6 闇を生きる者
ヴォルフは、フィオレンティア王国の南隣にある小国出身だ。フィオレンティア王国の前だと吹けば飛んでしまいそうな小さな国の片田舎で、貧乏農家の長男として生まれた。
家は貧しかったが、そこでの生活は温かくて幸せに満ちていた。たくさんいる弟妹たちの面倒を見たり家業を手伝ったりしているとあっという間に一日が経ってしまうし、識字率も低い国だったので自分の名前すら書けなかった。
それでもヴォルフは、幸せだった。
……村を襲った盗賊団により、家族が皆殺しにされるまでは。
その日、ヴォルフは「友だちと遊んでおいで」と言われていたため、夕方になるまで友だちと一緒に村の近くの森で遊んでいた。気がつくと日暮れで、早く帰らないと怒られる、とみんなで笑いながら村に続く道を走り――盗賊団に襲撃され、あちこちの家屋から黒い煙の立ち上る村の姿を見た。
生き延びられたのは、そのとき森で遊んでいた子どもたちだけ。その子どもたちも盗賊に見つかり、ヴォルフは野遊びのために持っていた小さなナイフ一つで盗賊たちに立ち向かった。友だちの中でヴォルフが一番年長で、背が高かったのだ。
七人いた友だちのうち、二人は守りきれずに殺された。だがあとの五人を先に逃がし、しつこく迫ってくる盗賊の一人の喉をナイフで掻き切り――殺した。
血まみれで呆然とするヴォルフは、急ぎ仲間のもとに向かった。皆、ヴォルフを見て驚愕の表情になったが「助けてくれてありがとう」「みんなで、生き延びよう」「みんなで、大人になろう」と誓い合った。
ヴォルフたちは命からがら逃げ、フィオレンティア王国の国境を越えた。
フィオレンティア王国は、祖国より豊かだと聞いたことがある。ここならきっと、自分たちだけでも生きていける――そう思っていた。
だが飢えや怪我により、町に到着するまでに三人が死んだ。あとの二人はなんとしてでも守らなければ、とぼろぼろのナイフを手にするヴォルフだが、野犬に襲われて一人死に、そして最後まで残っていた少女も足の怪我の化膿が進み、倒れた。
『ごめんね、ヴォルフ。私も、ここまでみたい』
死なないで、と縋るヴォルフに、少女は優しい笑みを返して言った。
『みんなで生き延びる、みんなで大人になるって約束、守れなくてごめんね。ヴォルフは、無事でいて』
そんなこと言わないで、俺こそ、みんなを守れなくてごめんね、と泣きじゃくるヴォルフの手を握りながら、少女は息を引き取った。
……やがてヴォルフは、暗殺者の集団に拾われた。
頭領だった男は昏い瞳をしたヴォルフを見て、だいたいの事情を察したようだ。
『なあ、坊主。この世界の神様は人殺しが大嫌いで、一度でも人間を殺した者は天国には行けないらしい』
頭領の言葉に、ヴォルフはナイフを握りしめた。
両親から贈られたナイフは長い道程の中でぼろぼろになり、刃の部分は折れてほぼ柄だけになっていた。
『おまえも、地獄に行かなきゃならないようなことをしてきたんだろう? ……なら、おまえもうちに入るといい』
そして、頭領は差し歯だらけの口を見せて笑った。
『坊主は地獄行きかもしれねぇが、善良な心を持つのに地獄に落ちようとしている連中を助けることはできるんじゃないか?』
そのときのヴォルフには、頭領の言葉の意味はよく分からなかった。
とはいえ、もうどうでもいい、と思いつつも――仲間たちが果たせなかった、生き延びる、大人になる、という誓いを破るつもりはなかった。
ヴォルフは、暗殺者集団に身を寄せた。彼は元々手先が器用で運動神経が抜群によかったため、あっという間に技術を身につけた。
ヴォルフたちがターゲットにするのは、既に地獄行きが決まった者のみ。
親を殺されたので仇討ちをしたい、嫁いだ娘を暴力で死なせた男に復讐したい――そんな者たちの願いを聞き届け、彼らが死後に愛する人たちの待つ天国に行けるように、ヴォルフが汚れ仕事を担う。
自分はもう、家族や仲間たちが待つ天国には行けない。
地獄行きが決まっているのなら、とことん落ちてやろう。……そして、自分のところに転がり落ちてくる善良な者が一人でも減るのなら、自分の仕事にも意味があるはずだと信じていた。
やがて頭領は死に、組織は崩壊した。頭領の教えを胸に刻むヴォルフは王家のやらかしの話を聞いて、王家の末裔の女性――キアラの身に危険が迫っていると知った。
キアラを殺害しようと目論む元仲間はさっさと始末し、キアラの家に向かう。
ずっと昔、頭領に連れられて王国の各地を歩いていたとき、彼が「昔、ここに住んでいた薬草師の旦那に、助けられたことがある」と教えてくれた。その薬草師は王家の姫を妻にしており、幼い娘と一緒に暮らしているらしい、ということも。
ヴォルフにはキアラを助ける義理はないかもしれないが、家を知っている、存在を知っている以上、放っておくのは良心が痛む。
……自分にも良心はあったのだな、と自嘲しつつキアラに会いにいった。
最初は、忠告だけして姿を消すつもりだった。だがキアラは、ヴォルフに護衛を頼んできた。両親の遺産である百万ディンを払うから、半年間自分を守ってくれと。
さらに彼女はヴォルフに、半年間の契約結婚も提案した。どこまでぶっ飛んでいるんだこのお嬢さんは、と思ったが、ヴォルフ自身には結婚に対する興味関心が一切ないため、キアラがいいのならばそれでいいと思い了承した。
生まれて初めて手にする婚姻届は、ただの薄い紙っぺらだった。こんなので夫婦関係が締結できるのかと半信半疑だったが、この紙が実際にキアラを一つの脅威から守ることができるはずだ。
老神官に生温かい目で見られたのは気に障ったが、提出できたのだからそれでいい。
キアラに提出完了を報告して、この周囲の地理を掴むために少しあたりを出歩くことにした。
……キアラは正直なので、「こういう話をするのも久しぶり」と楽しそうに教えてくれる。それには、ヴォルフも同意だった。
……本当は自分も心の奥底では、こういうやりとりに懐かしさを覚え、憧れていたのかもしれない。
朝食にしてもコートにしてもさりげない言葉のやりとりにしても、キアラと一緒にいるとどうにも子どもの頃の記憶を揺さぶられる。貧しくも温かくて幸せだった、あの日々のことを。
だが、これは契約だ。
半年後には別れる予定のキアラに、必要以上に執着してはならない。
……だと分かっているのに。
「……いってらっしゃい、私の旦那さん」
おそらくヴォルフには聞こえないだろうと思って言ったのだろう、キアラの小さな声かけ。
ヴォルフは聞こえないふりをして家を出て、午前中の日差しが降り注ぐ庭に出て――つと下を向き、顔を手で覆ってしまった。
「……何が『旦那さん』だよ。のんき女」
コココッ、と鶏たちがのびのびと草地を歩く傍ら、そう悪態をつくヴォルフの耳はほんのり赤くなっていた。