27 二人の答え合わせ
自宅に戻るのも、実に数ヶ月ぶりになる。
家のことはカルメンたちにも頼んでいたものの、キアラは庭が荒れていたり家が埃まみれになっていたりすることもある程度覚悟していた。
だが――
「え、普通にきれい……」
馬車から降りたキアラは、何度も瞬きをして自宅を見つめた。
ここを出発するときは冬だったが、雪が全て解けた今は自宅の全貌がはっきり見えた。
家の壁はすすけていないし、畑もきれいに整備されて畝も作られている。急ぎ鶏舎に向かったが、鶏たちは元気よく挨拶をしてくれた。鳥頭、なんて言葉があるがキアラのことをきちんと覚えてくれている様子だ。
家の中も埃一つなく清潔そのもので、自宅の鍵を握りしめたままキアラはわなわな震えた。
「ま、まさか妖怪きれい好き野郎が出てきて……」
「んなわけないだろ。この三ヶ月ほど、俺がここで生活していたんだ」
「えっ」
キアラが振り返ると、コートを脱いだヴォルフがやれやれとばかりに目を細めた。
「庭のことは町のやつらも手伝ってくれたが、中は俺が掃除とかをしていた」
「でも鍵……」
「俺に合い鍵を渡したのはあんただろう」
「あ、そうだった」
確かに、ヴォルフから届いた紙袋に入っていた自宅の鍵は、ものを取りに帰るという彼に預けた一本だけだった。
彼は以前キアラが押しつけた合い鍵をきちんと持っており、それでここに出入りしていたようだ。
(そういえば私、てっきりヴォルフは私との契約を破棄して姿を消してしまったんだと思っていたんだったわ……)
冷静に考えればヴォルフほど几帳面な男が合い鍵を持ったまま行方をくらますはずがないのに、キアラは自分が彼に合い鍵を渡したことさえ忘れていた。
「あんたが自由の身になるまでの三ヶ月間は、ここで生活していた。……安心しろ、公爵邸に届けるための荷物を見繕っているときも、あんたの衣類には手を触れていない」
「そんなこと疑わないから、大丈夫よ」
ヴォルフがキアラの下着などが収められているクローゼットをあさるとは、一ミリも思っていない。
……彼自身がまともな人間だからというのもあるし、「あんたのクローゼットをあさってもいいという契約をしていない」なんて理詰めで答えそうでもある。
馬車から下ろした荷物を一旦リビングに置き、キアラは久しぶりに紅茶を淹れた。
「どうぞ」
「ありがとう。……悪い、あんたがいない間、最低限にはとどめたが食器も使った」
「いいのいいの。……お茶は自分で淹れられた?」
「……見よう見まねでやってみたが、飲むのに体力を消耗するようなものができあがった。だから、あんたの淹れる茶は本当にありがたい」
ヴォルフはそう言って、キアラが淹れた茶を飲んで「やはり、うまいな」とほっとした顔になった。
……至極幸せそうな彼の顔についきゅんとしてしまったが、きゅんきゅんしている場合ではない。
「……あの、ヴォルフ。契約の話だけれど……」
「ん、もうしていいのか?」
「ええ、こういうのは急いだ方がいいでしょう」
キアラがうなずくと、ヴォルフは「それもそうだな」と、カップを置いた。
「俺があんたと契約したのは、イザイアが十八歳の誕生日を迎えて即位するまで、俺があんたを心身共に守るというものだったな」
「ええ」
「結果としてイザイアは無事に即位し、あんたの名が王家の名簿から削除されたため、俺はあんたの護衛をする必要も契約結婚をする必要もなくなった。任務完了、ということでいいな?」
「ええ、お世話になったわね」
キアラはぎこちなくうなずいてから、ポケットに入れていた金庫の鍵を出した。
「報酬の支払いをするけれど……あなた、金庫からどれくらい徴収した?」
「……実は、ほとんど手を付けていない」
なんとなく、そんな感じはしていた。
「分かった。それじゃあ当初の予定では報酬は百万ディンで、そこからあなたの生活費を差し引くということだったけれど……」
「俺はあんたが公爵邸にいる約三ヶ月間、あんたの側にいなかった。だからその期間の報酬は削ってくれ」
「でもあなたはバルドに襲われた私を、助けてくれた。これは特別報酬に値すると思うわ」
「だとしてもせいぜい補填できるのは報酬一ヶ月分程度だ」
「……」
「……」
二人はキアラがテーブルに置いた金庫の鍵を挟んで、しばし黙った。
「……なんだか計算するのが面倒になったからもう、いろいろ帳尻を合わせた結果として百万ディンを払うということでいい?」
「俺は基本的に金勘定はきっちりさせたい派なのだが、これに関してはあんたに同意だ」
ヴォルフも面倒くさくなったようで、承諾してくれた。
なんだか雑な形ではあるが、ひとまずこれでヴォルフとの契約は無事果たせたということになる。
(……もう、ヴォルフとはお別れ……)
どくん、と心臓が悲鳴を上げる。
嫌だ、離れたくない、と泣いている。
(……そうだ。ここで、「答え合わせ」をしないと!)
一ヶ月前にヴォルフが公爵邸を出る際、キアラに残したあの言葉。
彼はもう覚えていないかもしれないが、キアラはずっとずっと考えてきたのだ。
彼が去る前に、それだけは確認しなければ。
「あのっ」
「なあ」
「……」
「……」
「ど、どうぞ?」
「いや、あんたの方がわずかに早くて……」
「どうぞっ!」
キアラが真っ赤な顔で発言権を押しつけると、ヴォルフはぎょっとしつつも「そこまで言うのなら……」と受け入れてくれた。
「一つ、昔話をしていいか?」
「……」
何を言われるのか、とどきどきしていたり、自分が切り出すのは怖かったのでヴォルフの方から言い出してくれたら嬉しかったり、と考えていたキアラは、ヴォルフの発言に内心がっかりしてしまった。
(……ううん。先にどうぞと言ったのは私だし……)
「……ええ、どうぞ」
「ありがとう。……ずっと前に言ったと思うんだが、俺がかつて所属していた暗殺者集団の頭領のモットーのことだが」
「……ああ、罪のない人を殺すという依頼は受けないっていう?」
「そう、それだ。……俺はこの三ヶ月間、頭領のその言葉の意味について考えていた」
腕を組んで天井を見上げるような姿勢になったヴォルフを、キアラは唇を引き結んで見守っていた。
「俺は頭領に拾われたという恩義もあったから、あの教えを心に刻んでいた。……だが集団の中にはその教えの意味が分からないといって反抗するやつもいたし、そういう連中が頭領の死後、あんたを真っ先に殺そうとした」
「……」
「俺は、なぜ頭領はこんな教えを俺たちに強いたのかと思っていた。……人はどのような理由であれ一度でも同族である人間を殺したら、天国に行けなくなる。俺は昔、生き延びるために人を殺した。その時点で地獄行き確定だった」
キアラは、少し視線を落とした。
(ヴォルフが暗殺者になるより前のことを聞くのは、これが初めてね……)
昔話というのは何のことだと思っていたが、「答え合わせ」云々なんかよりずっと重く大切な話だった。
「世の中には、憎き相手に復讐したくてもできない者たちがいる。俺たちはそういうやつらの依頼を受け、殺したいほど憎い相手を代わりに殺すというのを生業としていた。そうすると俺たちは地獄行きだが、殺したくても殺せないと悔し涙を流していた依頼者はその手を穢すことなく、死後には大切な人の待つ天国に行ける。……そのために俺たちはあの教えを大切にしなければならない、と言われていた」
「ヴォルフはそれに、納得していたのよね?」
「まあ確かに、そっちの方が後味も悪くないからな。……だが俺は、頭領にはもっと別の思惑があったのではないかと思うようになった」
ヴォルフは目を閉ざし、小さく息を吐き出した。
「……頭領は死ぬ少し前から、自分が死んだらこの組織は解体するようにと言っていた。そして、俺たちにはまっとうな仕事をして生きてほしいと。……おかしな話だよな? 人を殺す集団の頭が、組織解体後はカタギとして生きていけと部下たちに言うなんて」
「……」
「……ずっと変だとは思っていた。でも、今……あんたと一緒に過ごすようになって、分かったんだ」
ヴォルフは目を開いて姿勢を正し、紫の瞳をまっすぐキアラに向けた。
「俺は、あんたと一緒に過ごす日々を楽しいと思った。……叶うなら、これからもずっとあんたといたい、と思っている」
「えっ」
「だがそれには、俺の人殺しという前科が響く。きれいな手を持つあんたに、俺はふさわしくない。やるべきことだけやってさっさとあんたと離れた方があんたのためになるんじゃないか、と思える」
だが、とヴォルフの瞳が揺れた。
「もしかしたら頭領は、俺たちがこういった葛藤を抱えたときのことを考えていたんじゃないかと思うんだ。……俺たちは確かに、地獄行きが確定した犯罪者だ。だがもし、地獄に行くまでの間に日の差す温かい場所で生をまっとうしたいと思ったときには――『自分は殺し屋だが、罪なき人は殺していない』というのを、免罪符にできるようにしたんじゃないか。一度転がり落ちてしまった者が明るい場所で生きていくために、自分で自分を許すための逃げ道だったのではないか……と」




