1 夜更けの訪問者
その日の夜、キアラの寝室の窓が外側から開かれた。
窓辺に降り立ったのは、フード付きの黒いコートを着た人物。星明かりを浴びて不気味にたたずむ影を前に、寝仕度をしていたキアラはぽかんとしてしまった。
「……あんたがキアラ・リナルディか」
声は、若い男性のそれだった。だが、聞き覚えはない。
「……」
「答えろ。あんたが、キアラ――」
「あの、着替え中ですので……」
「……。……すまない」
侵入者は、くるりと背を向けてくれた。案外いい人らしい。
(……えーっと? これはどういう状況?)
侵入者が背を向けてくれている間に、下着姿だったキアラは寝間着に袖を通しつつ、考えていた。
キアラ・リナルディはここ、フィオレンティア王国の田舎で薬草師として暮らす二十歳の娘だ。父親は薬草師だったが両親共にキアラが子どもの頃に病没しており、父が経営していた店をそのままキアラが引き継いでいた。
一応キアラも薬草師の資格を持っているが、店といっても小さなものだ。元々両親も金儲け主義ではなく、近所に住む人々の役に立てれば十分という程度で店を経営していた。
娘のキアラも店舗拡大などは全く考えておらず、近隣の町村の人々を対象とした薬を煎じたり、庭の野菜を育てたり鶏たちを追いかけたりする日々を送っている。
今日もしっかり働き、そろそろ寝ようかと思っていたところに現れたのが、今キアラに背中を向けている侵入者の男だ。
先ほど冷静なやりとりはできたが、別にキアラの肝が据わっているわけではなくて、あまりにも驚きの出来事に一周回って脳みそが冷静になり、とりあえず下着姿は見ないでほしい、と思ったのだった。
キアラが寝間着の胸元のリボンも結んで、念のためにガウンも羽織ったところで男が「もういいか」と問うてきた。律儀な人だ。
「はい、着替えは終わりました。待ってくれてありがとうございました」
「気にするな……。……いや、あんた、なんでこんな冷静なんだ?」
振り返った男は、呆れたような口調で言ってから目深に被っていたフードを下ろした。
その下にある顔は、声から想像できたとおり若い男性のものだった。
漆黒の髪に、暗い色の目。はっきりとは見えないが、それなりに整った容姿を持っているように思われる。
「普通、窓から見知らぬ男が現れたら悲鳴を上げるだろう」
「……上げようかとは思ったのですが」
「……まあ、いい。あんたに話がある」
男はそう言って、窓の桟に腰掛けた。さすがに彼に椅子を勧めるつもりにはなれないので、キアラは彼と距離を取りつつ壁際の椅子に座った。
「……この格好を見て分かるかもしれないが、俺は暗殺者だ」
男があっさり言ったため、キアラは今になって緊張してきた胸を抱えつつうなずいた。
「……そのようですね。私を殺しに来たのですか?」
「違う、警告しに来た」
男はそう言ってから、腰に下げていたナイフをベルトごと外して床に置き、胸元から引き抜いた細い棒のようなものなども放った。
「まだ隠し武器はあるが、ひとまず今外せるものは外しておく。心配なら、そこのドアも開けておけ」
そう言われたキアラは目を細めつつ、そっと背後のドアを押し開けた。
(暗殺者、というわりにはまともそうだけど……)
キアラが逃げることも想定しているようだが――おそらく、逃げられても問題ない、もしくは逃がすつもりはないと言いたいのだろう。とはいえ、念のためにドアは開けておくことにした。
「まずは。あんたの母方の祖母は、フィオレンティア王国先代国王の妹姫であるエディット王女。これに間違いはないな?」
男に問われたため、キアラはごくっとつばを呑んだ。
キアラの父は、平民階級の薬草師だった。そんな彼は商家の娘だった母と結婚したが――母は、王家の血を継いでいた。
キアラの祖母は、先代国王の年の離れた妹として生まれた。これは当時、かなり大きな問題になったそうだ。
というのも先々代国王の王妃は長年子どもに恵まれず、仕方なく娶った妾妃が産んだのが先代国王で、キアラの祖母が王妃の子だった。
妾妃が産んだ王子と、王妃が産んだ王女。
このままでは継承問題まっしぐらだったこともあり、王女は幼い頃に王位継承権を放棄した。そして彼女は護衛の騎士だった男と駆け落ち同然に結婚して、王家から籍を抜いた。
そうして生まれたのがキアラの母で、薬草師だった父との間にキアラが生まれた。祖母も母も既に亡いが、キアラの体にはフィオレンティア王家の血が流れているのだ。
……残念ながらキアラは王族に多い金髪碧眼の美形ではなくて、父親と同じ栗色の髪に茶色の目の平凡顔だったが。
王女を祖母に持つとはいえ、キアラの王位継承順はないようなもの。現在の王太子とははとこの関係にあたるが、キアラは王都に行ったことがないので一度も会ったことがない。
(王太子殿下には既にご令息がいるし、弟王子や、妹王女が産んだ子とかがいらっしゃる。そういうこともあって、私は王家とは全く関係がないのだけれど……)
なぜこの男がそれを知っているのかは甚だ疑問だし非常に怪しいが、ここで「いいえ」と言っても話が進まないのは目に見えている。彼だって、確信をもって尋ねているのだろう。
「……ええ、そうです。しかし私の祖母は幼い頃に王位継承権を放棄し、王家からも籍を抜いております。当然、母や私も継承権を持っておりません」
「そのようだな。……だが、今王家では問題が起きている。現国王と王太子が、やらかした」
「……やらかし?」
嫌な予感のする単語にキアラが身を乗り出すと、男はうなずいた。
「王太子が隣国の姫を妃に迎えているというのは、あんたも知っているな?」
「……はい。いろいろな権利条約の絡んだ政略結婚だったとか」
「そう。つまり、二国間の調和のためには王太子は娶った妃を大切にしなければならない。……だが王太子は、流れの踊り子に熱を上げていた。彼女に貢ぐために、国庫を費やしてな」
「……え?」
国庫を費やして、踊り子に貢ぐ。
つまり、キアラたち国民が納めた税金を私欲のために――もっと言えば不倫のために使ったということ。
「な、なんてことを……!」
「しかもそれを父親である国王も容認していて、予算報告書の改ざんを命じていたことが分かった。国民たちに知らされるのはもう少ししてからになるだろうが、現在の上層部はてんてこまいだ。国王と王太子がそろって、不始末をしでかしたということだからな」
キアラは信じられない気持ちで、男の話を聞いていた。
「……それは、真実なの?」
「疑いたければ疑っていろ。……だが、ここで俺の話を空言だと切り捨てるよりは、騙されたと思って受け入れた方がいい。というのも、これによってあんたに身の危険が迫っているんだ」
男は桟に座り直し、空中に図を描くように指を動かした。
「今回のやらかしに王太子妃は激怒し、息子を連れて祖国に帰ると宣言した。そして、直接関係はしていないにしろ父と兄が糾弾されていることで、弟王子や妹王女たちにも累が及んでいる。……つまり、王位継承順位が大きく変動しようとしている」
「……確か継承順位は、王太子殿下の次は殿下のご令息、その後に弟王子殿下というふうに続いたと思うのだけれど」
「そうだ。だが、国王の子どもたちの継承順位は一気に落ちた。代わりに浮上したのが、これまでは継承順位の低かった公爵家令息のイザイア・フィーニだ」
イザイア・フィーニ。名前は聞いたことがある。
(確か、先代国王陛下の妾妃の血族だったわね)
妾妃が産んだ王子の娘――彼女もキアラのはとこにあたる――が、フィーニ公爵家に嫁いだ。そうして生まれたのが、公爵令息であるイザイアだ。つまりこのイザイアという令息も、キアラにとっては遠い縁者ということになる。
「このイザイア・フィーニという男が、継承順位一位に跳ね上がった。……だが、問題がある。イザイアは、まだ十七歳だ」
「……まだ、即位できない?」
キアラの問いに、男はうなずく。
「フィオレンティア王国では、よほどのことがない限り即位できるのは十八歳からとされている。イザイアが十八歳になるまであと半年程度でもあるので、『よほどのことがない』のであれば無理を押してでも即位できなくない。……あんたがいなければ」
「……」
「あんたは、『隠れた王位継承権一位保持者』だ」
ひう、と男が開けたままの窓から、冷たい夜風が吹き込んでくる。
……かつて、母は言っていた。
『私たちの体には、フィオレンティア王家の血が流れている。でも、大丈夫。私たちは、私たちの願うように生きていけるのよ』と。
「……私は、継承権を持っていないわ」
「だから、『隠れた』保持者なんだ。あんた自身に継承権はなくとも、その体には王家の血が流れている。そして、あんたは女だ。……あんたがどの男の子を産むかで、継承順位はまた変動しかねない」
――金の卵を産む鶏、というたとえ話がある。
キアラ自身は平凡な鶏でも、彼女が産むのは金の卵。その卵を手にする者――もしくはキアラに金の卵を産ませた者が、王位に近づける。
「……あり得ないわ。第一、あと半年でイザイア様が即位される。いくらなんでも半年の間で私が子どもを産むことはできないわ」
「できなくても、あんたの存在を手中に収めるだけで話が変わる。あんたが金の卵を産む可能性があると分かるだけでも、世間は震撼する」
「……」
キアラは、うつむいた。
母は、自分の願うように生きていけると言っていた。実際母は、体調不良の際に治療してくれた平民の父に恋をして、結婚して、キアラを産んだ。
金の卵とかそんなのを全く気にせずに幸せに生き――病になりつつもさして苦しむことなく、夫と手を取り合って逝くことができた。
それなのに。