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蜘蛛ヶ淵

作者: どくだみ

 丹沢は神奈川県の北西に位置する山塊であり、幾重にも重なる山々はその懐が深く、多くの生命を育んでいる。もともと丹沢の名の由来は「棚沢」が訛ったものと言われており、それは数多く存在する沢に「棚」、つまり滝が多かったことから名付けられたという説が有力視されている。今でも丹沢はトレッキングや沢登りのメッカとして熱い視線を浴びているのだ。

 そんな丹沢の沢も、今は土砂が堆積し昔の面影は残っていない。それは度重なる豪雨で土砂が堆積したことにより、砂防ダムが完成し、風情をなくしてしまっているからに他ならない。かつて、自然のままの生命の営みが培われていた頃の丹沢は、そこに見ることはできないのだ。

 それでも丹沢は深い神秘を抱えている。そんな話についてここでちょっと触れてみよう。


 美由紀はあてもなく徘徊していた。今、自分がどこにいるのかさえもわからない。見えるのは轟々と音を立てる沢の水と、上を見上げれば木々の葉の隙間から漏れる陽の光だ。もう、どのくらい歩いただろう。ふと、美由紀は歩みを止めた。大木の洞に腰掛け、虚ろな瞳を宙に泳がせる。晴れ渡った青空が恨めしかった。

 美由紀のリュックサックに食料は入っていない。その必要がないのだ。何故なら美由紀は自殺するつもりで、この丹沢の山中まで来たのだから。

 美由紀の顔は汗で化粧が落ちかけていた。それでもその顔は十分に美しい。美由紀は深く目を閉じた。轟々と流れる沢の音が頭の中に響き渡る。

「美由紀はふしだらな女だ!」

 そんな声がどこからともなく聞こえたような気がして、美由紀は目を開き、周囲を見回した。だが、そこには誰もいない。

「はあーっ」

 美由紀は深いため息をつくと、そのまま動かなくなった。

 美由紀が自殺を決意したには、それ相応の理由がある。親のいない美由紀は施設で育ったのだが、施設を出てからというもの女が一人食べていくには厳しい環境だった。そこで美由紀は風俗の世界へ飛び込むことになる。そんな美由紀にも得意の客がつくようになり、結婚の話までいった。しかし、相手の男の両親は猛反対をした。

「風俗嬢のようなふしだらな女と一緒にさせられるか!」

 父親は激高し、美由紀にお茶を投げ付けたほどである。そればかりではない。母親は美由紀の周囲に「ふしだらな女」と言い触らして回ったようだった。美由紀は朝のゴミ出しの時でも白い目で見られ、いつしか回覧板は回ってこなくなった。玄関に生ゴミが捨てられていたこともある。

「もう、耐えられない」

 美由紀がそう思った時には、既に声が聞こえていた。「美由紀はふしだらな女だ!」というあの声が。その声に導かれるようにして、美由紀は丹沢の山中を目指した。秦野からヤビツ峠行きのバスに乗り、終点から歩く。そして、人気のない沢筋を遡り始めたのだ。この時の美由紀には、生きる希望などなかった。ただ、己の存在を消したいという欲求しかなかったのである。

 美由紀が腰を下ろしてどのくらいの時間が経っただろうか。しかし、時間の概念すら美由紀にはもはや存在していない。美由紀はこの沢の名前すら知らなかった。何せ登山や沢登りなど、まったく経験がない美由紀である。

 上流からそよ風が吹いていた。それが美由紀の項をくすぐる。木々のざわめきは、轟々と流れ落ちる沢の音にかき消された。美由紀の前には淵がある。深い緑色を湛えた淵だ。美由紀はその淵を羨ましそうに見つめた。その神秘的な緑色は生を肯定し、命を内包しながらも滔々と流れ、あらゆる魂を育んでいるように美由紀には思えたからである。死を決意した美由紀にとって、それは妬ましくもあり、直視するのに躊躇うべき光景でもあった。

 仕方なく、美由紀は目を閉じた。慣れない登山の疲れもあったのだろう、美由紀は微睡むようにして眠りに落ちていった。美由紀はこのまま目が覚めなくてもいいと思った。

 

 美由紀が微睡で、どのくらいの時が経っただろうか。美由紀は右足にむず痒さを覚えて目を覚ました。美由紀は右足を凝視する。すると、そこには半透明の糸のようなものが結わい付けられているではないか。

「何、これ?」

 美由紀がその糸に触れてみると、糸は非常に粘着質の強い素材でできており、弾力にも富んでいる。そう、それはまるで蜘蛛の糸のようだ。糸は水中へと一直線に伸びており、糸に絡み付く水滴が水玉となって、光を反射し、美しく幻想的な光景でさえあった。

 しかし、そんな得体の知れない糸が足に絡み付いているのは気持ち悪いものである。美由紀は糸を解こうと右足を引き寄せた。すると、糸は引っ張られて水滴が淵に飛んだ。

 風が止んだ。すると、にわかに水面がざわつき、淵の緑に黒い影が浮かんだ。流れを遮るように水面が盛り上がり、その影は姿を現す。

「あ、ああ……」

 美由紀は目の前で起こったことが信じられなかったが、信じるしかない。そして、固まったように動けなくなってしまった。淵から現れたのは身の丈、六尺はあろうかという大蜘蛛だ。

 大蜘蛛はコソコソと八本の脚を動かし、美由紀の前へとやってきた。その冷たそうな単眼はしっかりと美由紀を見据えていた。見え隠れする牙は獲物を切り裂くであろう。美由紀はただただ恐れ戦くばかりであった。よく見ると、美由紀の股下に染みができている。恐怖のあまり、失禁したのだ。もはや美由紀は声すら出なかった。

 大蜘蛛はしゃがみこむ美由紀を見下ろしていた。そののっぺりとした単眼は何を考えているかわからない。普通に考えるならば、目の前に餌があると思うだろう。だが、大蜘蛛は何やら考え込むかのように動かない。やがて大蜘蛛は口から糸を吐き出すと、前脚で美由紀を器用にグルグル巻にしてしまった。ここで美由紀の記憶は途絶える。


 美由紀は気が付いた時、周囲を岩に囲われた暗い空間にいた。どこからか陽の光が微かに差し込んでいるが、それがどこから来るのかはわからない。岩は湿っており、水が美由紀の足元まで来ていた。耳をすませば勢いよく落ちる滝のような音が聞こえた。どうやら洞の中のようだ。それも沢とつながっているらしい。

 突如として水面からあの大蜘蛛が顔を覗かせた。美由紀は思う。あれは夢ではなかったのだと。大蜘蛛の口には何かが光っている。大蜘蛛はそれを美由紀の足元へと放った。それは一匹の山女魚だった。

「こ、これを食べろと言うの?」

 大蜘蛛の頭が僅かに頷いたように見えた。恐る恐る美由紀が山女魚に手を伸ばした。別に山女魚を食べたかったわけではない。そうするより他に手段がなかったのだ。ここで大蜘蛛がへそを曲げ、牙を自分に向けられることの恐ろしさを想像するだけで美由紀は生きた心地がしなかった。山女魚はまだ生きており、美由紀の手の中を滑って水の中へと返っていった。それを逃すまいとして、大蜘蛛が俊敏に山女魚を咥える。そしてまた、山女魚を美由紀の前へと放ったのであった。

「あ、あんたは一体?」

 美由紀が恐怖に耐えながら呟いた。

「俺は見ての通り蜘蛛だよ。お前が俺の前から逃げないと誓うなら、食わずに生かしてやろう。だが、一度でも逃げようとしたら、この牙で肉を引き裂き、はらわたを食らってやるわ」

 大蜘蛛はドスの効いた声で美由紀にそう言った。なぜ大蜘蛛が人間の言葉を喋れるのかは知らない。ただ、大蜘蛛は確かにそう言ったのだ。

「私はどうせ死ぬ人間よ。食べるなら死体になってからにして」

 微かに漏れる陽の光に大蜘蛛の顔が浮かんでいた。その単眼に美由紀の顔が映っている。大蜘蛛は無表情に美由紀の言葉を聞いていた。

「そうか。女が一人、こんな山奥に来るとは不思議と思っていたが、死にたがり屋だったとはな」

「だから魚なんて要らないわ。どうせ死ぬんですもの。私が死んだら煮るなり焼くなり好きにして頂戴」

「くくく、生きたがり屋と死にたがり屋の組み合わせとは面白い」

 大蜘蛛が笑った。その表情からは笑いは読み取れないが、確かに大蜘蛛は笑っていた。

「俺はな、元は秦野の百姓だが、博打でイカサマをやった罰でこんな蜘蛛にされちまったのよ」

「どういうこと?」

「今では廃れちまったらしいが、毎年五月十五日に塔ノ岳の山頂で野天賭博が開かれていたのよ。俺はそこで毎年、イカサマをやっては儲けていた。だがある年、一人の行者が俺のイカサマを見破ってな。尊仏さんに願かけをして、俺を蜘蛛の姿に変えちまったってわけさ」

「尊仏さんって何なの?」

「塔ノ岳の山頂からちょいと下ったところにある岩よ。何でも仏さんの形をしているとかで、昔からみんな拝んでいやがった。丹沢はよ、昔は行者たちがウロウロしてやがったんだ」

「信じられないわ。そんな話」

「信じられねえも何もねえだろう。現に俺はこうして蜘蛛の姿になっているんだ。お陰で俺は畜生を襲って生きなきゃならねえ。そういう俺が畜生よ。それでも生きてえと思うんだから不思議よな」

 大蜘蛛は嘲るように笑った。それはどこか自嘲的であったが、決して悲観的ではなかった。どこか生きる強さを言葉の中に秘めていた。

「なるほど、生きたがり屋と死にたがり屋ね」

 納得したように美由紀が呟いた。美由紀にとって、大蜘蛛はまだ恐るべき存在ではあったが、その前身が人であることがわかり、少しは落ち着いたようだ。こうして見ると二人はまるで、美女と野獣ではないか。

「どうだ、お前さんの命を俺に預ける気はないか?」

 大蜘蛛が一歩、美由紀に近寄ってコソッと呟いた。

「預ける?」

「そうとも、俺も餌の確保には困っているんだ。意味がわかるか?」

 大蜘蛛は更に顔を近づける。生臭い息が美由紀に吐き掛けられた。だが、美由紀はなぜかそれにゾクゾクするものを感じた。体の中を血液が巡る。先程まで、血液という血液が活動を停止していたかのようであったのに、今は活き活きとしているではないか。

「それって、人をおびき寄せろということでしょ?」

「さすがは俺が見込んだ女だけのことはある」

「私も人には恨みがあるのよ」

 美由紀の目は妖しく燃えていた。その妖しいまでの眼力は大蜘蛛を信用させるに十分であったし、忌ま忌ましいまでの記憶をすべて憎悪にして映しているかのようだ。美由紀の活動は今、負のベクトルから正のそれへと転換されようとしていた。


 その日、高杉道元の一行はテレビ取材のため、丹沢を訪れていた。高杉道元は今をときめく霊能力者であり、長念寺の住職である。だが、その霊能力は疑わしいとの声もあり、やたらマスコミと迎合する姿に違和感を覚える者も少なくなかったのである。

「先生、この辺りで妖怪が出るとのもっぱらの噂ですが」

「妖怪だろうが、悪霊だろうが儂の手にかかれば一捻りじゃ。がははは」

 道元の高笑いが谷間に響いた。どうやら、妖怪の噂を聞き付けての取材らしい。スタッフは重い機材を抱えながらも、けなげにも山道を歩いていた。一方、道元はナップザック一つと身軽だ。

「それより、今日の撮影を終えたら一杯やろう。そのくらい局から予算は出るじゃろう。儂は魚より肉の方が好きなんじゃ」

 道元は何とも生臭坊主ではないか。よく見れば道元の額は脂が浮いたようにてかっており、顔の血色も良い。普段より飽食しているのであろう、腹はでっぷりと肥えている。

 取材陣一行はサーサーとそよぐ沢の音を聞き付けた。それは大分前から聞こえていたのだが、音が近くなったような気がしたのだ。

「おお、喉が乾いたな。丹沢の水は美味いと聞く。沢へ下ろう」

 道元はまるでハイキング気取りである。

「あの、沢に降りるならこちらです」

 後ろの茂みから突如として女が現れた。美由紀である。

「おお、こんなところで女性が一人、何をしているんだね?」

 美由紀のことを不審に思うのも無理はなかろう。スタッフの一人が美由紀に問いただすように尋ねた。

「ちょっと、野宿しながら野生動物の観察をしていますの。ところでそちらは道元先生じゃございません?」

「おお、儂はいかにも道元じゃが」

 道元は美由紀の身体をなめ回すように眺めた。

「道元先生のような高名な方をご案内できるなんて光栄ですわ」

「儂もあんたのような美人に案内してもらって嬉しいわい」

 道元の口元が緩んだ。その瞳は極めて厭らしい。道元も聖職者であるならば気付かねばならなかった。美由紀の妖しい瞳の裏側にある企みを。だが、道元は率先して美由紀の後を追ったのである。仕方なくスタッフたちも後に続くことになる。

 確かに美由紀はこの辺りの地形を熟知していた。普通、山道から沢に下るのは危険とされている。それは沢筋が切り立った崖になっている場合も多く、遭難例が数多く報告されているからに他ならない。しかし、美由紀は安全な獣道を通り、沢まで取材陣を導いたのである。

「それにしても美味い水だなあ」

 スタッフたちも沢の水に舌鼓を打っている。

「ところであんたは野生動物の観察をしていると言っておったが、この近くにキャンプでもしているのか?」

 道元が興味深そうに美由紀に尋ねた。

「ええ、この上流の淵のほとりでテントを張っていますの。よかったらご案内いたしますわ」

「そうか。では、ちょっくら覗かせてもらおうかの。ああ、みんなはここで待っていてよい。すぐに戻るから」

 美由紀は道元を先導するように歩き始めた。スタッフたちはみんな呆けている。道元は決して小柄な男ではなかったが、遠ざかる彼の背中は、どこか卑屈で小さかった。そして、妖しく笑う美由紀の口元に気付く者は誰ひとりとしていない。

 木漏れ日が爽やかだった。こんな陽気に妖怪などないものである。そんなことを思いながら道元は歩みを進めた。その視線は美由紀の尻を追っている。美由紀の形の良い尻は左右に揺れながら、道元を誘うように沢を遡っていく。

「どこまで行くのだね?」

 十分は歩いただろうか。いささか不安げな顔をした道元が美由紀に尋ねた。

「水が勢いよく落ちる音が聞こえますでしょ。そこの淵にテントを張っていますの」

 聞けばドウドウと水の流れる音が聞こえる。その淵は間近にあるようだ。道元の顔が緩んだ。

「ところであんた、この辺りに妖怪が出るという噂は知らんかね?」

「妖怪ですか?」

「さよう」

 美由紀が木の枝を払った。それが跳ね返り、道元の顔に当たる。

「あ痛っ!」

「ごめんなさい。妖怪や死霊なんて怖くないわ。生きている人間の方がよっぽど怖いわ」

 美由紀が振り返り意味深に笑う。その顔を道元は呆気に取られたように見つめていた。

「何とも豪気な娘さんじゃ。しかし、それもまた一つの真理かな」

 既に淵は目の前に迫っていた。そう、あの大蜘蛛が棲む淵である。しかし、美由紀の言うテントなどどこにもない。

「テントなど、どこにもないではないか」

 道元が呆けた顔で周囲を見回すと、その肩に美由紀の腕が巻き付いてきた。

「テントなどなくても、お楽しみはできるでしょう?」

「お、おお、そうであったな」

 道元はにんまりと笑い、衣服の上から美由紀の乳房を鷲掴みにした。「あっ」という吐息が美由紀から漏れる。それに気を良くした道元は美由紀の衣服を脱がそうとかかるのだった。

 美由紀は横たわり、道元のなすがままにされている。無骨な指が胸元に伸びた。しかし、道元は気付かない。その背後に忍び寄る大きな黒い影に。

 道元は足にむず痒さを覚えたが、虫か何かの悪戯だと思い気にも留めなかった。だが次の瞬間、彼の身体は大きく跳躍した。勢いよく蜘蛛の糸が道元の身体を巻き付け、宙に浮いたのだ。そして、次には落下する。

「ぎゃーっ!」

 道元の悲鳴が沢筋に響き渡った。それは轟々と流れ落ちる沢の水にかき消されることなく響き渡った。

「あ、ひ、妖怪」

 大蜘蛛を見た道元は糸で身体を巻かれたまま、動けずに呻いた。大蜘蛛は牙を光らせ、にじり寄ってくるではないか。

「儂を殺せば罰が当たるぞ!」

 道元が虚勢を張り、わめき立てる。額からは滝のように脂汗が流れ出していた。

「この坊主はよく肥えている。美味そうなのを連れてきたな」

「私たちが生きるためには仕方がないのよ」

 美由紀の目は妖しいエロスを湛える瞳から、いつしか鬼気迫る鬼女のような瞳に変わっていた。その瞳を道元へと向ける。

 生臭と言えども道元は僧侶である。自分のためか、大蜘蛛のためかはわからないが経を読み始めた。するとどうであろう。蜘蛛の糸が解けるではないか。

「おおっ!」

 道元の顔がほころんだ。しかし、背後に美由紀が忍び寄っていることに気付かない。美由紀は大きな石を持ち上げ、それを道元の頭へと落とした。

「うぎゃーっ!」

 道元の絶叫がこだました。だが、まだ死んではいない。意識もあるようで、半身を起こして立ち上がろうとしている。

「お、おのれ妖怪めら」

 道元の口からまた経が唱えられた。今度は大蜘蛛が苦しそうに身悶えた。

「あ、あんた、しっかり!」

 美由紀が大蜘蛛に駆け寄った。

「おのれ生臭坊主め!」

 激怒した美由紀が道元に詰め寄り、その首を絞めようとする。だが、道元も必死に抵抗し、女の細腕をかわす。美由紀の力は凄まじいものであった。道元とて非力ではない。それでも腕をようやく首から離すだけで精一杯だったのである。

「あんたのようなインチキ坊主は、この人の餌で十分だよ」

「くっ、この鬼女め。妖怪変化が!」

「生憎、私は妖怪じゃない人間だよ。さっき言ったじゃないか。妖怪より生きた人間の方が怖いって」

「人間ならやめるんだ」

「あの人にひもじい思いをさせるわけにはいかないんだよ!」

 美由紀の腕に一層の力が入った。もうすぐで手は再び道元の喉を捉えるであろう。

「儂の経で……」

「ふん、生臭坊主の経が何の役に立つというのさ。高級外車を乗り回し、インチキ番組に出て荒稼ぎをする生臭坊主の経が!」

 あわや美由紀の手が道元の喉を掴みそうになった時、道元の口から再び経が漏れた。すると大蜘蛛は身悶え、七転八倒しだすではないか。

「くそっ、やめないか!」

 美由紀は大蜘蛛に寄り添うよりも、道元の首を絞めることに意識を注ぐ。もはや道元を大蜘蛛の餌にすることなどどうでもよかった。美由紀には大蜘蛛を助けたいという考えしか頭に浮かばなかったのだ。美由紀と大蜘蛛はそれなりの関係であった。しかし、道元は読経を止めない。

 もう少しで美由紀の掌が道元の喉元を掴むところだった。

「見られよ!」

 道元が勝ち誇ったような顔をして叫んだ。咄嗟に美由紀が振り向く。そこには大蜘蛛が八本の足を縮めて倒れていた。

「あ、あんたー!」

 美由紀は大蜘蛛に駆け寄った。そして、愛しそうにその身体を撫でると、大粒の涙を流す。谷間に美由紀の嗚咽が響き渡った。

「どうじゃ。霊能力者をナメるからこういう目に遭うんじゃ。妖怪は退治してやったわ。これで儂にまた箔が付くというもんじゃ」

 美由紀が道元をキッと睨んだ。その頬からは涙の帯が大蜘蛛の上へと滴り落ちている。まるで、美由紀の身体の中の水分が全部抜けてしまうのではないかと思うくらいに。

 その時、大蜘蛛の脚がピクリと動いた。大蜘蛛の身体からシューシューと湯気が上がる。

「あんた!」

 湯気は周囲を包み込み、道元の姿も見えなくなった。

 湯気の霧が晴れたのは、上流から爽やかな風が吹いてからのことである。その風は湯気を徐々に吹き飛ばしていった。すると、大蜘蛛のいたところに一人の青年が倒れているではないか。青年の背中には千切れた呪符が貼られており、「尊仏天誅」と書かれていた。

「う、うーむ」

 青年が身を起こした。

「あんた、あの蜘蛛かい?」

「ああ、そうだ。秦野の清吉って名前だ。美由紀、済まなかったな」

「よかったね、人間の姿に戻れたんだね」

「美由紀の涙のお陰だよ」

 美由紀が清吉の肩を抱き、その身体を起こす。道元は狐につままれたような顔をしている。

「これは何と奇っ怪な。しかし、お前らが人であるなら、犯罪者じゃ。下にいるスタッフたちに知らせねば。妖怪退治番組が犯罪捜査番組になってしまったがの」

 道元が下衆な笑いを浮かべた。

「そうはさせない!」

 川下の行く手を清吉と美由紀が遮った。

「俺たちの秘密を知ったからには生きて帰れると思うな!」

 清吉は着物の懐から刃を取り出した。おそらく大蜘蛛になる前に持っていたものであろう。

「美由紀は命懸けで俺を守ってくれた。今度は俺が命懸けで美由紀と俺の幸せを守る!」

「うわっ、ああっ、ひいっ」

 道元が素っ頓狂な声を上げてよろけた。

「助けてくれぇ!」

 道元はへっぴり腰のまま、川上へと向かって走り始めた。その後を清吉と美由紀が追う。


 道元は道なき道を走った。普段、飽食で肥えた身体が重かった。それでも必死に稜線までたどり着くと、今度は転がり落ちるように谷間へと向かう。

 清吉と美由紀の追跡は執拗だった。二人ならば道元に追いつき、その息の根を止めることくらい容易なことだっただろう。だが、あえてそうしなかったのは、それなりに思惑があったのだろう。清吉と美由紀は一定の距離を置いて、道元を追い続けた。

「はぁはぁ、ひぃひぃ……」

 清吉と美由紀は巧みに道元を林道とは逆の方向へと追い込んでいく。

 いくほどの尾根を越えただろうか。道元はふと、空腹感に襲われた。それも身体が動けなくなる程の空腹感だ。道元は背負ったナップザックをから握り飯を掴むと、逃げながら食い散らかした。

「おかしい。いくら食っても腹が膨れない」

 気が付けば道元は握り飯を五つも平らげていた。

「あの生臭坊主、私たちに追われてよく握り飯など食べられるわね」

 道元の様を見た美由紀が呆れたように言った。

「くくく、違うよ。ここはそういう場所なのさ」

 清吉が笑う。道元は走ろうとするが、力が出ないのかその場にへたり込んでしまった。

「ああ、腹が減る……!」

 道元はナップザックを逆さまにし、中の物をすべて出した。中から出てきたのは、札束の入った財布や豪勢な弁当だ。道元は弁当を開けると、手掴みでその中身を食い出した。その様はまことに卑しいもので、とても聖職者とは思えなかった。骨の付いた肉に食らいつき、齧り取る。そして、咀嚼し嚥下する。その口元が脂で汚れる。

「どういうこと?」

「このヤビツ峠の辺りはな、その昔は合戦場で、平家の亡霊が彷徨っているのさ。奴らは腹を空かしている。その亡霊に取り憑かれた者は腹が減り、動けなくなるというわけさ。食い物を半分後ろに投げてやりゃ、助かるんだがね。あいつは意地汚い。まあ、生臭坊主だってことがこれでわかったじゃないか」

 清吉が皮肉っぽく笑った。

「何で私たちには取り憑かないの?」

 美由紀が不思議そうに尋ねた。

「俺たちは一度、死んだようなものだ。そんな奴らにゃ、亡者は目もくれないもんさね」

 道元は必死で肉に食いついていた。死者の怨念に取り憑かれた僧侶は、既に人ではなかった。

「行こう。あんな奴は放っておいてもいい。殺す価値もない」

 美由紀が頷く。清吉は歩きだした。その後に美由紀が続く。

「山のあなたには、俺たちが暮らせる国があるはずだ。ひっそりと二人で暮らそう」

「ええ、どうせこの世に存在しない二人だものね」

 美由紀がにっこりと笑った。かつては自殺を考えた女とは思えない笑顔である。

「どこまでも一緒に行くわ」

 美由紀が清吉の腕に腕を絡めた。



(了)




 丹沢に伝わる伝承をベースに創作してみました。

 よろしくお願い致します。

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