表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/34

2,出会い

 美術室の後ろ側のドアが開けっ放しになっていた。

 そこから子パンダは美術室に入ったんだろう。


 僕はドアの陰から中の様子をうかがった。


 美術室の前半分には机といすが並んでいて、後ろ半分は空いたスペースになっていた。

 そのスペースの真ん中で、女の子が一人、いすに座っている。


 僕からは後ろ姿しか見えなかったけど、上履きは見えた。

 この学校では上履きのラインが学年によって違う。

 この子の色は僕と同じ赤色だから、同級生だ。


 女の子の栗色の髪には軽くウェーブがかかっていて、背中の真ん中までかかるくらい長い。

 木製のスタンドにスケッチブックを立てかけて、なにか絵を描いているみたいだった。

 絵に集中しているのか、僕には気づいていない。


 絵を描く邪魔はしたくないな。

 僕はそう思って、音をたてないように気を付けながら美術室全体を見渡した。


 子パンダはどこにもいない。

 けど、机の陰がよく見えなかった。

 もっとよく見ようと目を凝らしながら一歩足を踏み入れる。


 ……このとき、足元に注意すればよかった。

 床に鉛筆が一本落ちていて、僕のつま先が鉛筆に当たった。


 鉛筆が転がって、カラカラと乾いた音が鳴った。


 びく、と女の子がその音に反応した。

 こっちを振り向いて、僕と目が合う。


 前髪を横に真っすぐ切りそろえていて、目がぱっちりと大きい。

 鼻は整った形をしていて、唇は赤くてぷっくりしている。


 きれいな子だな、そう思った。


 その子は僕を見たとき、一瞬だけ目を大きく開いて驚いた。

 でもすぐに眉間にしわを寄せて不機嫌そうな顔になった。

 絵を描く邪魔をされたからかな。


「なに?」


 女の子が言った。

 明らかに警戒してる。


「えっと……」


 女の子に見つめられて、言葉に詰まってしまう。

 なにか言わなきゃと焦って、僕は思っていることをそのまま口にしてしまった。


「ここに子どものパンダが来たと思うんだけど、見なかった?」


 ……言い終わってから後悔した。

 これじゃ意味が分からない。

 初対面の女の子に子パンダはどこって聞くなんて、完全に頭がおかしい人の言動だ。


 女の子の眉間のしわがさらに深くなった。

 明らかに僕を怪しんでいる。

 まずい。


「い、いや、教室から出たときに子パンダがいて、逃げられて、追ったらここに入って、それで気になって……」


 まずいまずい。

 何のフォローにもなってない。

 むしろ逆効果だ。


 引きつっていた僕の顔がさらにこわばる。

 顔の皮をセロハンテープで止めているみたいだ。


 女の子は何も言わない。

 僕をじっと見つめている。


 僕も何も言わない。

 というか、もう口が動かない。


「見たわよ」


 突然女の子が言った。


「ていうか、いるわよ。ここに」


 僕は驚いた。


「え、どこ?」

「ここ」


 女の子はスケッチブックを手に取り、ページを開いたまま僕に差し出した。

 僕は戸惑いながら、それを受け取って絵を見た。


 鉛筆で描かれた子どものパンダの絵だった。

 地面におしりをついて座っている子パンダが右斜め前からの角度で描かれている。


 すぐに僕はこの絵に目を奪われた。

 素人の僕から見ても、とても精巧に描かれた絵だったから。


 触れたときの感触が伝わるような柔らかそうな毛並み。

 見つめられたら体から力が抜けてしまいそうなつぶらな瞳。

 丸みを帯びた、愛くるしいシルエット。


 誰もが見とれてしまうような、かわいい子パンダの絵だった。


 十数秒間、僕はその絵にじっと見つめた。

 そして、はっと我に返って女の子に聞く。


「で、でも、これは絵でしょ?」

「君が見たのはこの子よ」


 反論を許さないはっきりとした口調で、女の子が言った。


 僕はなんて言ったらいいか分からなかった。

 確かにこの絵は、今にも動き出しそうに見えるくらいリアルだ。


 でも僕が追ってきたのは本物の子パンダだ。

 実際に動き回っていた子パンダだ。


 そんな僕の戸惑いに気付いたのか、女の子が言った。


「さっき、この子がスケブから飛び出しちゃったの。

 私は出すつもりなかったんだけど、スキを突かれちゃった。

 でも君に見つかって、びっくりしたのね。すぐここに戻ってきたわ」


 ……さっきまで意味不明なことを言ってたのは僕のほうだった。

 今度は、この女の子が理解不能なことを言ってる。


「口で言うより、実際に見せたほうが早いわね」


 女の子は僕の手からスケッチブックを取って、紙芝居を見せるような形で子パンダの絵を僕に見せた。

 そして、子パンダの鼻先を右手の人差し指でトントン、と突ついた。


 すると子パンダが女の子のほうにくるりと顔を向けた。


「えっ!」


 僕は思わず声をあげてしまった。


 子パンダは体全体をこちらのほうに向け、両手を差し出した。

 すると、子パンダの指先がスケッチブックから浮き上がってきた。

 前足、頭、肩、胴体、後足と、ゆっくり紙から抜け出していく。


 な、なんだこれ? 

 まるで潜水艦が水中から少しずつ浮上してくるみたいだ。


 女の子は子パンダが落ちないように、右手で子パンダの首の後ろをつかんで支えている。


「……っと、ほら、よく見て」


 紙から完全に抜け出した子パンダを、女の子が僕の目の前に差し出した。

 正直、どこから見ても本物の子パンダにしか見えない。


「触っても大丈夫よ」


 そう言われて、僕は(かなりビビりながら)ゆっくり右手を子パンダの頭に近づけた。

 子パンダが鼻を僕の右手に向けて、くんくんとにおいをかぐ。


「か、かまないよね?」

「さあ?」

「さ、さあって……」

「変なことしなきゃ大丈夫」


 変なことって例えばどんなこと? 

 なでるのって変なことに入らない? 


 頭の中は少しパニックになってたけど、ゆっくり右手を近づけて、子パンダの頭の毛を指先で触る。

 子パンダが嫌がらないのを確認してから、手のひらを両耳の間に置いて、なでる。


 ふかふかだ。

 触っていて、とても気持ちいい。

 なんか、動物に触れているというより新品のぬいぐるみをなでているみた――


「ぬいぐるみみたいでしょ?」

「ふぇっ!?」


 びっくりした。

 心を読まれたのかと思った。


「多分、本物のパンダはこんなに柔らかい毛並みじゃないと思う。

 これは、私がイメージした触り心地なの。

 本当は本物のパンダのイメージを込めて描きたいんだけど、それは無理ね。

 本物をなでたことなんてないし。

 ……ちょっとこの子持ってみて?」


 そう言われて、僕は子パンダの脇に手を差し込んだ。

 女の子が手を放す。

 子パンダの体重が僕の両手にかかって……こない。


「えっ!?」

「軽いでしょ?」


 子パンダは嘘みたいに軽かった。

 非力な僕でも、楽に上げ下げできる。


「これも、私のイメージのせい。

 ぬいぐるみの重さをイメージして描いたから、こんなに軽くなったの」


 女の子は再び子パンダの首をつかんで持ち上げて、子パンダをスケッチブックに近づける。


 すると子パンダの指先が紙の中に入り込んでいく。

 そして紙から出たときと同じように、前足、頭、胴体、後足と順々に紙の中に入っていく。

 入り終わると、子パンダは元の絵のポーズに戻ってそのまま動かなくなった。


 実際に子パンダが出てくるのを目の当たりにした上に、実際になでたり持ったりしたせいで、僕の頭は完全に混乱してしまった。

 一体なにを言えばいいんだろう?


 女の子が子パンダの絵から僕へと顔を向けた。


「どう、分かった?」


 なに一つ分からない。

 だから僕は正直に言った。


「……なにがなんだか全然分からない」

「まあ、そうよね。頭で理解するようなことじゃないし」


 女の子はスケッチブックを閉じた。


「人に知られると面倒だから、このことは他人には秘密にしてた。

 人にはめったに見せないんだけど……」

「僕が見ちゃったと」

「ええ」

「……で、僕、どうなるの?」

「え?」

「秘密を知っちゃったけど」

「なにもしないわ。

 君に知られるだけなら特に困ることないし。

 でもこれを言いふらしたら、君ののど元にドーベルマンをかみつかせるから」


 びくっと僕の体が縮こまる。

 この子なら凶暴なドーベルマンも難なく描ける。


 おびえる僕を見て、女の子が笑った。

 は、恥ずかしい。

 怖がったのをごまかすために、僕は言う。


「だ、誰にも言わないよ」

「そう? 本当に?」

「うん」

「まあ、多分人に言っても信じてもらえないわ」


 確かに。

 最悪、大きな病院に連れてかれるかも。


 じぃっと女の子が僕を見つめる。


「な、なに?」


 戸惑いながら僕が言った。


「同い年、よね?」


 女の子が聞いた。


「う、うん」

「君みたいなきれいな子が同級生にいるなんて知らなかった」

「別にきれいじゃないけど……でも僕を知らないのは無理ないよ。

 一年生のころ、僕ほとんど学校に来れなかったから」

「そうなの?」

「うん。入院してたんだ」

「え、一年間?」

「うん。正確には十一か月だけど」

「……病気?」

「元々、体が弱いんだ。

 去年の三月に突然気を失って倒れて、病院で検査したら色々問題が見つかって。

 結局一年間学校に来れなかった」

「今はどうなの?」

「もう大丈夫。

 念のため月に一度病院に行って検査するけど、どこも悪くないよ」

「そう……良かった」

「体のことは気にしないで。

 今はごく普通の生活を送ってるから」


 僕は笑顔を見せた。体のことで変に気を使われたくなかった。


「あの、もし良かったら君の絵をもっと見せてくれない?」


 僕は話題をかえた。

 体のことをこれ以上話したくないし、この子の絵をもっと見てみたかったから。


「いいけど、スケッチばかりよ?」

「見てみたい」


 女の子がスケッチブックを僕に差し出した。

 僕はそれを受け取ってページをめくる。


 花瓶に差された二本のチューリップ。


 目の前に広がる田んぼと、その奥に横たわる山並み。


 テーブルの上に置かれた、バナナとリンゴと懐中時計。


 お座りしながら右前足で目の上をかく、茶色の子猫。


 鉛筆だけじゃなく、色鉛筆で描かれた絵もあった。

 どれも実物を見ているような立体感がある。

 それくらい細かく細かく描きこまれていた。


「すごい……」


 ため息交じりに、僕はつぶやいた。


「大したことないわ」


 女の子が言った。


「息抜きに書いたものばかりだから」

「い、息抜きで描いたの?!」


 信じられない。

 息抜きでどうしてこんなに正確で緻密な描写ができるんだろう。


「いいなあ」


 思わず僕はつぶやいた。


「え?」


 女の子が聞き返した。


「僕もこういうきれいな絵が描きたいよ」

「君も絵を描くの?」

「うん。絵を描くの、結構好きなんだ。

 ほら、入院してるときってできることが限られてるから、よく絵を描いたんだ」

「うまく描こうなんて思わなくていい。

 好きなものを好きなように描けばいいんだから」

「そうかもしれないけど……」


 それでも、こんなに絵がうまければもっと絵を描くのが楽しくなるのにな、と僕は思わずにはいられない。


「見せてよ」

「え?」

「君の絵、見せて。今ある?」

「う、うん。あるけど……」


 今日は美術の授業があったから、リュックの中にスケッチブックが入ってる。

 空いた時間、一番最後のページに近所の野良猫の絵を描いた。


 僕はその子をちびと呼んでる。

 アジの干物を食べるときのしぐさがかわいくて、その様子を思い出しながら絵を描いた。


 でも、この子の絵に比べたら、僕の絵は文字通り落書きだ。

 新聞の四コマ漫画みたいな簡単な絵を描いてるだけだから。


「僕の絵、ひどいよ?」

「いいから」


 ご、強引な子だな。

 僕はリュックからスケッチブックを取り出して、猫の絵のページを開いて女の子に渡した。


「……」


 女の子は絵を見たままなにも言わない。

 段々僕は心配になってきた。


「……や、やっぱり下手でしょ?」


 なんて言われるか不安だった。見せないほうが良かったかな。


 だけど女の子はあっさりと言った。


「なんだ、君うまいじゃない。かわいい猫ね」

「本当?」

「ええ。よく描けてると思う」

「なんか、すっごいうれしい……」


 こんなに絵がうまい人に褒めてもらえるなんて。


「大げさ」

「ううん、そんなことないよ」

「この猫、モデルがいるの?」


 女の子が聞いた。


「うん。近所に住んでる野良猫で、僕はちびって呼んでる」

「かわいい子ね」

「そうなんだ。

 実物はもっとかわいいんだよ。

 人懐っこくて」

「そう」

「アジの干物が大好きで、あげると夢中で食べるんだけど、その食べ方がかわいくて」


 僕はちびのかわいさを語った。

 ちびとの出会いや、初めて餌をやったときのことも。


 女の子は時々相づちを打ちながら、静かに僕の話を聞いてくれた。

 アキ以外で、同い年の子とこんなに長く話したのは初めてだ。


「ちびがお昼寝してたから、スマホで写真撮ろうとしたんだ。

 けど、スマホを構えた瞬間にちびが起きて逃げちゃった」


 僕が言うと、女の子は笑った。


「猫の写真を撮ろうとしても、次の瞬間にいなくなっちゃうのよね」

「そうそう!」


 僕たちは笑った。


「君、名前なんていうの?」


 女の子が聞いた。


八代伊織やちよいおり

「私、飽海黒江あくみくろえ

「飽海さん、クラスは?」

「A組。あと、私のことは名字で呼ばないで。黒江でいいから」

「分かった、黒江さん」


 今日会ったばかりの女の子を、さすがに呼び捨てにはできなかった。


「伊織ちゃんは? 

 クラスどこ?」

「C組だよ」


 このときの僕は同級生の子とおしゃべりできるのがうれしくて、ちゃん付けされてもなにも気にしなかった。

 ……後から同い年の女の子にちゃん付けされるのって男としてどうなのかと思ったけど、そのときにはもう遅かった。


「なにか部活入ってる?」


 黒江さんが聞いた。


「ううん、なにも」

「じゃあ、美術部に入らない?」

「えっ?」


 突然の提案に、僕は驚いた。


「絵が好きなんでしょう? なら、なんの問題もないわ。どう?」

「う、うーん」


 確かに絵は好きだけど、あくまで入院してたときの暇つぶしだったし、美術部に入るなんて考えたこともなかった。

 断る理由は、特にないけど……


「返事は今じゃなくてもいいから」


 困った様子の僕を見て、黒江さんが言った。


「ただ、放課後時間ある?」

「う、うん」


 有り余るくらいに。


「じゃあ明日、また美術室に来ない?」

「え、いいの?」

「もちろん」


 すぐに僕はうなずいた。

 黒江さんの絵をもっと見たかったから。


「じゃあ、お邪魔する」

「良かった」


 黒江さんがにこっと笑った。

 僕はドキッとしてしまう。

 やっぱりこの子きれいだな、そう思った。

 ……このときはまだ。


 部活動終了時間を知らせるチャイムが鳴った。


「時間みたいね」


 黒江さんがスケッチブックをスクールバッグにしまい、スケッチブックを置いていたスタンド(イーゼルっていうの、と黒江さんが教えてくれた)を片付けた。


「私、この後職員室に行かなきゃいけないの。

 時間がかかる用事だから、先に帰ってて」

「わかった」


 僕は自分のスケッチブックをしまい、リュックを背負った。


「じゃ、伊織ちゃん。また明日ね」


 黒江さんが言った。


「うん、またね」


 僕は言った。


 黒江さんは微笑んで、美術室から出て行った。

 黒江さんがいなくなると、美術室はしんと静かになった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ