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5,ちょっとしてほしいことがあるの

 黒江さんと出会った日の翌日、僕は淡々と授業を受けていた。

 いつも通りの平穏な一日。


 だけど帰りのホームルームが終わったと同時に、教室の後ろ側のドアが勢いよく開いた。

 クラス全員が振り向いてドアを見る。

 当然、僕も。


 そこには黒江さんが立っていた。

 左手をドアにそえたまま教室の中を見渡している。


 窓際の列の後ろから三番目の席に座っている僕と目が合う。

 にやっと黒江さんが笑った。


「ハロー、伊織ちゃん」


 クラス中の視線を集めていることを全く気にせず、黒江さんが僕の方へすたすた歩いてくる。


「さあ、行くわよ」


 僕の目の前に立って、黒江さんが言った。


「い、行くって?」


 戸惑いながら僕が言った。


「美術室。さ、早く早く」


 黒江さんに急かされて、僕は慌てて教科書をリュックに詰め込んで席を立った。

 黒江さんは僕の右腕をつかんで、待ちきれないという感じでぐいぐい引っ張っていく。


 ドアを出るまで、クラスメートの視線は僕と黒江さんにくぎ付けになっていた。

 僕は恥ずかしかったけど、黒江さんは気にならないみたいだ。


「スケブ、ある?」


 廊下を歩きながら黒江さんが聞いた。


「え?」


 僕が聞き返した。


「スケッチブック」


 黒江さんが言い直した。


「う、うん。持ってきたよ」


 美術室に行ったときに描くものがあった方がいいと思って、スケッチブックを持ってきていた。

 ……スケブって略すんだ。


「良かった」


 黒江さんが言った。


 美術室は僕の教室から中央廊下を通り抜けたところにあり、すぐに着く。

 黒江さんがドアを開けた。


 美術室の中には僕たちのほかに二人いた。


「こんにちは、黒江さん」

「ん」

「二人とも、早いわね」


 黒江さんが言った。


 一人は、美術の阿賀野圭あがのけい先生だった。

 二十代半ばの若い男の先生で、背は高いけどかなり細身だ。

 フレームなしの丸いレンズの眼鏡をかけていて、髪の長さは耳にかかるくらい。


 優しそうな顔立ちをしていて、実際とても優しい。

 授業で右も左も分からなかった僕を、親身になって助けてくれた。


 もう一人は女子生徒。

 つやのある黒髪のショートヘアで、フレームが太めの黒縁眼鏡をかけている。

 くせっ毛なのか、髪が少し外向きに跳ねていた。

 高くてスリムな鼻に、形のいい小さめの耳。

 しゅっと整った顔立ちだ。


 その子がいすに座って、膝の上にスケブを置いている。

 上履きのラインが僕たちと同じ赤色だから同級生だ。


 阿賀野先生は僕を見て少し驚いた後、微笑みながら言う。


「八代君、こんにちは」

「こ、こんにちは」


 僕は少し緊張しながら言った。


「二人はお友達だったんですか?」


 阿賀野先生が聞いた。


「ええ。昨日なったばかり」


 黒江さんが答えた。

 友達……いい響きだなあ……。


「圭ちゃん、今日はずっといれるの?」


 け、圭ちゃん? 

 先生をちゃん付け? 

 しかもため口?


「いいえ、職員会議があるので、少ししたら抜けないといけません」


 え、先生なにもつっこまないの?


「残念。みんなで伊織ちゃんを歓迎したかったのに」

「八代君は入部希望ですか?」


 阿賀野先生が弾む声で言った。


 まだ考え中なんだけど……。

 そのとき、僕より先に黒江さんが言った。


「ええ、もちろん」


 え、まだ僕決めてな――


「そうですか!」


 うわ、阿賀野先生うれしそう。


「良かった。仲間はいつでも歓迎しますよ、八代君」

「あ、ありがとうございます」


 い、言えない。この流れで、まだ決めてませんなんて。


「伊織ちゃんはセンスがある。昨日、絵を見せてもらったの」

「そんなことないよ!」


 黒江さんが褒めてくれたけど、僕はすぐに否定した。

 今まで誰にもそんなこと言われたことないし、恥ずかしかったから。


 でも、阿賀野先生は黒江さんの言葉にうなずいた。


「それは分かります」

「え?」


 僕は驚いた。


「美術の課題で、ランプの素描をしましたね? 

 それを見たときから、八代君が絵を描くことは気付いてました」


 阿賀野先生が言った。


「そうなんですか?」


 絵を見たら分かるなんて、さすが美術の先生だ。


「よければ、八代君の絵を見せてくれませんか?」

「は、はい」


 僕はスケブを出して、ちびの絵が描かれたページを阿賀野先生に見せた。


「……なるほど。とてもいい絵です」

「本当ですか?」

「もちろん。

 少ない線で猫の特徴をよくとらえてます。

 八代君がこの子のことを好きなのがよく分かる」


 まさか先生に褒められるとは思わなかったから、とても照れくさい。


「……」


 僕たちが話している間、眼鏡の女の子はなにも言わず、素早く手を動かしてスケブになにか描いていた。

 時々、僕たちのことをちらちら見ていた。


「えっと、黒江さん、あの子は?」

「私以外の唯一の美術部員。舞、こっち来て」


 黒江さんに呼ばれて、その子は手を止めてスケブを閉じ、歩いてきて僕の前に立った。


菰野舞こものまい


 その子が言った。


「えっと、八代伊織です」


 僕が言った。

 ……これだけじゃさすがに短すぎるよな。


「よ、よろしく」

「ん」

「……」

「……」


 か、会話が続かない。


「な、なにを描いてたの?」


 僕が聞くと、菰野さんはスケブを開いて見せてくれた。


「これ、僕?」


 驚く僕に、菰野さんがうなずいた。

 スケブには絵が二つ描かれていた。


 一つは、僕の似顔絵。

 阿賀野先生と話してるときの、緊張した様子の僕の顔だった。


 もう一つは、僕の全身図。

 黒江さんに腕を引かれて美術室に入ったときの僕だ。


「すごい……」


 僕はつぶやいた。

 僕がここに来てから、まだ五分もたってないのに。


「こんな短い時間にこんなうまいスケッチが描けるなんて」


 僕が言った。


「クロッキー」


 菰野さんが言った。


「スケッチじゃなくて、クロッキー」

「そうなの?」


 クロッキーって言葉、初めて知った。


「舞の絵、すごいでしょ」


 黒江さんが言った。


「舞はクロッキーなら同世代の誰よりも上手だと思う。

 私よりも上。

 だけど、ここではクロッキーばかり書くの。

 もっと色んな絵を描いてほしいんだけど……」

「私はこれが好き。もっと描きたい」


 菰野さんが言った。


「それはそれでいいんだけど」


 黒江さんが言った。


 菰野さんは元の場所に戻っていすに座り、またスケブに絵を描き始めた。

 時々僕の方を見るから、また僕の絵を描いてるのかな? 

 ……なんだか、恥ずかしい。


「すみませんが、会議の時間です。

 私はこれで」


 阿賀野先生が言った。


「うん。またね、圭ちゃん」


 黒江さんが言った。


「ん」


 菰野さんがお辞儀しながら短く言った。

 ん、というのが菰野さんのあいさつみたいだ。


「八代君、ゆっくりしていってください」


 阿賀野先生が僕に声をかけてくれた。


「あ、ありがとうございます」


 僕が答えた。


 阿賀野先生が美術室から出ていくと、黒江さんが言った。


「さて、私たちも準備しましょうか」

「準備ってなんの?」


 僕は聞いた。


「今日は子猫のスケッチをする予定だったの」


 黒江さんが言って、スクールバッグからスケブを出した。

 昨日見せてくれた子猫の絵のページを開いて、子猫の耳をとんとん、と指でつついた。

 子猫の顔が黒江さんの方を向いて、耳から浮き上がってくる。


 子猫の首が出たところで、黒江さんは右手で子猫の首をつかみ、子猫を引っ張り出した。

 子猫をかごの中から拾い上げるみたいに。


 え、菰野さんがいるのに絵を出していいの?

 僕は驚いて菰野さんを見た。

 でも菰野さんは表情一つ変えない。


「今日はその子?」


 菰野さんが聞いた。


「ええ。今日の活動はこの子のスケッチ」


 黒江さんが言った。


「え~と、黒江さん?」


 恐る恐る僕が聞いた。


「なに?」

「菰野さんは黒江さんが絵を出せること知ってるの?」

「あ、言ってなかった? 舞は知ってるし、圭ちゃんも知ってるわ」

「あ、そうなんだ……」


 僕は少し気が抜けた。

 この学校では僕しか知らないのかと思っていたから。


「それはそれとして、伊織ちゃんにちょっとしてほしいことがあるの」

「なに?」

「この子、すごくやんちゃなの。

 手を離すとすぐそこらじゅうを駆け回るから、スケッチの間、伊織ちゃんがその子をあやしてくれない?」


 黒江さんが子猫を抱きながら言った。

 茶色の子猫で、黒江さんの腕の中であくびしていた。


 か、かわいい。


「それなら喜んでやるよ」


 僕は引き受けた。

 猫の相手をするのにはけっこう自信があるし、この子をあやすのなら頼まれなくてもしたい。


「せっかくだから、伊織ちゃんもスケッチしていい? 

 子猫をなでる男の子。

 それを今回のモチーフにしようと思うの」

「いいよ。

 この子、名前は?」

「まだ決めてないわ」

「じゃ、僕が決めていい?」

「ええ」


 なにがいいかな……この子にぴったりの名前。

 色が茶色だから、茶々? 

 うーん、悪くないけど……あ、この子足先だけ白い。

 じゃあ、


「くつした。

 この子は、くつしただ」


 僕が言った。


「くつした?」


 黒江さんが聞き返した。


「うん。この子、足先だけ白いでしょ? 

 白い靴下を履いてるみたいだから、くつした」


 僕はくつしたを黒江さんの腕から持ち上げて、抱きかかえる。

 よしよし、くつしたー、かわいいねー。







「じゃあ舞、私たちも準備しようか」

「……悪巧み」

「え?」

「黒江のその顔は、なにか悪巧みを考えてるときの顔」

「心外ね。悪いことなんて考えてないわ」

「でも何か企んでる。違う?」

「まあ、ね。ちょっと色々計画してる」

「これもその一部?」

「ええ。やっぱり分かった?」

「うん。いきなりモデルをやれって言われて引き受ける人はいない。

 子猫は八代君の気をそらすおとり。今回のメインは八代君」

「その通り」

「次からは普通にモデルを頼む。

 今回引き受けたから、多分抵抗なく引き受けてくれる」

「……じゃあ、その次は?」

「そこまでは分からない。ただ」

「なに?」

「私は協力する」

「そう言うと思ってた」

「八代君はモデルとして極上。

 彼レベルの人はめったにいない」

「同感ね。

 でも、もう一つ計画してることがあるの」

「?」

「多分舞も気に入ると思う。

 しかも、その計画には舞の協力が不可欠だし」

「……やっぱり、悪巧み」

「かもね」







 僕はいすに座ってくつしたを膝の上に置く。


 まずあごの下をなでる。

 くつしたが気持ちよさそうにゴロゴロとのどを鳴らす。

 かわいいなあ。


 僕は指先に神経を集中して、くつしたが気持ち良くなる場所を探す。

 あごの下から耳の後ろへとなでていく。

 左耳の裏の付け根をなでると、のどを鳴らす音を大きくして耳を僕の指に押し付ける。

 ここかーここがいいのかー。


 そんな風にあやしていると、時間があっという間に過ぎていった。

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