1,子パンダを追う
高岡中央高校は、東京都郊外にある私立校だ。
生徒のほとんどが大学に進学する進学校で、男女共学。
一学年は二百人程度で、二年生から文系・理系でクラスが分かれる。
部活動は剣道とハンドボールが男女ともに強豪で、インターハイ常連。
だけどほかは運動部・文化部ともに平均的。
駅から近い場所にあり、生徒の大半は電車通学。
残りは歩きか自転車で通学していて、僕は家が近いから徒歩通学だ。
僕のクラスは二―Cで、文系。
登校初日、クラスには知り合いが誰もいなかった。
だけど周りの人たちはすぐにグループを作って、楽しそうにおしゃべりしていた。
ここで「いーれて」と積極的にコミュニケーションをとれれば良かったのかもしれない。
だけど、引っ込み思案な性格が災いして、僕はじっと机に座っていることしかできなかった。
一週間もたつと、僕が一人でぽつんと座っていることがこのクラスの普通の光景として認識されるようになり、僕は休み時間にはいつも席に座って文庫本を読むようになった。
このままではいけない、なにか役職にでもつけば知り合いが増えるかも、と思って環境美化委員に立候補した。
だけど、日常活動は花瓶の水の交換と月に一度の定期委員会くらいで、話し相手ができるような機会はなかった。
ただ、今日は違った。
放課後に生徒総会のための書類作りをしなきゃいけないから、少しはもう一人の美化委員の子と話せるかと期待してた。
だけど、その子が申し訳なさそうな顔をして言った。
「ごめん。
先輩たちから部活を優先しろって言われてるんだ。
任せていい?」
……先輩にそう言われたらしょうがない。
大丈夫だよ、一人で作れるから、と僕は言った。
ありがとう、と言ってその子は教室からささっと出て行った。
「……はぁ」
ため息が出た。
でも、落ち込んでてもしょうがない。
気を取り直して書類作成に取り掛かった。
去年の書類が残ってて、それの日付や細部を訂正すれば終わるかなと思っていたんだけど、花瓶の花の経費報告書を作るのに時間がかかった。
全部終わった時には日が暮れかけていて、教室には誰もいなかった。
僕は書類とペンケースをしまってリュックを背負い、椅子から立ち上がった。
机の上の消しゴムかすを集めてごみ箱に捨てる。
そして教室のドアを開けて廊下に出たとき――
子どものパンダが廊下の床におしりをついて座っていた。
……いきなりパンダと言われても、唐突すぎて誰だって意味が分からないと思う。
実際に目にした僕だって意味が分からなかった。
子パンダの大きさは人間の赤ちゃんくらいで、僕に背中を向けて座っている。
後ろ姿しか見えないけど、とてもかわいらしい。
動いてなければぬいぐるみに見えると思う。
「……」
言葉が出ない。
口を半開きにしてぽかんと立ち尽くしてしまう。
子パンダはきょろきょろして周りを見ていた。
次の瞬間、後ろを向いて僕と目が合う。
子パンダがじっと僕を見つめる。
僕も見つめ返す。
「……」
う、動けない。
辺りを沈黙が包む。
数秒見つめあった後、子パンダは顔を前に向けて、僕から逃げるように駆け出した。
「ま、待って!」
僕は後を追う。
このとき僕は三つの間違いを犯した。
一つ目。
「待って」と声をかけたところで子パンダは待たない。
人の言葉が分かるわけないんだから。
二つ目。
僕が子パンダを追いかける理由がない。
そのまま放っておいても問題なかった。
三つ目。
これが最大の問題だった。
僕は足が遅いうえに体力がない。
体育の時間に持久走をすると、三十メートル走ると脇腹が痛み、五十メートルで動悸がして、百メートルで息が切れる。
子パンダは体が小さいけどすばしこかった。
多分、十秒以上走られたら完全に見失ってたと思う。
中央廊下の真ん中くらいで、すでに僕の呼吸は乱れていた。
でも幸か不幸か、パンダは中央廊下を走り抜けた後、階段の手前で右に曲がった。
その先は行き止まりになってるし、左手の美術室以外に入るところがない。
僕は曲がり角で止まって右側の廊下を見渡した。
子パンダはいない。なら、子パンダは美術室の中だ。
いったん深呼吸して乱れた呼吸を整える。
「ふぅー……」
僕は意を決して美術室へと足を進めた。