20 ヴォルフの真意②
かつてヴォルフが夜間侵入したというイザイアの部屋では、多くの小姓たちに書類を捜させたり本を移動させたりしていたイザイアが待っていた。
「やあ、ようこそ。わざわざ着替えてもらって、悪いね」
「いいえ、このワンピースもイザイア様からのお心遣いです。私こそ、イザイア様にお礼申し上げます」
「気にしなくていいんだよ。それより……それ、受け取ってくれ」
イザイアがそう言うと、彼の近くにいた小姓がキアラのもとに来て小さな紙袋を差し出してきた。絢爛豪華な公爵邸では不相応な、安っぽい紙の袋だ。
……その安っぽさに、胸が不安を訴える。
急ぎ受け取ったそれには、特に何も書かれていない。だが中をのぞき込んだキアラは、息を呑んだ。
「これ……私のもの?」
小姓が大きめの盆を差し出したので、そこに紙袋の中身を開けた。
中に入っていたのは、キアラがよく使っていた小物や小銭入れ、そして――金庫と自宅の鍵だった。
(これは、ヴォルフに使うように言った……)
古びた鍵を目にしてキアラが言葉を失っていると、イザイアは小さく息をついた。
「……あなたの夫であるヴォルフはもう、ここには来ない」
「……」
「その反応からして、だいたいの予想はしていたようだね」
イザイアに言われたキアラは小さくうなずいて、盆の上の金庫の鍵をそっとつまみ上げた。
……分かっていた。
予想は、していた。
ヴォルフは、ここにはもう来ない。
最初から、キアラを公爵邸に残して去るつもりだったのだ。
『俺も一緒にいられる方法があるから、安心しろ』
あれは、キアラを安全な場所に居させるためについた、嘘だった。
『俺、結婚できたのがあんたでよかったと、本気で思っている』
あれは……もうキアラと会わないから、最後に伝えようと思った言葉だった。
そしてキアラの手の中にある金庫の鍵はおそらく、「あんたの金にはもう、手を付けない」というメッセージなのだろう。
彼のことだから……契約を途中で反故にする後ろめたさから、キアラの家の地下にある金庫の中身は、ほとんど減っていないのではないか。
全ては、キアラのために。
キアラと交わした約束を守れずに去ることを、悔やんでいたから。
「……イザイア様は、ご存じだったのですね」
ほぼ確信を持って問うと、イザイアはあっさりうなずいた。
「ああ。彼が僕の寝室にやってきたあの晩に既に、話は付けていた。父上を説得できたら、僕はあなたを庇護下に入れる。だが……あなたと契約結婚しただけの彼まで保護する道理はないし、彼は元暗殺者だろう。……そのような者を、うちに置いておくわけにはいかない」
きっとあの夜もイザイアはそのようにはっきり言い――ヴォルフは、承知したのだろう。
だがヴォルフがいなくなると知れば、キアラがだだをこねるかもしれない。だからぎりぎりまで嘘をつき、自分一人姿を消した。
そうすることでキアラを守れるし――キアラもまた、自分のせいでヴォルフを巻き込んだと気負わずに済む。キアラの性格を熟知する彼だからこそ、そのような結論を出せたのではないか。
キアラが黙って鍵を見つめていると、イザイアが静かに息を吐き出した。
「……それで? 行方をくらました彼を追いかけに行くのか?」
「いいえ、しません」
顔を上げたキアラは、はっきり言った。
……ヴォルフがいなくなったことはショックだが、今のイザイアの問いかけで一気に頭の中がすっきりした。
(ヴォルフは言っていたわ。『俺の命の使い方は、俺自身で納得している』って)
これは、彼自身が納得して出した結論だ。
公爵邸を飛び出してヴォルフを追うというのはつまり、彼の結論や気遣いを否定することになる。
「ヴォルフはきっと、私の身の安全を一番に考えてくれた。それなら私は彼が願ったように、ここにいます。ここで、イザイア様の即位を見届けて……私がフィオレンティア王家と無関係になってから、彼を探しに行きます」
「ああ、そう言ってくれると僕たちもあなたを地下牢に閉じ込めずに済むよ」
……いい笑顔でとんでもないことを言われたが、イザイアの偽りない本音なのだろう。
キアラは盆に広げていた小物や鍵を紙袋の中に戻し、それを胸に抱えてイザイアにお辞儀をした。
「ありがとうございました、イザイア様」
「僕は何もしていないよ。……でもなんだか、うらやましいな」
「えっ?」
デスクに頬杖を突いていたイザイアは、涼やかな美貌に少しばかりの寂しさの色を載せて、キアラを見ていた。
「……僕は正直、ヴォルフのことを下に見ていた――いや、今も下に見ている。身分も権力も何もない、底辺で生きてきた破落戸だと」
「……」
「でも、そんな彼にはあなたというよき理解者がいる。その紙袋の中には、ヴォルフからの手紙などは何も入っていないのに、あなたは彼の気持ちを的確に言い当てた。彼もまた、あなたの気持ちを予想した上で離れるという選択肢を選んだ。……そうやって心を繋ぎ合える相手がいることが、うらやましいと思ってね」
キアラは、何も言えなかった。
「イザイア様には、そういう相手はいらっしゃらないのですか」と問うのはあまりにも浅はかだし、かといってヴォルフを卑下するイザイアを責めることもできない。
名門貴族の令息として生まれ育ったイザイアと、血筋だけは高貴だが平民として育ったキアラ、そして平民として生まれ貴族からは眉をひそめられるような経歴を持つヴォルフ。
それぞれにあるものとないものがあり、自分にないものを持つ者のことをうらやましく思う気持ち。……それは、ある意味永劫に分かり得ないものなのだろう。
「……私は、彼のことを信じています。そして、そんな彼の誠意に報いるために、イザイア様や公爵閣下との約束を必ずお守りします」
キアラが静かに言うと、イザイアはおもむろにうなずいた。
「ああ、そうしてくれ。僕の誕生日まで、あと半月。そして――即位まで、おそらく一ヶ月と少し。それまで、あなたにも頑張ってもらうよ」
そう言うイザイアは、柔らかい微笑を浮かべていた。




