないと彼が外出するたびにキアラが開け閉めをしないといけないので、面倒だ。
そういうことで鍵も持たせているから、彼が出歩くこと自体はおかしなことではないのだが……。
ヴォルフの部屋のドアを閉めたキアラは頭の中ではぐるぐる考え事で忙しいが、やるべきことがある。
不在のヴォルフの代わりに家の前の雪かきをして、鶏たちに餌をやる。この時季はどうしても卵は産みにくくなるがそれは仕方のないことなので、冷えないようにと鶏舎を温めてから冬季でも育つ薬草を収穫し、屋内に戻る。
いつもなら朝食の仕度をするのだが今はそんな気分にはなれず、リビングの暖炉の火をおこして紅茶だけ淹れ、マグカップを手に暖炉の前に座ってぼうっとしていた。
ヴォルフがいない、ひとりぼっちの朝。
それは半年前は当たり前のことだったのに、今はとても寂しく感じる。それは、自分を守ってくれる護衛がいないからというだけではない。
(ヴォルフ、どこにいるの? こんな寒い日に、何をしているの?)
温かい紅茶は肌を温めてくれるが、不安までは取り除いてくれない。
……彼がお腹を空かせて帰ってきたときにすぐに対応できるよう、パンを温めておこう。
そう決めたキアラは紅茶を飲み干してから立ち上がったが、カタン、という小さな音が玄関の方から聞こえてきたため持っていたカップを落とすかと思った。
「……ヴォルフ?」
「……やはり、起きていたか」
玄関の方から、ヴォルフの声がする。
それだけでどっと安心できて、キアラは胸をなで下ろした。
「ええ。おかえりなさい、ヴォルフ。……こっち、来る?」
何をしていたの、どこに行っていたの、と聞きたい気持ちはもちろんあるが、まずは帰ってきたばかりの彼に温かい場所を提供しなくては。
そう思いながら玄関に続くドアを開けようとしたのだが、キアラが押そうとしたドアはギッと音を立てるだけで開かない。反対側から、押さえつけられているようだ。
「……どうしたの?」
「悪い、用事を思い出したからちょっと出てくる」
「え、何言っているの。帰ってきたばかりでしょう」
明らかに不自然なヴォルフの発言に違和感を覚え、キアラは肩をぶつけるような格好でドアを押し開け――そして、ひっと息を呑んでしまった。
ドアを突っ張るのをやめたヴォルフが、キアラの正面に立っている。彼は愛用の黒いコート姿で、頭からフードも被っている。
雪の積もった道を歩いてきたからか、足下はぐっしょりと湿っている――いや、雪が溶けた水にしては色がおかしい。
――ぱた、とヴォルフの左の指先から滴ったしずくが、床を赤く染めた。
「ヴォルフっ!? あなた、怪我をして――」
「すまない、床を汚した。後で掃除するから今は――ぐっ」
すぐさま身を翻そうとしたヴォルフを逃がすまいと、とっさに彼の右手首を掴む。すると明らかなうめき声が聞こえてきて、キアラはぎょっと目を見開いた。
(そんなにひどい怪我を――!?)
「ヴォルフ、リビングに入って! すぐに薬草の準備をするから!」
「……いや、俺はあんたの護衛だ。あんたの手を煩わせるわけにはいかない」
「うるさいっ! 私は薬草師なのよ! 傷ついた人を放っておくなんて、できるわけないでしょう!」
乱暴な理論だと分かっているが、このまま手を離すとヴォルフは家を出て行き――もう二度と帰ってこないかもしれない、という不安がキアラの頭の中を占めていた。
行かないで、ここにいて。
キアラがぐっと腕を引くと傷が痛むのかヴォルフの抵抗は弱く、ずるずるとリビングに連行することができた。
「キアラ、マットは……」
「分かった、分かったから」
この期に及んで彼はいつもキアラが座っているマットやクッションを汚すのをためらっているようなので、何も敷いていない床の上に座らせた。
「服、脱がすわよ」
ヴォルフはそっぽを向いており返事をしないが、少し腕を動かしてキアラが服を脱がしやすいようにしてくれた。
キアラはすぐさま、ヴォルフのコートを剥ぎ取った。……玄関に立っているときは分からなかったが、彼のコートは腕や腹部がざっくり切れており、修繕のしようがないほど破れていた。
脱がして床に放ったコートは重く、床に放るとべちゃり、と薄赤色の水分をまき散らした。
「怪我をしたのはどこ?」
「……重傷なのは、左脇腹と左腕だ」
「了解。……横になれる?」
ヴォルフはうなずくが右腕を突っ張って寝転がろうとすると、ぐっと歯をかみしめて唸った。重傷なのは体の左側だが、先ほど手首を掴んだときの反応からしても右腕も少なからず怪我を負っているのだろう。
コートの下は、黒のシャツとパンツだった。いつも洗濯している服だが、シャツの左側は肘から先が破れて失われており、刃物で傷つけられたのだろう深くえぐられた痕が見えた。
「っ……!」
「……寒い時期だから、血が早く止まって助かった。雪に感謝だ」
「馬鹿! 冬だと逆に凍傷で壊死しやすくなるのよ!」
笑えないジョークをかましたヴォルフを叱り、キアラはこれ以上服を脱がすのは諦め、暖炉に多めに薪を突っ込んでから風呂場に向かった。
ヴォルフのジョークのとおり、血が早く止まっていることだけは幸運だった。もしかすると患部を麻痺させて痛みをごまかすため、雪で傷口を冷やしたりしたのかもしれない。
先ほど触れた彼の体は、驚くほど冷たかった。