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救世手

作者: 名波咲耶

 人がほとんど現れない屋上は、一人になりたいときにはちょうど良かった。校舎は補強したとか何かで比較的新しい設備なのに屋上だけはなぜか古いままで、手すりなんかは今にも崩れそうな箇所もある。前は昼休みにここでサッカーに興じる男子生徒もいたらしいが、今はそんなことはとてもできない。

 周囲に誰も――何もいないことを確認し、膝の上に弁当を広げる。涼しい風が髪を撫でており、本来はその風を感じて、といった女子高生らしい昼休みになるのだろうが、とてもそんな余裕はなかった。

 もう、限界だった。俯いてご飯を口に運ぶ。いつもは教室で何人かの友人とお昼を囲むのだが、今日はもう一人になりたかった。恐怖で荒ぶる心を必死に押さえ込む。

 一心不乱に箸を運んでいたので、頭上に差した影に気がつかなかった。「小泉さん……?」と言う遠慮がちな声に顔を上げると、同じ制服を着た女子生徒が心配そうに覗きこんでいた。クラスの中でも特に誰と話しているというようなことはなく、いつも一人でいるような印象がある。私も声をかけられたのはこれが初めてだったと思う。

「……結城さん……?」

 結城さん――確か名前は玲奈さん――は「隣、いいかな?」と微笑んだ。「嫌だ」と断ることもできず、曖昧に許可を出すと、彼女は花が咲いたような顔でいそいそとお弁当を広げ始めた。そのまま食べ始めるのかと思ったら、彼女は箸を弁当箱の端に付けたまま、何かを考え込む表情を見せた。

「あの、どうしたの?」

 彼女はしばらくもごもごと口を動かしていたが、やがて意を決したように「あのねっ」とこちらを見た。

「勘違いだったら申し訳ないんだけど、小泉さん何かあった?」

「……そんなことないよ? 何で?」

「何かいつもと違う気がして」

 彼女ははにかんで言った。

「小泉さんっていつも笑顔で誰にでも優しいじゃない?」

「そうかな? 全然そんなことないんだけど」

「ううん。そんなことあるよ。私密かに憧れていたんだよね。クラスでは影が薄くて全然人と喋らない私だけど、いつかは小泉さんみたいになれたらいいなって」

「……そっか」

「……でもね、最近の小泉さんは何か小泉さんらしくない感じがして……。何か笑顔も無理してるのかなって思ったの。そしたら今日、お昼のときに思い詰めた顔で一人で教室出て行ったから」

 無理してる。その事実を外から突きつけられたことで思わず箸の動きが止まった。卵焼きが湿っぽい味になる。結城さんの優しい声がスッと耳に入ってくる。

「何か、つらいことがあった?」

 私の中で何かがほぐれた。視界がじわっと滲み、気がついたときには涙が止まらなかった。卵焼きを苦労して飲み込むながら乱暴に手で頬の筋を拭う。

「我慢しなくていいよ。誰にも言わないから」

 その言葉に喉から細い嗚咽が漏れた。今まで耐えて耐えて、自分の中に押し込んでいたものが一気に溢れ出てくるようだった。

 私の嗚咽が収まるのを待って、結城さんは遠慮がちに「良かったら話聞くよ?」と声をかけた。少し躊躇い、「変な話だけど、信じる?」と訊くと、結城さんはもちろんと言うように頷いた。その優しい笑顔に「あのね……」と口を開く。今まで溜まっていたものを誰かに聞いてほしかった。


 *


 小さい頃から幽霊が見える体質だった。心霊スポットに限らず、あちこちにいる幽霊が見えるのだ。道端や横断歩道など、至るところにいる幽霊たちは自分たちの存在が見えていると分かると、一様にこちらに話しかけようとしてくる。生きている人間にはない薄さを持った彼らは私にとって恐怖でしかなかった。

 それでも最初は皆にも見えているものだと思っていて、世の中には不思議な人たちもいるものだと思っていた。しかし、一度道端に蹲っていた人を「お母さん、あの人具合悪そう……」と指差したとき、母が青ざめて私の指を押さえた。どうして母がそんなに怖い顔をしているのか訳が分からずにただ手を引かれるままに歩いた。

 家に帰ってから母は長いこと誰かと電話をしていた。少しヒステリックに相手を問い詰めていた母を不安げに見つめていたことを覚えている。母はその電話を切ったあと、動揺を抑えた顔で私が幽霊が見える体質であること、彼らの多くは体が透けて見えるので、それで普通の人間と区別することができること、決して彼らと話をしてはいけないことを真剣な表情で語った。実は母の昔の友だちに同じような人がいるらしく、その人から詳しく話を聞いたらしい。

「……良くないこと……って?」

「……死の世界に、引き込まれてしまう、って」

 泣き出してしまった私を母は「大丈夫。話さなければいいの。大丈夫」「大人になれば見えなくなることがほとんどだって」と抱きしめてくれたが、そう簡単に恐怖が消える訳ではなかった。昼は幽霊が近くにいないかビクビクしながら歩き、夜は怖い夢を見る毎日になった。

 大人になれば見えなくなるという言葉とは裏腹に、見える幽霊の数は年々増えていった。小学校高学年になる頃には、行くところどこにでも幽霊がいた。教室で友だちと話しているときにその子の背後にいるということも珍しくなくなり、恐怖で顔が固まる日々だった。そうなると皆、私を不審に思うようになり、「菜生ちゃんってちょっとおかしいよね」と影で言われるようになってしまった。友だちが離れていく事実も怖く、余計に泣く日々になった。母に相談しようかとも思ったが、そんなことも言うと心配しすぎる程心配するのは目に見えていたので、結局何も言わなかった。

 唯一話をすることができたのは、母方の祖母だった。私は典型的なおばあちゃんっ子で夏休みや冬休みの度に駄々をこねてまで連れて行ってもらっていた。祖母と私は年の離れた友だちのような関係で、泊まった際には一つの布団に一緒に入って眠った。私は祖母に学校や友だちの話をして、祖母は昔話や童話などをたくさん話してくれた。

 幽霊が見える話をすると祖母はしばらく黙って抱きしめてくれた。それから「菜生ちゃんのことはおばあちゃんが守るから大丈夫よ」と言って、背中をトントンと叩いてくれた。そのときだけ私は恐怖を忘れることができていた。

 ある年の夏、祖母は向日葵に水をあげていた私を側に呼んだ。すぐに飛んでいくと祖母は後ろ手に回していた手を広げて見せた。

「これ、お守り?」

「そう。おばあちゃんの手作り。菜生ちゃんが幽霊とか見て怖くならないようにパワー込めたんだよー」

「そうなの?」

「おばあちゃん、いつも菜生ちゃんと一緒にいられる訳じゃないからねぇ。ちょっとでも力になるといいんだけど」

 私は祖母に抱きつき、何度も「ありがとう」を言った。幽霊たちとずっと一人で戦わなくてはいけないと思っていた私に、祖母の手作りのお守りは何よりも安心できるものだった。

 理由は分からないが、それはただの気休めではなく、本当に効果のあるものだった。不思議と幽霊は見えなくなり、私は心置きなく日々を過ごすことができるようになった。私は祖母に心から感謝した。本当にパワーがあることに疑問を持ち、何度か理由を訊いたが、祖母は「それは秘密、だよ」と悪戯っぽくウィンクするだけで結局教えてくれなかった。


 そんな祖母が少し前に亡くなった。私が中学生になった年から入院していた祖母の体は一進一退の様子を見せていた。祖母はほんわかしているように見えてとても強い人だったので、絶対に良くなると信じていた。しかしそんな願いも空しく、去年の暮れ頃から急に体調が悪くなり、数ヶ月後に息を引き取った。

 私の自宅の近くの病院に入院していたので、少なくとも週に一回はお見舞いに行っていた。病床でも私が来ると起き上がってニコニコと話を聞いてくれた祖母はいつも私を気にかけてくれた。

「菜生ちゃん、最近は大丈夫? 幽霊、見てない?」

「大丈夫だよ、おばあちゃん。おばあちゃんのお守りあるし。それに私もう高校生だよ? いろいろ上手くやれるようになってるって」

 お守りはもらって以来常に身につけるようにしている。

「そうかい? お守り、まだ効いてるんだね……。良かった……」

「そうそう。だから、心配しないで」

 そんな会話をしたのも、すごく遠くのことに感じる。祖母が亡くなったことによって、私の心の真ん中に大きな穴が開いてしまった。


 それだけでも精神的に負荷が掛かっているのに、さらに新たな問題が浮上した。再び幽霊が見えるようになったのだ。その数は小学校高学年のときに見えていたものの比ではなかった。酷いときには教室に入ったときにクラスメイトの数と幽霊の数が大体同じこともあった。さらに厄介なことに、人間と幽霊の区別が付きにくく――体が透けない幽霊も例外的にいるらしい――なってしまった。

昼休みに廊下ですれ違った人が格好良く、思わず見惚れてしまったことがあった。

「ねぇ菜生ってば、話聞いてた?」

「あ、ごめん」

「菜生、何もないトコボーッと見て、どうしたの?」

「え……」

 背筋が寒くなった。

「だって今すれ違った人……」と恐る恐る言っても皆「誰ともすれ違ってないよ」と首を捻るばかりだった。ポケットの中のお守りを握りしめる。

 それから誰と話すときにも彼らが人間なのか幽霊なのかを判断していかなければならなくなった。間違って幽霊と話をしたら私は死んでしまう。その恐怖を隠しきることはできなかった。せめて友人たちには知られないようにしていたが、それも簡単ではなくなった。

 不審そうな顔をするクラスメイトたち。周りに溢れ出る幽霊たち。私を守ってくれるおばあちゃんはいない。高校生になって少しは成長したと思っていたが、恐怖心は小学生から少しも変わっていなかった。

 友人たちが困ったような顔で離れていくのが嫌だ。もうおばあちゃんを頼ることができないのが嫌だ。一人でこの恐怖に耐えなければならないのが嫌だ。毎日毎分毎秒幽霊の姿を恐れながら過ごすのが嫌だ。

 もう逃げたい。逃げたい。逃げ出してしまいたい――。


 *


 私の話を結城さんは静かに聞いていた。

「ごめんね、こんな意味分かんない話……」

「ううん、全然。寧ろあんまり話したことない私に話してくれて嬉しかった」

 結城さんがニコリと笑う。「少しは楽になった?」

「うん。ありがとう」

「それでね、私も小泉さんに言いたいことがあるんだけど……」

「ん? 何?」

「私ね、幽霊を近づかせない力があるの」

「え、結城さんも見えるの?」

 驚いて結城さんを見ると、彼女は照れくさそうに笑った。

「お祓い、とかそういうのじゃないんだけどね。多分小泉さんのおばあさんも似たような力を持っていたんだと思うの」

「そうなんだ……」

「ちょっと周りを見てみて」と言われて屋上を見渡すと、校内の人はもちろん、幽霊も誰一人としていない。

「ね? 私たち以外に誰も、他の幽霊もいないでしょ?」

「ホントだ……。え、すごい……、すごいよ、結城さん!」

 思わず身を乗り出す。すごく嬉しかった。誰にも頼れないと思っていたのに、クラスにこんなに心強い味方がいたなんて。祖母のときと同じくらい、もしかしたらそれ以上に強い安心感を得た気がした。強ばった頬が緩み、笑みが広がっていくのが分かった。もう幽霊に怯える必要もないんだ。

「ふふふ。だからね、小泉さんは何も心配しなくていいの」

「良かった……! ホントにありがとう!」

 彼女はニコリと笑って頷くと、「行きましょう。皆待ってるよ」と手を差し伸べた。

 その手を取って彼女と共に歩き出す。それまでの恐怖から解放されて安心したためか、フウッと眠気が襲ってきた。昼休みのおわりを告げる予鈴が遠くに聞こえる。次の授業は日本史だっけ。これは授業中に寝てしまいそう。あの先生の声子守歌みたいだし……。

 前方に古い手すりが見えてきた。結城さんのヒンヤリした手が私の手を引いていく。


 耳元で風がヒュウッと鳴った。

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