4 初日の朝①
翌朝、キアラが庭に出て野菜や薬草に水をやったり小さな鶏舎の掃除をしたりしていると、鶏たちがコココッと鳴きながら表の方に駆けてしまった。
「あ、こら!」
ピッチフォークを手に慌てて玄関の方に向かったキアラは――鶏たちに包囲されブーツを突かれたりコートの裾をくわえて引っ張られたりしている男を見つけた。
「……よう。こいつら、どうすればいい?」
「え、ええと……ヴォルフ? あの、ごめんなさい!」
一瞬彼の名前は何だったっけとなりつつも思い出し、ピッチフォークを置いて鶏たちをヴォルフから引き剥がす。彼のコートをくわえていた鶏はかなり粘っていたが、最終的にヴォルフがひょいと持ち上げるとおとなしくなった。
「……鶏を触ったのは初めてだが、正面から見ると案外間抜けな顔をしているんだな」
間抜けな顔と言われた鶏だが、怒ることなくヴォルフに持ち上げられている。むしろ、「そんな褒めないでよ~」と言わんばかりに嬉しそうに身を震わせていた。褒めてはいないのだが。
キアラはヴォルフから鶏を受け取って鶏舎に戻し、玄関のドアを開けた。
「朝早くに、ありがとう。ご飯はもう食べたの?」
「俺は朝は食べない派だ」
「えっ、それじゃあ一日保たないでしょう? せっかくだから、食べていって。新鮮な野菜も卵もあるから」
「だが……」
「私、これでも料理は得意なの。卵は固ゆでと半熟、どっちがいい?」
「……固ゆでで」
渋々ながら、答えてくれた。
キッチンでキアラが朝食の準備をしている傍ら、椅子に座ったヴォルフは荷物の中から一枚の紙を出した。
「それは何?」
「婚姻届だ。今朝一番に教会に行って取ってきた」
レタスをぶちぶちと手でちぎりながらキアラが問うとヴォルフがそう答えたので、あ、そうだった、と思い出す。
(私、この人と契約結婚するのよね……)
昨日の夜は若干眠かったこともあり、あれよあれよという間に話が進んでいっても特になんとも思わなかった。
だがぐっすり寝て朝になった今は、我ながらなかなかとんでもないことを彼に迫ったのだと思われた。
「……その、本当にあなたはいいのね?」
「いいも何も、既に決めたことだろう。……それとも、なんだ。あんたの方が嫌になったか?」
「ううん、そんなことないわ」
野菜を切ったり卵をゆでたりしつつ、キアラはちらちらとヴォルフの方を伺った。彼は自分で埋められる項目を書いているようで、婚姻届にペンを走らせている。……正直字はあまり上手ではないが、丁寧な書きぶりだった。
「手が空いたら、あんたの名前をここに書いてくれ」
「了解。……今すぐ書くから、ちょっとお鍋を見ていてくれる?」
「……見ているだけでいいのか?」
契約のときなどは堂々としていたヴォルフが、やや自信なさげに鍋の方を見た。
それがなんだかおかしくて、キアラは小さく笑う。
「トングを使って卵をころころ転がしてくれると、ありがたいわ。……ヴォルフは料理、しないの?」
「したことがないし、できる自信もない」
そう言いながらも、ヴォルフはキアラが差し出したトングを受け取って鍋の前に立ち、ぐるぐると中身をかき混ぜた。……あまり混ぜすぎるとゆで卵が変な出来になるのだが、まあそれもおもしろいだろうしどうせ自分たちが食べるのだから、彼に任せることにした。
(……これが、婚姻届。初めて見るわ)
近くの村で暮らしている女友だちの中には、結婚して旅立っていった者もいる。彼女らから、「婚姻届を書くの、すごく緊張した!」という話は聞いたことがあったが、実物を見るのはこれが初めてだ。
(世の中の夫婦は皆、これを書いて教会に提出するのね……)
きっとキアラの両親も、王家から籍を抜いた祖母も、同じようにこの届けを書いたのだろう。
だがキアラにとってのこれは幸せな結婚生活の始まりを告げるものではなくて、キアラの身を守ってくれる防具のようなものだった。
鍋の前でヴォルフが「……これで本当にいいのか?」「できているのか?」などつぶやきながら卵を転がしている傍ら、キアラは自分の名前をサインした。
ヴォルフ・リナルディと、キアラ・リナルディ。
愛し合ったわけでも政略でもない、生き延びるために手を組んだ二人の名前が、並んでいる。
(……まあ、こういう生き方もありといえばありよね)
キアラは納得しているし、ヴォルフの方も仕事と割り切っている。恋だの愛だのが絡まない関係というのは……斬新ではあるが、案外気楽なものかもしれない。
「書けたわ。これ、出しに行くのよね?」
「書けたのなら、代わってくれ」
「はいはい」
焦った様子でトングを渡してくるヴォルフは、なんだか生まれたばかりの子どもを抱っこする父親のようだ。
キアラが卵をころころしている傍らで、ヴォルフは婚姻届を確認していた。
「……間違いはないな。善は急げだから、この後すぐに出してくる」
「あなた一人で?」
「使い走りくらいなら、俺がする。……なんだ、俺がちゃんと出すのかどうか不安か?」
「あ、いや、そうじゃなくて……こういうのって夫婦二人で持っていくものだと思っていたから」
キアラが言うと、婚姻届を荷物に入れていたヴォルフがさっとこちらを見た。
……明るい時間になって気づいたが、彼の目は紫色だった。そして、髪も漆黒ではなくて日光を浴びると少し赤色っぽく見える黒髪なのだと分かった。
「確かに、普通ならそうする。……だがあんたからすると、自分の関与しない間にさっさと提出された方がいいんじゃないか?」
「……出荷する牛には名前を付けないってやつ?」
「奇抜なたとえだが、まあそんな感じだ」
要するに、半年後に解消すると決まっている関係なのに一緒に届けを出しに行ったら、変に情が湧いてしまうのでは、ということだ。
(それはそうだけど……)
「教会の人に怪しまれたりしないかしら?」
「出すだけなのだから、別にどうとも思われないだろう。むしろいずれ解消するのだから今回は俺一人で行き解消するときにあんた一人で行けば、教会のやつも『ああ、あの身勝手な旦那がフられたのか』って思ってくれるだろう」
「え、私があなたをフる側なの?」
「逆はよくないだろう」
ヴォルフはそう言って、荷物をキッチンの隅に置いた。
……なんだか少し釈然としないが、ちょうど卵もゆであがった。まずは腹ごしらえするべきだ。
キアラは元々卵は緩めにゆでる派だが、ヴォルフが固ゆでを所望したので今日はせっかくだから彼に合わせることにした。
ここらではちょっと貴重な岩塩を砕いてゆで卵に添え、今朝収穫したばかりの野菜や薬草を盛ったサラダ、昨日の夕食の残りのスープやパンを温め直したものをテーブルに並べるのを、ヴォルフは驚いた目で見ていた。
「……あんたは毎朝、こんなに食べているのか」
「今日はヴォルフがいるから、少し奮発しちゃった。さ、そこに座って」
「……食費は、後で出す」
「ああ、そういうのはいいわよ。金庫のお金を引き出すときになんかそれっぽく調節して」
「適当すぎだろう……」
「いいからいいから」
何だかんだ言って、キアラだってヴォルフと一緒に食事ができるのが楽しみなのだ。
両親が死んで数年経ち、一人で食事をするのが当たり前だった。たまに友だちや知人が来たときには料理を振る舞ったりするが、それも一年に数回程度。特に、朝食を一緒にすることはなかった。
「それじゃあ、いただきましょうか」
「ああ」
キアラは食前の祈りを捧げるが、ヴォルフはすぐにスプーンを手に取った。彼は異国出身だから、この国で浸透している食前の祈りをしないのだろうし――彼の普段の生活を考えると、いちいち祈りを捧げるよりもとにかく早く食べなければならないのだろうから、特に気にならなかった。
向かいに座るヴォルフは最初こそぎこちなくスープのカップにスプーンを入れていたが、一口食べると目を丸くしてがつがつと食べ始めた。
「おいしい?」
「ああ、うまい。……と、すまない。行儀がよくなかったか」
「ここはお城のパーティー会場じゃないのだから、気にしないで。ヴォルフが食べやすいように食べてくれればいいわ」
キアラが笑顔で言うと、ヴォルフは「分かった」と少し気まずそうにうなずいてから、固ゆで卵にも手を伸ばした。
(よく食べるのね……)
男性にしては小柄で細身だから食が細いのかと思いきや、彼は皿に盛られていたサラダやパンをどんどん平らげていく。
「お腹空いていたの?」
「まあ、そうだな。半日ほど何も食べていない」
「えっ、昨日の夜は?」
「食う時間がなかったから、水だけ飲んだ」
「それじゃあ体力が保たないでしょう! ほら、もっと食べて!」
「……だが、おまえも食うだろう?」
「私はあなたほどお腹を空かせていないから、平気よ。スープのおかわりは?」
「……いただく」
何だかんだ言って、食欲には勝てないようだ。
一人だと食器の音だけが響く食卓は、ヴォルフがいるだけでにぎやかになった。結婚して、誰かと一緒に暮らす……というのは、こういうものなのかもしれない。
(……まあ、半年間だけだけどね)
食事の後、ヴォルフは「俺も片付けをする」と言い張った。おそらく朝食代を少しでも返そうとしているのだろうが、ここで突っぱねて押し問答になるのも面倒なので、キアラが洗った皿を拭く作業を任せた。
こういうのも初めてらしく、彼はやや緊張しているような横顔で丁寧に皿を拭いてくれた。