3 二人の契約
契約をするのだから、キアラはヴォルフを正式に家に招き入れた。
彼は軽く会釈をして寝室に足を踏み入れ、着ていたコートをきちんと脱いでたたんだ。まめな性格のようだ。
「確認になるが、あんたが警戒するべきなのは二種類の脅威だ」
キアラが淹れたお茶を「うまいな」と飲んでから、ヴォルフは切り出した。
「公爵家の方は、俺がついているからには安心しろ。百万ディンも支払ってもらうからには相応の働きをする」
「ええ、期待しているわ」
「それから、もう片方だが……そいつらがこの家に押し入っておまえを誘拐するかもしれない点については、まあ大丈夫だろう。面倒なのは、戸籍を押さえられた場合だ」
「戸籍……」
「あんた、独身だろう。気になっている男とかはいないのか?」
……まさか、女友だちの間で出てくるような質問をされるとは。
ほんの少しだけ頬が熱くなるが、これも彼と護衛契約を結ぶ上で必要な回答なのだろうと気を引き締める。
「いいえ、いないわ。これまでの二十年間自分のことで精一杯で生きてきたし、仕事と家事で忙しいから恋愛もさっぱりよ」
「……そうか。もしいい相手がいるのならば、さっさと籍だけでも入れてもらった方がよかったんだがな……」
ヴォルフの方は、困った様子だ。
「なんとしてでもあんたを手に入れたいが、俺という邪魔者がいる。……ならばまずは形だけでも手に入れよう、とする者が出てくるかもしれない」
「……ええと。それがつまり、戸籍を押さえるという……?」
「そう。つまり、あんたとの婚姻届を勝手に出してしまうんだ」
ヴォルフの言葉に、はた、とキアラはヴォルフのカップにおかわりを注いでいた手を止める。
「……私、承諾しないわよ?」
「サインを偽造するんだろう」
「犯罪じゃない!」
「世の中には筆跡模写を生業とする者もいるからな。そういうのにあんたのサインを真似させ、婚姻届を教会に提出する。……そうするとひとまず形だけでも、あんたを妻にできる」
「そ、そんなことをされたら逃げられないじゃない!」
ポットを手にしたままキアラがあわあわしていると、ため息をついたヴォルフが立ち上がってポットをそっと取ってくれた。
「だから、やられる前にやってしまうのがいいと思ったんだ」
「……あ、それでさっき、籍だけでも入れてもらった方がよかった、って言ったのね」
「そうだ。いくら貴族の連中でも、重婚はできない。おまえを出し抜いて婚姻届を作っても、教会に既におまえが誰かの妻として登録されていれば突っぱねることができるし――その時点で偽造がばれて、そいつを叩きのめすこともできる」
「……」
「ということだから、近くの村にいる信頼のできる男にでも頼んで――」
「それ、ヴォルフじゃだめ?」
キアラが問うと、ポットをテーブルに置いたヴォルフはきょとんとしてこちらを見てきた。
これまではクールに対応してきたヴォルフだが、驚いた顔は案外あどけなかった。
「は? 俺が?」
「ええ。あなたと私が結婚したことにして届けを出せば、勝手に誰かに出されることを阻止できるのでしょう?」
「……それはそうだが」
「もしかして、追加料金が必要?」
「それはまあ、いいとして――いいのか? 俺みたいなやつと結婚するんだぞ?」
「私は別にそこまで結婚に夢見ていないから、構わないわ。……あ、それともヴォルフの方が、好きな女の子がいるの?」
「……いない。いないが――」
ヴォルフはぎゅっと眉根を寄せ、頬杖を突いた。
「……名前から分かっているかもしれないが、俺は異国人だ」
「そうね。ヴォルフって、このあたりではあまり聞かない名前ね」
「……俺はとうの昔に家族を失っていて、名字を持っていない」
「あ、それじゃあ私たちが結婚したら、あなたがリナルディ姓を名乗るのね」
「……半年間だけの契約結婚だとしても、あんたの戸籍に傷が付くぞ」
「どこの誰か知らない人に勝手に届けを出されるより、ずっといいと思うわ」
戸籍を穢される、という言葉はよく聞くが、自分の命や貞操の危機を防げるのであれば少々の傷ぐらい痛みの一つにも数えられない。
「護衛の契約期間と同じ間だけでいいわ。……私が自分の把握しない間にどこかの誰かの妻になるのを防ぐために、あなたの名前を一時的に借りたい」
「……」
「……あの、本当に形だけでいいからね? 別にその、一緒に寝てくれとかそんなことは言わないし」
「あ、当たり前だろう!」
かっとなって声を上げてから、ヴォルフは気まずそうに椅子に座り直した。
「……あんたは本当に、それでいいのか?」
「他に頼る相手もいないし、これも契約の一環だと思った方が割り切れるわ。もちろん、あなたがそういうのを嫌うのであれば他の手を考えるし」
「……。……いや、俺の方はちっとも構わない。俺こそ、恋愛やら結婚やらに一切の願望がないからな」
分かった、とヴォルフはうなずいた。
「これから半年間、あんたの夫兼護衛になろう。……ただ、いずれ別れると決まっている関係を公にするのはよくない」
「そうね。あなたにはこれから、うちにいてもらうのだけれど……夫ではなくて、お手伝いをしてくれる知り合い、ということにしようかしら」
「それくらいでいい」
ヴォルフも了解したところで、キアラは一旦一階に下りて古びた鍵を手に寝室に戻った。
「これ、うちの地下室にある金庫の鍵よ。中身をひっくり返せば百万ディンはあるはずだから。どうぞ」
「いや、『どうぞ』ではない。金庫の鍵だろう」
「……それじゃあ今、一括で百万ディンを渡した方がいい?」
差し出した鍵を突き返されたのでキアラが問うと、ヴォルフは「それはさすがに金の置き場に困る」と真面目に返した。
「……鍵はせめて、どこか別の場所に置いておいてくれ。それを、俺が必要なときに少しずつ引き出すから」
「そっちの方がいいなら、そうしましょうか」
キアラとしては別にこだわりはない。生活費は別の場所に貯蓄しているから、もし遺産用の金庫が空っぽになっても、ヴォルフがそれに見合うだけの働きをしてくれているのならば構わないとさえ思っている。
それでは、とキアラは自分の分のお茶を飲み干して立ち上がった。
「婚姻届の準備をするのは明日からにして……今日はもう、休みましょうか」
「そうだな。さすがに今日明日で襲撃者が来るとは思えないから、俺はそろそろ邪魔する」
「え、泊まっていかないの?」
キアラが問うと、おかわりのお茶も全て飲んだヴォルフは眉根を寄せた。
「さすがに今日いきなり泊まるのは、あんたにとって負担になるだろう」
「一階にお客用の部屋があるから、そこを使えばいいわよ。お布団もあるし」
「……」
ヴォルフはしばし黙っていたが、やがて首を横に振った。
「……申し出はありがたいが、今日はやはりやめておく。荷物も持ってこないといけないからな」
「あ、それもそうね」
「ああ。明日の朝、また来る」
ヴォルフはそう言うと、寝室の窓を乗り越えた。
「玄関から出ればいいのに……」
「ここに登ってくるために使ったロープも回収するから、ついでだ。……夜中に、悪かったな。体、冷えないようにしろよ」
ヴォルフはそう言うと、窓から飛び降りた。
一瞬ぎょっとしたが、カチャカチャと何かをいじる音がしたため窓辺に向かったところ、黒いフードの頭が足早に去っていくのが見えた。
(……なんだか、嵐のような時間だったわ)
目を閉じれば、ヴォルフが現れてから今までのことが夢のように思われるが――テーブルには二人分の茶器が残っている。
いきなり現れたヴォルフによってもたらされた、とんでもない事柄の数々。
一番の驚きは、出会って一時間も経っていない男と契約結婚をすると決めたことだろうか。天国の両親も、さぞ驚いていることだろう。
(……私は、死にたくない。それに、誰かに利用されたくもない)
ベッドサイドのテーブルに歩み寄り、そこに置いていた写真を手に取る。つい十年ほど前に発明されたばかりの写真技術は画期的である反面写真一枚を撮るだけでも値が張ったが、「せっかくだから」ということで、家族三人で写真を撮ってもらった。
元気だった頃の両親と、当時十歳だったキアラの写真。
両親の面影を感じられる、唯一の宝物。
「……私、生きるよ」
ヴォルフという男なら信用してもいいと、なんとなく思っている。
キアラは、誰の手にも渡らない。
自分の生き方は、自分で決めていくのだ。